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私の夫は宇宙人〜契約結婚・観察日記〜 #02

[洗面所]における表面粗度の追求  

今朝も洗面所から聞こえる電気シェーバーの音。これも彼の毎朝のルーティンのひとつである。時計を見ると、彼がそこに入ってから既に15分が経過している。

​そっと洗面所の扉を開けると、彼は鏡に顔を極限まで近づけ、ミリ単位の角度でシェーバーを動かしていた。その表情は、未知の惑星の地質調査でも行っているかのように厳粛だ。

「おはよう、コウさん。今日も精が出るわね」軽い嫌味のつもりである。

「おはようございます、雫さん。
この地球において、皮膚表面における0.01ミリの誤差は、擬態の安定性を損なう致命的なノイズです。触覚的な不整合をゼロにしなければ、地球人としての解像度が保てません」

表面粗度:表面の凸凹の程度のこと。
要するに、ツルツルになるまで終わらない彼のこだわりのことである。

​「解像度も何も、誰もあなたの顎を触ったりしないし、そんなに接写で見てないと思うけど。朝の時間は有限なのよ、効率を重視するんじゃなかったの?」

「効率とは、最短時間で終わらせることではありません。再処理の必要がない、完璧な平滑面を作り出すことです」

彼はそう言い切ると、再び「ウィィィン」とシェーバーを当て始めた。一箇所を、何度も、何度も。

私から見れば既に何も残っていない場所に、彼はまだ「宇宙のバグ」を見出しているらしい。

​やがて20分が過ぎた頃、ようやく彼は満足げに言った。

「完了しました。現在の私の顎は、摩擦係数において最大限に優れた状態にあります」

​「そう。それは良かったわね」
​私は、ツルツルを通り越して少し赤くなっている彼の顎を冷ややかに一瞥する。

本人は至って真面目に、地球人としての擬態のクオリティを維持しようとしているのだろう。

その情熱が、単なるヒゲ剃りに20分を費やすという、極めて非効率な結果を招いているというのに。

やはり、宇宙人とは難解な生物である。


「換気扇」の下の攻防戦

彼は毎日の完璧な家事という儀式を通じて、この家という宇宙の秩序を守っている。

私は日々の煩わしい家事の一切を彼に押し付け、仕事に没頭する自由を手に入れた。

はずだったのだが……

彼はその裏で、我が家では禁じられているニコチンというエネルギーを密かに摂取しているのだ。

私は昔から、匂いには人一倍敏感だった。
そのせいで、喫煙行為だけはどうしても受け入れることができない。

タバコという猛毒物質を、わざわざ身体に取り入れるなどという愚行は、全くもって理解不能である。

当初、彼はしれっとリビングでのデフラグ(喫煙)を試みたが、攻防戦の末、私が勝利を収めた。

諦めた彼は、その後、棲息地を換気扇の下へと移した。

しかし、たとえ換気扇の下であろうと、私の敏感過ぎる嗅覚を騙すことなどできないのだ。

そして今日も今日とて、キッチンから聞こえる換気扇を回す音と、私の書斎にまで届く微かな匂い。あの家政人(カセイジン)が、またコソコソやらかしている。

私がキッチンへ向かうと、そこには高度な文明を持つはずの宇宙人が、換気扇の下に生息していた。

換気扇の暗がりに立つ、シュッとしたイケメンの後ろ姿。
エレガントにタバコを燻らせるその繊細な長い指先。

頭上の換気扇から漏れる光が、彼の横顔をわずかに照らす。
宇宙の深淵を覗いているような哀愁と、換気扇という生活感の凄まじいギャップ。

「・・・辛(コウ)さん。何をしているの」

​私の静かな怒りに、宇宙人の肩がびくりと跳ねる。
振り向いた彼は、完璧なポーカーフェイスを維持しようとしているが、光学センサーである瞳は、落ち着きなく右へ左へ泳いでいた。

家事もご近所付き合いも卒なくこなす、この高度知的生命体が、私の怒りの感情に関する周波数を察知すると処理スピードが著しく低下、視覚センサーの激しい振動、つまり「目が泳ぐ」

