優しさと甘さの置き場所|Fマート浪速人情店(コンビニ短編小説)
深夜二時前後。
Fマート浪速人情店では、床のワックスが光を薄く返していた。
ビニールが触れ合う軽い音だけが、静けさに混じる。
中村は棚拭き用のクロスを折り直し、菓子棚の端から端まで同じリズムで拭いていた。店長はレジカウンターの内側で、レジ点検表を片手にキー操作と表示を一つずつ確かめていた。
「……店長」
中村は拭く手を止めずに言う。声だけが棚の規則正しい列に滑り込む。
「優しさと甘さの違いって、結局どこなんですかね」
店長はレジ画面に指先を置いたまま、目だけ中村の方へ向ける。
「また急に重たい球投げるなぁ。……ええけど」
「すいません、僕、重たい球しか持ってなくて」
「それはそれで才能や」
中村は笑いながら、棚の値札の端をクロスでなぞる。値札の角が一枚だけ反っていて、拭いても拭いても戻らない。
「これ、見てください。値札だけ、反ってるんですよ。ここだけ。意地あります?」
「意地ちゃう。乾燥や。空調の風、ここだけ当たってんねん」
「値札にも風当たりってあるんですね……世知辛い」
「世知辛い言うな。値札は泣かへん」
中村は棚を拭きながら、少しだけ声を小さくする。
「僕、つい“優しさ”やと思って、やり過ぎる時あるんですよ」
「何を?」
「箸です」
店長の指が止まる。レジ点検表の「釣銭機」の欄にペン先が浮く。
「箸?」
「はい。なんか最近、箸だけやたら減ってません? スプーンもフォークも減るんですけど、箸だけえげつないんですよ」
「……減ってるな」
「これ、僕が“どうぞどうぞ”で、つい多めに入れてるからなんかなって」
店長はレジの小銭残量を確認しながら、言葉を選ぶみたいにゆっくり言う。
「原因、そっちに全部背負わせんでもええ」
「でも、僕、やりがちなんです。お弁当買う人にも“二膳入れときますね”とか」
「二膳は、まあ、家庭持ちの人やったら……いや、一人でも使うか」
「使いますよ。僕なんて、家で一膳使って、もう一膳は……なんか、心の保険に」
「箸に保険かけんな」
中村は「すいません」と言いながら、棚の端に溜まっていた小さな粉をクロスで集める。
「優しさって、相手のためにって感じするじゃないですか。でも甘さって、相手のためのフリして、自分が楽になってる時もある気がして」
店長はレジのプリンタを開けて、紙の残量を見た。
「“甘さ”言うても色々ある。砂糖みたいに、入れたら味変わるやつもあるし」
「はい」
「入れすぎたら、全部それになる」
「全部それになる……」
「けど、入れへんかったら、苦いままの時もある」
中村は一瞬、拭く手が止まりそうになって、すぐに動かし直す。
「……じゃあ、適量ですか」
「お前、すぐ正解欲しがるな」
「僕、棚は端から端まで拭けるのに、こういうの端が無いんですよ」
店長はレジ点検表に丸をつける。
「優しさってのはな、相手が“次もここ来れる”状態になるやつや」
中村の手が、棚の上で一拍だけ止まる。
店長は続ける。
「甘さは、“今日だけ無事”にする時もある」
「……今日だけ無事」
「それが悪い言うてへん。夜って、今日だけ無事がいる時もある」
中村は棚の下段にしゃがんで拭きながら、声だけ明るくする。
「夜勤って、たまに“今日だけ”の人来ますもんね。僕も“今日だけ”で生きてる日ありますし」
「お前、毎晩“今日だけ”やろ」
「え、バレてました? じゃあ僕、毎晩甘い男ですね」
「甘い男は、せめて棚はピカピカにしとけ」
「はい、甘い男、今、棚の甘さを拭き取っております」
そこで自動ドアが開いて、外の冷たい空気が一瞬だけ店内に流れ込む。作業着の男が入ってきて、ホットショーケースの前で立ち止まる。肩のあたりに白い粉みたいな汚れがついていて、袖口だけ少し濡れていた。
