傘を傾ける

六月の終わり、梅雨が深まってきたころ、私がいつものように傘を差し、雨音を聞きながら歩いていると、目の前を歩く親子が、子供側に傘を傾けている様子を見た。よくある親子愛が現れた瞬間であろう。そんなよくある仲睦まじい光景は私に国語の授業で出てきたある場面を思い出させた。
それは、好きな子と相合い傘をして、傘が狭いためにその子が濡れてしまいそうになっている時、その子を濡らせないように傘を傾け、自分の左肩が濡れてしまうという場面だった。
それは愛するものに傘を傾けることでそのものを守り、自分が濡れてしまうという面で似ているため、思い起こされたのかと思ったが、本当に私の注意を向けさせたのは傘を傾けるという行為であった。
その行為は一般にあまり頻繁には行われない行為である。なぜなら、傘を刺すという行為は日傘の場合を除いて普通雨の日にしか行われない行為であり、傘を傾けていると雨に濡れてしまうからだ。つまり傘を刺すという行為の意味を投げ出してまで、自分の体を守ることを厭わず、濡れることを認める動機がある。

それは一体なんなのであろうか。

まず単純に一つの面を考えると、私が例で示していることからもわかるとおり、他者への愛だ。親は子に雨に濡れて欲しくないために傘を傾け自分を濡らし、男の子は好きな子に対し同じようなことをする。それは親子愛か異性愛かの違いであり、ここではさほど重要にならない。
確かにこの考えも正しいものであり、このような愛に対する描写を好むもの多いだろう。しかし私自身に当てはめるとこの理論は正しくなくなる。私は夜の街を一人で歩いているとき、突然傘を傾け、雨に打たれたくなる時がある。当然私には明日も予定があり、雨に濡れて風邪をひいてはいけないので我慢するのだが、今日世界が終わるなら、私は喜んで傘を傾けるだろう。
何をいっているんだと思われそうだが、ここで言いたいのは私の奇怪な行動ではなく、傘を傾けることは一人でも行う可能性があるだろうということだ。これに納得できないなら小説で絶望のあまりに傘から手を離し、雨にただ打たれてしまう主人公を想像してもらうことでも良い。言いたいのは、雨に濡れたくないはずなのにそれを防ぐ傘を使わず濡れることは相手がいなくても行う可能性があるということだ。この可能性により、他者への愛だとする仮説は棄却される。
では傘を傾けることはどんな意味があるのか。
その根本を考えるには、やはり大元となる雨について考える必要があると思う。えてして文学や小説において、雨は悲しみや嫌なことの象徴である。悲しい場面において雨が降っていたり、逆に主人公の悩みが消えると同時に雨が止み虹が現れたりするのは頻出の表現技法とかそういうものですらなく、もはやお決まりの約束事である。そして傘という物体は先述の通り、その雨を遮るものとして使われてきた。これはいうまでもなくその嫌なことから逃れるための道具としての役割が非常に大きく、それは現在でも全く変わらない。小説において、雨を凌ぐことに使われるのは大きく分けて傘、雨宿り、そして晴らすことの三つである。それぞれの与える印象は、微妙な違いがあり、傘が持つ印象は雨宿りの持つ雨から逃げるというものや、晴らすことの持つ雨をなくして濡れなくするというものとは違って、雨を防ぐという面が強く押し出されている。つまり、傘を刺すという行為は受動的でなく能動的なのである。雨という事象に対し逃げるのでもなく、無くすのでもなく、理性的に対処し、自分を守ろうとする心の表れである。そしてさらに言えば、傘は小道具であるため、他者から与えられることもできる。例えば、今まさに悲しみの渦中にいる主人公が雨の中、びしゃびしゃになりながらその場に座り込んでいる時に、親友が傘を差し出し、悩みや悲しみを聞くようなシーンは誰もが目にしたことがあるであろう。これは、傘は他者から与えられる一時的な休息にすぎないが、そんなものでも渡してあげたいというその者の愛や慈悲を示すものとして機能している。つまり傘は嫌なことや悲しいことから逃れたり他人から傘を差し出されることで他者から救いを与えられる象徴として示す意味もある。
ではそんな傘を傾けるとはどういう意味であろうか。
そこには、雨という悲しみや迷惑の象徴を被っても良いとする強固な意志があるのではないだろうか。そこに傘を傾けるものの怯懦があるはずもなく、雨に濡れてでもなお自分の感情や思いを表現したいというその一点のみがその行為には注力されている。これは他者へ差し出したり自ずから傘を傾けるのでも相違ない。なぜならば、喜びや悲しみであったり、他者への愛、はたまた自己愛を示すものであっても、自分の堪え難き内的欲求を外界へ放出するものとしてその行為は存在しているからだ。
感情に行為が支配されることは望ましくない行為であり、行動は理性によって制御するべきであると位置付ける者もいるであろう。確かに、そのようなことが他者によって指摘される多くの場面では、求められるのは論理的思考によって導き出される多数のものを納得させる解であるため、それも正しいと言えるだろう。しかし一方で、感情によって押し出されることで世界に姿を現した行動は、理性によって曲げられていないからこそ純粋であり、見た者を感動させる。であるからこそ、論理的思考の名の下に自らの感情を押し殺し、理性によって行われる行動のみを賢とする現代の風潮に全面的な賛を送れずにいる。ある一つの激情に呼応する形で行われたことは、単なる一時的な快楽消費ではなく、今後の人生において役立つ自分のより深い自己を知覚するのに効果的なものとなる。例えば、自分の愛する者に傘を傾ける時、それによって自らのその者への愛を認識し、それが揺らぐような時が来たとしても、当時の自分を振り返り、その時確かにそこにいた自分自身を感じることができる。
また、激情によって示された行動は、私がそうであったように、他者の心を動かすことが出来る。吐き出された行動に共鳴し、自己を発見する手がかりとなり得るのである。
つまり、傘を傾けるという行動は、動作主の感情表現の一種であり、それによって自己を自覚する手段の一種であると言える。だからこそ傘を傾けるという何気ない、多くのものが気づかないような行為に私は感動した。それを見ても、感動を起こさず、いたいたしいと思う人もいるかもしれない。しかし、それでもよいのだ。理解できなかった場合は自分にその面が無かっただけであり、それもまた自己の発見の一つなのである。そこにはただ、自己の納得だけが存在しており、他人にわかってもらう必要などないのだ。そこが理性と大きく異なる点であり、私が理性のみの世界を是としない理由である。理性によって完全に統率された世界では、人は皆同じ結論に到達し、それは共同体を納得させる。しかし、その結論に納得できない者がいる時、その者を排斥することによってしか全ての人が幸福となることは達成されない。一方理性と感情が共存する社会では、世界には多数の結論が存在し、各人が納得できる考えを持つことができる。たとえそれがトレードオフの状況のものであっても、多様な意見の尊重によって私たちは共存できる。それは一見バラバラに見えるかもしれないが、整った世界の形であると、私は思う。傘を傾けることをいつまでも微笑ましく見守っていられる世界であり続けることを切に願っている。そんなことを考えながら歩く私は、少し雨を被りながらも幸せだった。

#創作大賞2026 #エッセイ #雨の日を楽しむ


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