私の夫は宇宙人〜契約結婚・観察日記〜 #06
異変
彼が私に歩み寄り(私の体調不良とイライラ対応策として)自ら喫煙によるデフラグを放棄してから、二ヶ月あまり。
私たちは絶妙な距離感で、平和な日常を取り戻したように見えたが……
ここのところ、家の中に様々な「バグ」が溢れ出している。目に見えて、彼の挙動がおかしくなってきたのだ。
洗濯物を干しながらフリーズし、ゴミ袋の結び目がシンメトリーの様相を崩し傾いている。
私との会話もたどたどしく、時々僅かなフリーズが見られる。
そして今日、彼はセクター(ルンバ)を抱き上げ、空を見上げていた……
これもデフラグ禁止が原因だろうか?
契約時、「室内禁煙」を提示しなかったのは、私の落ち度である。
確かに、彼は何も間違ってはいない。
その日の夕食、食卓に並んだのは、狂気を感じるほど正確な立方体たちの行進だった。
すべてが正確な立方体(キューブ)に切り揃えられた食材。
肉も、大根も、豆腐も、すべてが1.5センチ角。
「効率的な咀嚼と、雫さんの消化を優先した結果、この形状が最適解となりました」
と真顔で言い張る。
遠目で見ればオブジェに見えなくもないが、あまり食欲をそそるものではなかった。
かつて皿の上に、まるでアートを描くように繊細な盛り付けをした同一人物(同一個体)のものとは、到底思えるはずもなかった。
ついには、彼が無意識に独り言を呟き続けるようになった。
それも人間らしい愚痴ではなく、システムログのような無機質な羅列。
キッチンから小さな呟きが聞こえてくる。
「……酸素、二酸化炭素、ニコチン、欠乏、処理優先順位の変更、キャッシュクリアに失敗…」
何やら小声で意味不明な独り言をブツブツ言いながら、エプロンを裏返しに着けて立ち尽くす姿——
私は、ここでようやく「彼にとってのデフラグの本当の重要性」を理解した。
喫煙によるデフラグ(情報整理)は宇宙人の彼にとって、単なる嗜好品などではなく、正常な生命維持のために不可欠なものだった。
もうこれ以上、彼の生命体としての権利を奪うことはできない。
デフラグの間は空気清浄機を「強」にして書斎に籠もれば、何とか凌げるだろう。
その時、チャイムが鳴った。
何か荷物を頼んだ覚えはないが、買い物に出ている彼の代わりにインターホンに対応すると、近所のマダムたちだった。
ドアを開けると
「あっ、これコウさんの好きなキュウリよ」
横田さんからビニール袋を渡される。
「あの…いつもすみません」
私が礼をいうと、向井さんが口を開く。
「急に押しかけてごめんなさいね、
なんだか、最近のコウさんが元気がなくて、みんな気になったのよ…
何かあったの?夫婦喧嘩?
それとも具合でも悪いのかしら?
心配だわ…」
ご近所のマダムたちからの心配そうな声に、彼が地球でうまく人間関係を構築していることに今更ながら気付いた。
ご近所の平和維持にも貢献してくれていたのだ。人見知りな私は、彼にどれほど助けられていたのだろう。
そして私は、買い物から帰宅した彼に急いで伝えた。
「コウさん、今まで本当にごめんなさい……私、誤解してたわ。デフラグを認めます」
その瞬間、彼の瞳の中の光学センサーがカチリと音を立てて輝きを取り戻した。
「雫さん……その発言は、私の量子プロセッサを救うだけでなく、地球と我が母星の間の友好条約を再締結するに等しい歴史的な英断です」
「もう…大げさね。私は書斎に居るから」
彼は何度も頭を下げながら、スキップでもしそうな勢いだ。
私は書斎に籠もった。キッチンからは、換気扇を最大に回す音がする。
しばらくすると彼が窓を開け、空気の入れ替えをしているようだ。もう匂いはなくなった頃合いか。
リビングに行くと、ひと心地ついたらしい彼が、不意に私の顔を覗き込んできた。
「雫さん、報告があります。現在、あなたの顔面筋肉センサーをスキャンした結果、口角の角度が0.8度上昇し、眉間の収縮率が12%低下しているのを確認しました」
「……何よ。ただの顔色チェック?」
「いいえ。これは『許容』という名の非論理的な感情が、私のデフラグ成功に伴って、あなたの内部にもプラスのフィードバックを与えた結果であると推測されます。つまり、この等式が……」
「はいはい、等式はいいから。その顔面スキャンの結果、私が次に何を言うか予測できた?」
私がそう言うと、彼のセンサーが忙しく振動した。
「……予測シミュレーションを実行中……『掃除をサボった分のデバッグ(床拭き)をしろ』でしょうか?もちろん、最高精度の摩擦係数で仕上げます」
「そうね、それもいいけど…美味しいコーヒー淹れてくれる?」
「承知しました。雫さんのお好みに合わせた最適解で」
彼は満足げに答え、優雅な手つきでお湯を沸かし、コーヒー豆を挽くのだった。
ゴミ集積所のパワースポット化
私たちは歩み寄り、たばこによるデフラグが復活したが、問題はその匂いと人類にとっての猛毒物質をどう処理するかだ。
「臭気物質を消すだけでは不十分です。雫さんの驚異的な検知能力を欺くには、未踏の芳香で上書きし、脳を混乱させるのが最適解です。
早速、試作品作りに入ります」
そう言って彼は家事以外の時間、自室のサービスルームに引き篭もった。
そして数日後、ようやく晴れ晴れしい顔でリビングにやって来た。
「雫さん、母星の物質を使って試作してみました。地球人にとって悪影響のあるニコチンの分解にも成功しました」
彼がゴミ袋にシュッとひと吹きしたその液体は、確かにタバコと生ゴミの匂いも、跡形もなく消し去った。
しかも、再構築された香りは、地球の安っぽい芳香剤とは次元が違っていた。
ゴミ袋から漂うのは、どこか遠い銀河の宮殿を思わせるような、この世のものとは思えない高貴な、それでいて何だか拝みたくなるような香り。
彼は母星の分子分解技術を応用し、独自の芳香変換剤を精製したのだ。
だったら始めから、これを使えばいいものを……
そこまで言葉が出かかったが、それ以上になんだか気持ちがほぐれていくような、不思議な幸福感に満たされてくる。
思わず手を合わせたくなるような……
「コウさん、……なんかこの袋、神々しいんだけど?」
「これは『慈愛の周波数』を放っています。雫さんの攻撃性を8.75%減衰させる効果も期待できます」
その後、この界隈では予想外の事態が起きた。
彼がゴミ集積所にその袋を置くたび、周囲に漂う「宇宙的芳香」に誘われて、近所の人々が足を止めるようになったのだ。
「ここに来ると心が洗われる」
「不浄が清められる気がする」
今やそのゴミ集積所は、ご近所のマダム方の間で「聖域」(パワースポット)として、密かに巡礼地化している。
実はタバコの匂いを隠すために、宇宙の分子分解技術を応用し、彼が必死調合した「宇宙の消臭剤」の副産物だとは、口が裂けても言えない。
やれやれ、これでやっと平和的解決に至り、双方に穏やかな日常が取り戻せると安堵したのも束の間……
ついにミッション完遂、彼の母星からの帰還命令が出たのだった。
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