「……あったわ」
男は小さくつぶやいて、揚げ物を一つ取り、レジに来る。
「いらっしゃいませ」
中村が言って、会話がすっと途切れる。店長は点検の手を止めずに、レジの画面を切り替える。
「これと、コーヒー。あ、砂糖二本」
「かしこまりました。砂糖二本でございますね」
中村はホットスナック用の袋を開き、男に渡す。男は軽く会釈して、会計を済ませて出ていく。自動ドアが閉まると、空気がまた元の静けさに戻った。
中村は棚拭きに戻りながら、ぽつりと言う。
「今の人、砂糖二本って言いましたよね」
「言うたな」
「僕、こういう時、砂糖三本入れたくなるんですよ。優しさで」
「それは甘さや。しかも砂糖の」
「え、じゃあ砂糖は甘さで確定なんですね」
「当たり前や」
中村は笑って、棚の角を丁寧に拭く。
「でも店長、箸も、砂糖も、なんか似てません?」
「何が」
「“足りてへんかったら嫌やな”って気持ちが出るところが」
店長はレジのドロワーを開けて、釣銭の並びを見てから閉める。
「“足りへん”を先回りするのは、仕事としてはええ」
「はい」
「ただな、先回りが“怖い”から出てきたら、甘くなりやすい」
「怖いから……」
「相手が困る顔見たない、とか。自分が悪者になりたない、とか」
中村は、拭く手を止めずに首だけ傾ける。
「僕、悪者になりたないです」
「そら誰でもや」
「でも店長、店長って、悪者になる時ありますよね」
店長はペンを置かずに言う。
「守るもんがある時だけな」
「うわ、出た。店長の“守るもん”」
「大げさに言うな。レジと朝や」
中村は棚を拭きながら、小さく息を吐く。
「僕、たぶん“守るもん”が人の顔なんですよ。困った顔、しんどい顔」
「ほな、顔守ってるつもりで箸増やしてたら、箸の在庫が死ぬ」
「箸が死ぬって言い方、優しくないです」
「箸にも命あるんや。……いや知らんけど」
「知らんのかい」
中村が棚の中段に移る。ここまで拭いてきた場所が、目で見て分かるくらい整ってきた。
「店長、僕、半分くらい来ましたね」
その一言で、作業の進み具合が空気に乗る。
店長は「ほう」と短く言って、レジ点検の残り欄を指でなぞる。
「お前、半分って言えるのええな。俺なんか、点検は“終わるまで終わってへん”から、ずっと地味や」
「地味が一番強いです。地味は裏切らない」
「またそれ、深夜の名言みたいに言うな」
「すいません、僕、棚拭いてたら名言出るタイプで」
「ほな明日から名言棚作れ」
「いや、名言棚、絶対ホコリ溜まります」
店長が顔を上げる。
「……なあ中村」
「はい」
「お前が箸多めに入れる時、相手は何も言わんのか」
「言わないです。たまに“ありがとうございます”って言ってくれます」
「その“ありがとうございます”が、甘いんか優しいんか、分からんくなるんやろ」
「……はい」
中村は、丁寧語のまま少し照れた声になる。
「僕、褒められると弱いんですよ。ありがとうございますって言われたら、次も頑張ろうって……」
「それはええことや」
「え、じゃあ優しさですか」
「いや、それは……」
レジ横で、ビニールが一枚、ぱちっと鳴る。
中村がふと、言葉を探している間に、店長の耳が変な方向へ立つ。
「……傘?」
「え?」
「今、お前、“傘”言うたやろ」
「言ってないです!」
「言うた。『ありがとうございますって言われたら、次も頑張ろうって“傘”が――』って」
「そんな文章、僕、絶対言わないです!」
「ほな何や」
「“差”です! 優しさと甘さの“差”です!」
「……ああ。差ぁ……」
店長は一瞬、点検表を見たまま黙る。中村は棚を拭きながら、丁寧に追い打ちする。
「店長、今の聞き間違い、めちゃくちゃ優しいですよ。僕、ちゃんと差って言ったのに、傘にしてくれた」
