【短編小説】祭囃子が消えるまで
夜店から少し離れたこの場所にも、夏祭りの喧騒が届いていた。会場にはまだたくさんの人がひしめいているはずだ。
こんな田舎でも、祭りとなればどこからともなく人が湧き出る。殊更に明るくはしゃいだ声は、おそらく高校生のものだろう。私も十年前まではあの子たちと同じだった、と否が応でも過去の自分を思い出してしまう。
あの日——十年前のこの夜店を楽しんでいた日、かかってきた一本の電話で私はその場から駆け出した。
切なさが込み上げてくるけれど、今はもう痛いだけの過去ではない。今日からは愛おしい過去になる。
大きく深呼吸をして、私は笑顔を作った。
「相変わらずすごい人だねえ」
高校生の頃は勢いに任せて人混みも気にならなかったけれど、今はもうあそこに飛び込む勇気はない。それが年齢を重ねるということなのだろうか。
夜店を楽しむことなく早々に退散し、こうして神社の裏手の道を歩いて帰ることになったのだけれど、結果としてそれが、今この手に感じている温もりに繋がった。
「どうしてお祭りに行こうなんて思ったの?」
隣を歩く、悠太に尋ねた。
いわゆる幼馴染と呼ばれる間柄だった悠太に、人混みが得意なイメージはない。きっと今日の祭りだって、彼なりにたくさんの勇気を振り絞ったはずだ。
「特に理由はない。なんとなくそろそろかなって」
悠太はあまり言葉数が多くない。それは子どもの頃から変わっていなかった。
だけど硬派という表現はピンとこない。一匹狼というのとも少し違う。
小中学校での悠太はいつも友達に囲まれていて、どちらかと言えば人気者。一人でいることなんてまずないのに、大勢で群れていても彼だけは静かにどこか違うところを見ているような、そんな印象を抱かせる子どもだった。
きっとこの人は、出てくる言葉の数よりも頭の中を流れる言葉の数の方がずっと多いのかもしれない。
いつ頃からか、私は悠太に対してそんなことを思うようになっていたような気がする。
だから私は、悠太が言葉にしない空白の部分を想像する。
想像しながら、自分の手元に意識を集中させた。
行きには空っぽだった私の手が、帰り道には塞がれているなんて、家を出るときにはまったく予想していなかった事態だ。
「ねえ、いつから考えていた?」
「そうだなあ、もう五年くらい?」
一瞬だけ目を大きく開いてしまったことに、悠太は気づいただろうか。
五年って、短くない時間だ。
だって五年前の私は、大学を卒業したばかり。学生気分が抜けきれないまま、社会人一年目という先の見えない波を必死に泳いでいた年だ。少なくともあの頃の私に、『今日』を想像する余裕はなかった。
「ずっと待ってたの? ただ、こんな日が来ることを」
「まあ、そういうことになるね」
ばつの悪そうな悠太の言葉に、少しだけ自分が言葉の選択を間違えたような気がした。
今日までただ時が満ちるのを待ち続けた悠太を責めるつもりは毛頭なかったのだけれど、もしかしたら非難めいて聞こえてしまったのかもしれない。
「でもすごいね。こうして無事に出会えたんだから」
言ってくれればよかったのに、という言葉は飲み込んだ。
悠太には待つ理由があったのだ。自分から動くのではなく、ただひたすらにそのときを待たなければいけない理由が。
もしかするとそれは悠太以外の人にとってはどうでもいいものかもしれないけれど、悠太にとってはすごく重要な、ある意味で悠太自身の気持ちよりも優先しなければいけない事情。
それを悠太の言葉で聞けたなら、今日はもっと幸せな日になる。
そのひどく個人的な理由を、どうしても言わせたくなった。
いつも以上にわがままに振る舞いたくなるのは、きっと夜店の喧騒のせいだ。
遠くから祭囃子が近づいてくる。山車が神社に戻ってくるのだろう。胸が少しだけ締めつけられるのは仕方ない。この痛みは、何年経っても完璧に消え去ることはないし、消し去ってはいけないものだ。
だけどそろそろ、綺麗な瘡蓋にするのに適した頃合いだと、私自身も心の中できっと感じていた。
「どうして今日まで待ち続けたの?」
もっと気の利いた質問の仕方があったのかもしれない。けれど変に気取って核心をつけないよりは、真正面からぶつかった方が私の望む言葉を聞けるような気がした。
「もしそうなる運命なら、きっと出会えると思って」
