見出し画像

【短編小説】古い木造校舎の続き

目をつぶると、瞼の裏には一面の花畑が——なんて、美しい光景は残念ながら浮かんでこなかった。

乾燥がちな眼を擦った午前十時三十四分。
真っ暗な視界の中になぜか、小学校の廊下が浮かび上がった。
それも、僕が二十三年前に卒業した母校ではない。
だけど、どこかで見たことがあるような……。

やけに古い木造の校舎だ。
廊下も木、教室側にあるロッカーも木。
いつの時代に建てられたものなのだろう。

廊下には誰もいない。
ここから見える教室にも、人の気配はない。
ロッカーには道具箱のようなものが入っているから、廃校になった学校というわけでもないのだろう。

なぜ僕はこんなものを思い浮かべているんだろう。

そんなことを考えているうちに、睡魔の沼へ落ちていった。


次に目が覚めたときには、時計の長針が二回転半していた。

午後一時三分。

やってしまった、と自己嫌悪に陥る。

自分でも最低だと思う一夜を乗り越えた今日。
疲れは取れていないようだ。

昨夜ベッドに潜り込んだのは、たしか午前一時過ぎだった。
今朝は七時に目が覚め、朝食を取り、ソファーに座って映画を観ていた途中、瞬き多めになっていた眼を擦ったところまでは記憶がある。
映画は序盤で記憶をなくしたけれど、たしか学校に教育実習生がやって来る、学園もののストーリーだった気がする。
 

にもかかわらず今、僕はブランケットをかけられ、ソファーに横たわっている。
映画が映っていたはずのテレビは消され、ソファーの前のテーブルに書き置きが一枚。

『疲れているようなので帰ります。起きたら連絡ください』

ため息がこぼれる。

さすがの彼女も怒っているだろうか。

昨日は彼女の誕生日だった。
ちょうど週末に当たるタイミングだからと、仕事終わりに待ち合わせして、いつもより少し豪華なディナーを楽しむはずだった。

それなのに、突然のトラブルによる残業。
会社を出たときにはレストランの営業時間はとうに過ぎ、コンビニで適当な食事とスイーツを買って、わが家でささやかな誕生日パーティーをした。

誕生日を台無しにした僕に文句も言わず、今朝も朝食まで用意してくれたのに。
彼女が一緒に観たいと言っていた映画を観ながら、不覚にも睡魔からの攻撃を防ぎきれずに寝落ちたらしい。

ああ、不甲斐ない。

付き合って半年になる同い年の彼女は、滅多なことでは怒らない。

これまでも突然の残業で会えなくなることはあったけれど、「仕事なら仕方ないよ」と笑ってくれた。

だけどさすがに、昨日は誕生日だ。
楽しみにしていたレストランに行けなかっただけでも酷い彼氏なのに、さらに映画の途中に寝るという失態に、まだ変わらず笑ってくれるのだろうか。

もう一度、彼女の手書きの文字を見る。
文字だけじゃ本心はわからない。
ここに絵文字でも付いていたなら、少しは安心できたのに。

連絡することに躊躇う気持ちはあるけれど、いつまでもこうしていても埒はあかない。
思いきって彼女に電話をかけてみた。

一コール、二コール、三コール……。
七コール、八コール、九コール。

彼女は電話に出なかった。

途端、心配に襲われる。

やっぱり怒っているから、電話に出ないのではないか。
あるいは僕に愛想を尽かしてしまった?

悪い想像はどうしてこんなに浸透がはやいのだろう。

僕はすっかり焦ってしまい、彼女のアパートを訪ねることにした。


彼女と出会ったのは、取引先の会社だった。
名刺をもらったとき、つい「以前どこかでお会いしていませんか?」と口が勝手に動いていた。
「仕事中にナンパですか?」と笑われ、慌てて「失礼しました」と謝った。
変な汗をかいた。
だけど本当に、どこかで会っているような気がしたのだ。

それから月に二回ほどのペースで仕事中に顔を合わせ、四か月が経った頃だったと思う。
僕は周りにバレないように細心の注意を払って、彼女を食事に誘った。
いや、正確には食事ではない。
「今度一緒に飲みに行きませんか?」と書いた紙を渡したのだ。
もしまた「仕事中にナンパですか?」なんてからかわれたら、そしてそれを周りの人たちに聞かれたら、僕はもうこの会社へは恥ずかしくて来られないかもしれない。
そう思って、誰かに聞かれるリスクを最大限に減らすためにメモ作戦に打って出たのだ。