「優しさちゃう。老化や」
「そこ、甘く見積もりましょう」
「甘くすな」
二人の笑いが、小さく落ちて、床の反射に吸われる。
店長はレジ点検の最後の欄を確認し、ペン先で丸をつける。
「……ほな、次の朝の話するで」
中村は棚拭きの手を止めず、「はい」と返す。
店長はレジの横に置いたロール紙を指で押さえながら言う。
「朝ってな、客も増えるし、店も明るくなる。明るくなったら“ごまかし”が効かへん」
「はい」
「夜は暗いぶん、優しさも甘さも、似た顔して見える時がある」
「似た顔、めっちゃ分かります。暗いと、同じ服に見えるみたいな」
「せや。夜に合わせたら、朝にズレる」
「……うわ、それ、効きますね」
中村は棚の端の値札を、もう一回だけクロスでなぞる。反りは戻らないままだ。
「じゃあ、優しさって、朝にズレないやつですか」
店長は少しだけ笑いながら、でも声は軽い。
「ズレにくいように、置き方を考えたやつや」
「置き方……」
「たとえば箸な。二膳入れて喜ぶ人もおる。けど毎回二膳入れたら、箸は減る。朝の補充が慌てる。客も“今日は無いんか”ってなる」
中村は「はい」と頷きながら、棚を拭く。
「それって、結果として誰も助けへん」
「……うわ、店長、それ、刺さります」
「刺すな。解体してるだけや」
「解体、怖いです」
「怖いから、置き方考えるんや」
中村は声を明るくする。
「じゃあ僕、箸、今日は一膳でいきます。怖いので」
「それはそれで理由が変や」
「怖いって言ったら、なんか賢そうじゃないですか」
「賢そうにするな。賢くやれ」
「はい!」
店長は点検表を閉じて、レジ下の引き出しをゆっくり押し込む。
「……よし。レジは終わりや」
その一言が、作業の完了をきちんと告げる。
中村は棚拭きを続けたまま、顔だけ向ける。
「お疲れさまでございます」
「お前、まだ終わってへんのか」
「はい。僕、棚が長い男です」
「長い男は嫌われるぞ」
「じゃあ短くします。……って言いたいんですけど、棚は短くならないです」
「当たり前や」
店長はカウンターの外へ出て、棚の前に立つ。
「ほな、手伝うわ」
「ありがとうございます。え、これ、優しさですか、甘さですか」
「……作業や」
「出た、作業で逃げるやつ」
「逃げてへん。朝にズレへんやつや」
店長は中村の横で、同じクロスを受け取り、棚の下段を拭き始める。拭く、拭く、拭く。二人の動きが並ぶと、店内の静けさが、少しだけ“働いてる音”になる。
その時、中村がふと、箸の補充ボックスの中を見て、小さく笑った。
「……店長」
「ん」
「箸、減る理由、分かったかもしれません」
「何や」
中村は丁寧に、ボックスの中から細長い白いスティックを一本取り出す。
「これ、箸じゃないです」
店長が覗き込む。
「……砂糖やないか」
「はい。さっきの人の砂糖が、ここにいます」
「誰が入れたんや」
「多分、僕です。さっき、砂糖二本って言われて……“箸も似てるな”って思ってたら、手が勝手に」
「お前、優しさと甘さ、物理で混ぜるな」
「すいません。僕、差が分からなくなると、傘も分からなくなるんで」
「傘は関係ない」
中村は砂糖を戻さず、棚の上のコーヒーコーナーへ丁寧に置き直す。
「……じゃあこれ、僕の甘さが、箸の場所に出たってことですね」
店長はクロスで棚を拭きながら、短く言う。
「せやな。甘さは、甘い所に置け」
「優しさは?」
「……箸は、箸の所や。人に置くなら、明日のぶんも見て置け」
「めっちゃ現場の答えやのに、なんか人生っぽいです」
二人は小さく笑って、また拭く。拭く。拭く。
床のワックスが、二人の足元の影を薄く伸ばす。ビニールの軽い音が、レジ横で一度だけ鳴る。
からっぽのレジ前に、夜だけが、先に帰る気配を見せなかった。