運命なんてロマンティックな言葉が、悠太の口から出てくることにまず驚いた。そのあとに、結局ストレートな答えが返ってこないことが可笑しくなって、小さく笑ってしまった。
悠太らしい。だけど、十分な答えだ。
幸福感に拍車をかけるくらいには。
「運命、ねえ」
今度は意図して茶化した。悠太もそれを分かっているから「悪かったな」と明らかに照れた様子で頭を掻いた。
悠太が考えていそうなことは、だいたい想像がつく。
だってもう長い付き合いだから。
保育園から中学校まで同じ場所に通い、ほとんど毎日顔を合わせた。高校・大学は別々の学校に進学したし、なんなら大学の四年間は遠距離恋愛だったけれど、それでもお互いの気持ちが変わることはなかった。Uターン就職をした私たちは、今ふたり一緒に暮らしている。
彼氏彼女の関係になって十数年。悠太の声色と表情だけで、本当に伝えたいことは分かる気がするのだ。
「ありがとね」
悠太が言葉にしない空白部分を勝手に埋めると、自然とそんな言葉が口をついて出ていた。
ありがとう。十年前から抱えている心の傷が、乾く日を待っていてくれて。
——十年前の祭りの夜。私に届いた一本の電話は、家で飼っていた愛猫がいなくなったという母からの知らせだった。
わが家にやって来てから一度も外に出たことのなかった三毛猫のみーちゃんが、祭囃子の音に驚いて網戸を破って逃げ出した。家族総出で探したけれど、みーちゃんは結局見つからなかった。
家族みんなが諦めても、私は諦められなかった。いや、本当は戻ってこないと分かっていたのに、それを認められなかっただけなのかもしれない。
窓さえ開けなければ。脱走対策をもっとしっかりしていれば。
そんな後悔が、現実を受け止めることを拒否していた。
あの頃の私は、悠太と会うたびに泣いていた。私と同じかそれ以上に猫好きだった悠太は、私の悲しみを理解し共感してくれた。何度、落ち着くまで抱きしめてくれたことか。呆れることなく、ただ私の心に寄り添ってくれた悠太に、私は宣言したのだ。
「みーちゃんは絶対帰ってくる。だからみーちゃんを見つけるまで、他の猫は絶対に飼わない」
悠太はあの日の言葉を覚えていてくれた。
腕の中から「にゃー」と遠慮がちな鳴き声が聞こえ、十年前から今に意識を引き戻された。
手元に目線を落とせば、ついさっき神社の裏で見つけた子猫が私を見上げている。
段ボールに入ったこの子を見つけた瞬間、飼いたいと言ったのは私の方だった。
みーちゃんのことを忘れたわけじゃない。だけど、これはみーちゃんが連れてきた運命の出会いのような気がした。
「そろそろ、新しい一歩を踏み出してね」
なぜか分からないけれど、みーちゃんのそんな声が聞こえた気がしたのだ。
段ボールから子猫を抱き上げた私を見た、悠太の表情と言ったらなかった。
何年先になっても揶揄えそうなくらいの破顔。
そして「実は俺もまた猫と暮らしたいって思っていたんだ」という打ち明け話。
それが五年前から抱いていた思いだったなんて、私は全然気づいてあげられていなかった。
「待たせてごめんね」
考えてみれば、あれだけ猫が好きだった悠太だ。また猫を飼いたいと思わない方がおかしい。そんなことにも気づかないくらい、私は自分の心の傷ばかりを大切に守り抜いていた。そしてそんな私を、悠太はずっと守ってくれていた。
ふたりと一匹になった帰り道。
私たちの暮らすアパートが、もう目の前だった。
夜店の喧騒は聞こえない。祭囃子もここまでは届かない。
「ねえ、悠太。結婚しよっか」
横を見ると、今度は悠太が目を丸くしている。その驚いた表情に思わず笑ってしまうと、今度はジト目で私を見てきた。
「それ、今俺が言おうと思った台詞」
予想外に自分の視界が水っぽくなっていくけれど、両手で子猫を抱きかかえた私は、目元を拭うこともできない。
困っていると、悠太の指が目元に触れた。
「この子はきっと、幸せを運んでくれる猫だね」
そういえば、みーちゃんもそうだった。
みーちゃんが家にやって来てから、楽しいことや嬉しいことがたくさんあった。
ただの幼馴染だった悠太と特別親しくなったのも、みーちゃんがきっかけだったっけ。
「これからよろしくね」
懐かしい温もりを感じながら、みーちゃんによく似た子猫に向かって、私は猫なで声を出した。
