【短編小説】十年後の海へ
波の音、という言葉がテレビから聞こえてきた。ふいに思い出したのは、あの日の荒々しく暗い海。
あの日より前の私にとって、海は優しさと包容力のイメージだった。まさに母なる海。海辺の街で生まれた私にとって、波の音は癒しの音だ。帰ってきたような安心感。包み込んでくれるような温かさ。そういうものが、海だと思っていた。
だけどあの日の海は違った。
あの夜、目の前にあったのは私を傷つけそうな海。暗くて、遠くに光る漁船の灯りが寂しそうに見えて、荒々しい波音は恐怖さえ感じた。
夜の海が初めてだったわけでもない。それまでだって、友達と花火をしたり、彼氏と浜辺を歩いたり、夜の海は昼間と変わらず私に優しいはずだった。
あの日初めて、海を怖いと思った。
その日より一週間前、大学一回生のときから付き合っていた彼氏と別れた。
別れた原因は、彼の心変わりだ。あと八か月ほどで卒業だというのに、どうやら彼は我慢できなかったらしい。私の親友(今はもう元彼氏だし元親友だ)と浮気をするという、なんともありがちな展開を作ってくれた。
卒業した後だったら二人の関係を許せたのかと言われれば決してそんなことはないけれど、少なくとも大学内で腫れ物を触るような扱いをされることはなかったはずだ。
私と元彼氏は、同じ学部の同じ学科、なんならゼミも一緒だった。入学したばかりの頃に開催された学科の飲み会で意気投合して、そのままの勢いで付き合うことになった。
実家へは飛行機を使って変える距離だという彼は、聞き慣れないイントネーションで話し、それがなんだか可愛らしく感じた。短髪で少し日に焼けていて、ひょうきんな感じも好きだった。お互いアパートは借りていたけれど、どちらかの部屋で一緒に過ごすことがほとんどだった。
大学でも一緒、帰ってからも一緒。それでも、いつも笑わせてくれる彼といて、飽きることはなかった。
入学したてからの付き合いで、いつも構内で一緒にいる。同棲もしているらしい。きっとあの二人は卒業したら早めに結婚するんだろうな。
そんなふうに周りから言われていたことに、私は気づいていた。
元親友の彼女も、私たちをニコイチだと言う側の人間だった。
彼女とは高校からの付き合いだ。高校時代は特別仲良かったわけではないけれど、大学に入ってからの“同じ高校”は——とりわけ同じ高校出身者が少ない私たちのような場合には——なかなか強い意味を持つ。彼女もまた学科は違えど同じ学部だったこともあり、彼女の方から「頼りにしてる」「一緒でよかった」「私たち親友だよね」と急接近してきて、ただの高校の同窓生から突然の親友に格上げされた。
色白でか弱そうで、どこかウサギのぬいぐるみを彷彿させる彼女は、すごくモテるわけではないけれど、それなりに彼女に好意を寄せる男性もいた。だけど彼女から彼氏の話を聞いたことはない。そして「私もずっと一緒にいられる彼氏がほしいなあ」が口癖の子だった。
二人の関係を知ったのは、実家の母が体調を崩したという連絡で帰省した後だった。私の(そして彼女の)地元は大学から車で三時間ほど離れた場所にある。日帰りは少しきついし、四回生で時間に融通が利くからと、二泊三日で帰ることにした。
アパートを出る前の彼は、いつもどおりにしか見えなかった。後で振り返れば、少し浮かれていたかも、と思えなくもないけれど、そんなのは後付けにすぎない。いつもどおりの彼はいつもどおりの彼らしく、母を心配し、道中の私を心配し、何かあったらいつでも連絡して、と言った。
幸いなことに、母の体調不良は酷いものではなかった。すぐに回復する軽い貧血だったらしい。それでも念のため、帰省中は私と父と高校生の弟で家事を分担することにした。
帰省一日目の夜、彼にメッセージを送った。