特に隠蔽(隠れタバコ)がバレそうになった時、そのバグは顕著に現れる。

​私が放つ一言「くさい!」

​その瞬間、本個体に見られる微かな硬直。
換気扇の下という世俗的な場所で、目を泳がせながら必死で宇宙規模の言い訳をする。

​「雫さん、我々の星では煙によって情報整理、つまりデフラグをしています。これは情報量の多い地球においては不可欠なメンテナンス行為なのです」

彼は真顔でそう言い張り、必死に左手で煙を振り払う。

高度な知性を持つはずの彼が、なぜ物理法則(匂いの拡散)を無視できると信じているのか。

デフラグ——
本来ならコンピュータ内の断片化したデータを整理し、処理速度を向上させるための作業を指す言葉だが……

​たぶん彼は「隠れてタバコを吸いたい」だけなのだろう。

それを「母星から課されたメンテナンスの一環」だと言い張るのだが、私はこれを事実だとは信じていない。
(言い訳にしか聞こえない)

私にとってタバコの匂いは由々しき大問題。
たとえ微かであってもイライラの着火点に達するには充分だった。

私たちは、互いの銀河(領域)に決して土足で踏み込まない不可侵条約を交わした。 

そこに「禁煙」という項目を入れなかった痛恨のミスが悔やまれる。


我が家は1LDKS、1部屋は私の寝室兼仕事用の書斎として使っている。
もちろん、各部屋に空気清浄機は設置済みである。

もうひとつのS(サービスルームと呼ばれる窓もない小さな部屋)を宇宙人である彼が使っているが、そんな窓もない小さな部屋で喫煙をされては堪らない。壁紙が変色して、匂いが染み付いてしまうではないか。

そんな生活環境の中で、​私は「室内禁煙」を強く主張するのだが、彼らの母星の文化圏では、屋外でデフラグ(喫煙)を行う行為は非常に下品とされ恥ずかしいことのようだ。

屋外でタバコを吸うという選択肢は彼らの母星にはないとのこと。ベランダも屋外に該当するらしい。あくまでも自室内のみで許される必須メンテナンスであるとの主張。家の中なら、誰かに見られても平気なようだ。

よくわからない論理だが……まぁ、彼らには彼らなりのルールがあるのだろう。

「コウさん、それを世間では『依存』って言うのよ。どうしてもというのなら、せめてどこかの喫煙所で吸ってくれない?」

「雫さん。我々の文化圏においては、公衆の面前で喫煙をすることは下品で恥ずべき行為とされています。自宅で家族の前のみで許される嗜みなのです」

私たちの話し合いは、いつも平行線である。

そして一悶着あった後は、なぜか彼の言葉がたどたどしい。

どうやらアップデートして、私の怒りの周波数を下げる最適解を必死に探しているようだ。

そんな状況を打破すべく、彼はさらにルーティンの精度を上げることでバグを修正しようと試みているらしい。

寸分違わぬスケジュールで供給物資(買い物)を持ち帰るその姿は、まるでプログラミングされた忠実なロボットのようでもある。

しかし、それ以上の負荷がかかるとフリーズするようで、時に沈黙という反応になる。
これも生存反応の一種だろうか。

隠れタバコを止めれば、すべて解決するはずなのだが……

私だって、喫煙以外のことであれば、できる限り受け入れる準備はある。

つまり、タバコさえなければ利害関係は一致して、平和を維持できるのだ。

相変わらず無防備にカウンターの片隅に置いてあるパソコン。
見るとはなしに覗いてみると――


【観測対象:個体認識 雫の反応】

​対象者 : 
雫に関する3.2ミリの警告ボルテージの値について。

​観測事象: 
換気扇周辺における燃焼プロセス(デフラグ)の実行。

対象の反応: 
書斎より出現。キッチン進入時の歩幅が通常より12%拡大。

スキャン結果:
対象の右眉尻が、水平基準線より3.2ミリ上方へ変位を確認。

これは過去のデータ照合により、怒りのボルテージが「臨界点(強制シャットダウン・レベル)」の88%に達したことを示す警告シグナルと断定。


​対応策:
1、​直ちに燃焼行為を中断。
2、左手による物理的排煙プロセスの強化。
​3、緊急回避(謝罪)を試みるも失敗。


考察:
わずか3.2ミリの肉体的変化が、これほどの威圧的エネルギー(殺気)を放出するメカニズムは未解明。
地球人の顔面筋肉と感情の相関関係には、母星の重力定数に匹敵する複雑な数式が存在する模様。地雷を踏まない最適解を試みてはいるが、現在難航中。

ちょっとなんなのコレ……!? 

宇宙人 VS 地球人の、静かなる攻防戦は続く。

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