幸いにも彼女は小さく頷いて、付箋に携帯電話の番号を書いて渡してくれた。
ガッツポーズをしそうになった。


あれから半年。

僕は彼女を大事にできていたのだろうか。

怒らない彼女をいいことに、彼女との時間を雑に扱っていたことはなかっただろうか。

もちろん僕自身にそんな意識はなかったのだけれど、彼女にそう感じさせているようだったら、それは僕の責任だ。


彼女はアパートにもいなかった。

どこへ行ったのだろう。
何をしているのだろう。

こうなると、もう僕に打つ手はない。

行きの半分以下のペースで帰路を歩き、時間をかけて家に戻った。

戻っても、彼女からの連絡はなかった。

ソファーにもたれかかり、ぎゅっと目をつぶる。
疲れ気味の目を閉じると、心地いい痛みが走る。

そしてまたあの光景——古い木造校舎、廊下。

…………。

やっぱりこの光景、どこかで——。

「なんで気づかなかったんだ!」

飛び上がるようにしてソファーから立ち上がった。 


もしかしたら、今日かもしれない。 


財布とスマホだけを握りしめて、駅へ走った。

間に合ってくれ、と願う。

電車の速度がいつもより遅く感じる。

降車駅から目的地までまた走る。


息を切らして向かった先で、古い木造校舎の小学校が僕を待っていた。
不思議と今日というタイミングで瞼の裏に現れた光景は、実際にここに存在している。
そしてこれは、僕の教育実習先だった小学校だ。

思ったとおり、今日は文化祭。
けれど、それももう終盤で、人は疎らになっている。

少し前まで賑わっていたはずの校舎に足を踏み入れても、正直なところ懐かしさはあまりない。
もとより教師になるつもりはなく、単位のために行った教育実習に思い入れなんてなかった。
歴史ある古い校舎と言われても、「はあ、そうですか」くらいの感想しか浮かばないくらい、僕には卒業のための通過点でしかなかった。

だから、ここでの記憶の大半が抜け落ちている。

それなのに、今ここで校舎の空気を吸って目をつぶれば、鮮明に甦ってくる確かな記憶がある。

——「今年の文化祭、私の誕生日と同じでちょっと嬉しい」。

僕はここで彼女と出会っていた。


「先生」


背中から声をかけられ、ゆっくりと振り返る。

「電話くれてたの、今気づいた。ごめんね」

彼女は笑顔だった。
さっきまで積みあがっていた不安の山が、一気に溶けて消えた。

「昨日と今日はごめん」

彼女は怒っていない。
だけど謝らずにはいられない。

「ほんとだよ。せっかく私たちの出会いを思い出したって話そうとしたのに、寝ちゃうんだもん」

それから「ま、映画観ながら話そうとした私も悪いけど」と、可愛らしいいたずらが見つかった子どものように笑った。
だから僕も小さな笑顔を作って、彼女に尋ねてみる。

「いつ思い出したの? それとも最初から知ってた?」

彼女は首を横に振った。

「一週間くらい前かな。実家の親から昔のものを処分していいかって連絡があって、その中に教育実習の写真があった。そこで初めて思い出したよ」

それからきっと彼女はいろいろ考えて、僕をびっくりさせたくて、あの映画を一緒に観ることを思いついた。
そして僕は映画の最中に目をつぶったから、この校舎が瞼の裏に浮かんできた。

だけど本当に本当のことを言ってしまえば、彼女から与えられたきっかけがなければ、僕たちがここで出会っていたなんて思い出すこともなかったように思う。
現に同じ教育実習生に誰がいたかなんて、今や名前も顔も曖昧だ。
いや、曖昧どころか何人の実習生がいたかも思い出せない。

そんな不確かな記憶しか残っていないのに、名刺交換をした日、彼女があのときの彼女だと、記憶の断片は教えてくれていたのだ。
まるでタイムカプセルを開けるみたいに、過去の記憶をそっと取り出して。

「僕が前に会ったことあるって言ったの、正しかったじゃん」

ナンパでもなんでもなく、事実僕たちはここで出会っていた。
同じ教育実習生として、一か月をともに過ごした。

「でも結果、やっぱりナンパしてきたでしょ」

ナンパと言われるのは心外だけど、僕の方から彼女に惹かれたのは事実だ。
そこに過去は関係ないように思う。

「ここで出会っていてもいなくても、結局僕は君を好きになったんだよ」

僕の言葉に、彼女は嬉しそうに笑った。


僕の家に帰って、途中だった映画を最初から観直した。
想像していたより壮大なストーリーが展開されていて、隣の彼女は映画に夢中だ。

そんな彼女を見ながら、僕は幸せな気分になる。
映画みたいに派手な出来事は起こらなくても、僕らの偶然だって十分素敵だって思えるから。 


もしも目をつぶって浮かんできた見知らぬ光景があったのなら、それはタイムカプセルに入れられて大事に保管されていた記憶なのかもしれない。
いつか僕たちが必要なときに思い出せるように、いつだって大切にしまってあるのだ。

目をつぶってみる。

今度は美しい花畑が瞼の裏に広がる。
そこにはウェディングドレスを着た彼女が立っていて、僕を見て微笑んでいた。

——これはきっと、そう遠くない未来の記憶の先取りだ。



いいなと思ったら応援しよう!