『お母さんの具合はすぐ回復しそう。予定通り二泊して帰るね』
すぐに既読にはならなくて、二時間後に返事が来た。
『了解。無理しないでね』
帰省二日目、母はすこぶる元気になった。私から家事を取り上げ、早く大学に戻れとうるさい。たまに帰ってきた娘にそれはないじゃないか、と反論したけれど、「もうすぐ卒業なんだから大学生活を満喫しなさい。じゃないと授業料を払ってるのがもったいない」と言われれば、素直に従うしかない。もちろん、それが母なりの愛情だということは百も承知だ。
弟が高校から帰ってきたタイミングで実家を後にした。このとき、彼にそれを伝えなかったことに深い意味はない。ただ急な予定変更で、彼への連絡まで頭が回らなかっただけだ。
母は私と彼で食べてと、タッパーに料理を入れて持たせてくれた。
「あなたの彼氏にも心配させちゃったわね。ごめんなさいって伝えて」
母とのこの約束は、未だに叶えられていないことになる。
三時間かけて、アパートに戻った。当然、私のアパートに彼はいなかった。いくら半同棲しているからって、私の不在中に私の部屋にいることは、それまでだってなかった。鍵だって渡していないのだし。
泊まり道具を置いてから、母からもらった料理を持って、歩いて十分ほどの彼のアパートへ向かった。歩きながら、彼に連絡を入れていないことに気がついた。突然訪問したところで、特別驚きもしないだろうし、サプライズにもならない。それくらい、私と彼の付き合いは落ち着いていて、凪のような関係だった。
連絡してもしなくてもどちらでもいい。じゃあ敢えて連絡をしないでいる意味もない。
そんな思考回路によって、彼のアパートが見える距離で私は彼にメッセージを送った。
『お母さん元気になったから帰ってきた。夕食もらったから持っていくね。一緒に食べよう』
既読はつかなかった。つかなかったことを気にもしていなかった。何も考えず、彼のアパートの玄関ドアを引いた。インターホンを鳴らさないのはいつものことだ。それくらい私と彼は「客」ではなく「身内」のはずだった。
玄関は開いた。鍵はかかっていない。学生用のその小さなアパートでは、玄関を開けたらそのまま部屋が見えた。リビングなんていうお洒落な雰囲気は一切ない、六畳一間の見慣れたアパートの部屋。そこには彼と彼女がいた。
私は持っていたタッパーを落とし……なんてことにはならず、案外冷静に「何やってるの?」と聞いた自分に自分で驚いた。よくあるドラマの演出で、驚いて持っていたグラスを落として割るシーンは、現実には起こらないものなのかもしれない、なんてどうでもいいことを頭の片隅で考えていた。
彼女は泣いた。ウサギのぬいぐるみのような彼女が、目を真っ赤にして本当のウサギみたいになった。
彼は謝った。頭を畳に擦り付けて「ごめん」を繰り返した。
正座する二人と向き合って座る私も、なぜか正座していた。足が痺れてきた頃に、彼が「別れてほしい」と言った。
「君は一人でも生きていけるだろうけれど、彼女は俺がいないと駄目なんだ」
ドラマでしか聞くことのないと思っていた台詞は、現実世界でも存在することを知った。
その後、私がどんな言葉を返したのかは正確には覚えていない。ただ、別れることは了承した。どうぞお幸せに、とかも言ったかもしれない。彼とはもう口も聞きたくないし彼女とももう仲良くはできない、とも伝えたはずだ。
当然、大学の同じ学科の人たちは、この小さなスキャンダルを楽しんだ。
私は被害者で、彼と彼女は加害者。
そんなレッテルが貼られた。面白がっている人が大半の中、本気で心配をしてくれる友人もいた。
そんな友人たちが企画してくれた温泉旅行で、私はあの荒々しい波音と出会った。私の地元とは反対側の海が見える旅館に、友人と三人での傷心旅行。もちろん傷ついているのは私だけで、二人は励まし役だ。
たくさん飲んで食べて、元彼氏と元親友の悪口を言って。私は平気なふりをしていた。
友人二人がすっかり眠りに誘われても、私にはうまく睡魔が襲いに来てくれなかった。
窓の外から波の音が聞こえた。誘われるように部屋を抜け出し浜辺へ向かった。
近くで見る海は、何かに怒っているみたいだった。深い怒りと悲しみが渦巻く波が、私を飲み込んでしまうような気がした。
怖い。
この海は優しくない。
波の音が「おまえは孤独だ」と言っているような錯覚に陥って、ずっと押し込めていた苦しさを掻き乱した。
別に彼がいなくても生きていける。だけど、彼がいないと上手に眠ることもできない。息をするのも苦しい。
涙がこぼれた。考えてみれば、別れてからずっと泣いていなかった。泣き始めたら、どんどんつらさが増していく。黒く荒々しい波よりも、自分の苦しさの方が怖くなった。
「いっそのこと、この波が何もかも攫っていってくれればいいのに」
ひとりごちた。
悲しさも寂しさも心許なさも、綺麗に攫って失くしてほしい。彼との思い出がすべて失くなれば、私は前と同じように笑えるはずだ。いや、笑う必要なんてないのか。
——「ダメだよ」
突然背後から声がして、私は肩を震わせて振り返った。
そこにいたのは見知らぬ男性。年齢は同じくらいに見えた。
人が近づいてくる気配なんてなかった。波の音に気を取られて、気づけなかったのだろうか。
突然現れた初対面の男性に話しかけられているのに、不思議と訝しむことはなかった。
「全部失くしちゃダメなんだよ」
彼は悲しそうに私の目を見て言った。
「今の悲しさも寂しさも心許なさも、全部明日のあなたを作る過去になる。全部を包んで、この先のあなたがある。今はつらいけど、今のあなたは未来のあなたに繋がっているから」
目の前の男性が言いたい言葉は、日本語としては理解できる。それでも納得も実感もない。こんな苦しみ、ない方がいいに決まっている。
「よく分からない」
そう答えたとき、強い風に煽られて砂が舞った。思わず目を閉じて、それから再び開いたとき、目の前には誰もいなかった。
「幻覚……?」
またひとりごちたときには、暗い海はもう怖いものではなくなっていた。
あの日、あの夜。
荒々しくて怖かった波音は、きっと私の心を表していた。荒んでいて、自暴自棄で、独りぼっちだと思っていた可哀想な私の心を。そして黒い波は、そんな私の負の感情を必死に飲み込もうとしてくれていたのかもしれないと、十年経って考えたりする。
ならばあのときの見知らぬ男性は、海が遣わせた使者? ……なんて話は馬鹿げているだろうか。
「今のあなたは未来のあなたに繋がっている」
理解できなかった言葉は、だいぶ腹落ちしている。
たとえば、傷心旅行がきっかけで友人二人との仲が深まったこと。
今も交流は続いているし、なんなら「親友」だと思っていたりもする。二人に直接伝えたことはないけれど、そんな括りはどうでもいいと思えるほど、この関係は私にとって大切なものだ。
あの失恋がなければ、今の関係はなかった。
そういうことでしょ?
十年の時を超えて、海の使者に心の中で話しかける。
記憶の中のその人と同じ顔が、今隣でテレビを見て笑っている。
海レジャーの特集番組に目を輝かせて、「今年は海でも行く?」と、優しい微笑みを私に向けてくれる。
以前さり気なく、今は夫となったこの人に、あの夜のことを尋ねたことがある。けれど夫は、「そんな場所に行った記憶はない」と言った。忘れているだけなのか、赤の他人なのか、それとも……。
真相を知りたいとは思わない。私が感じることがすべてでいい。
あれが誰であっても、今の私を形作る大切なピースだ。
