【短編小説】「涼を分けてはもらえませんか?」
熱帯夜だというのに、今この部屋にはエアコンがない。
正確に言えば、あるけれど使うことができない状態だ。
くすんだ壁の隅に付いている、いかにも年代物のエアコンは、今朝までは確かに動いていたのに。
このアパートを借りたとき、エアコンはそのまま使っていいと大家さんから説明された。
前の住人が置いていってくれたらしい。
そのときはラッキーとしか思わなかったけれど、これだけ古いエアコンだ。
置いていった方が面倒がないと思ったのかもしれない。
ということは、むしろ今朝まで動いていたことがラッキーだったのか?
いや、だとしても今動かないことが問題であることに変わりはない。
試しに、もう一度リモコンの『冷房』ボタンを押してみる。
リモコンの液晶画面には「二十五度」「冷房」「自動」と正常な表示がされている。
にもかかわらず、肝心の本体がうんともすんとも言わない。
さっきから何度も試して、ずっと同じ症状だ。
エアコンが壊れたことに気づいたのは、バイトが終わって帰ってきたときだった。
今のバイトは三か月目。
全国チェーンの居酒屋で、閉店の時間まで働いている。
大学を卒業して五年経つけれど、正社員という肩書きで働いたことは一度もない。
新卒での就職活動で内定を取れずに、仕方なく契約社員として働き始めてからは、短期の仕事をつないで暮らしてきた。
そして今は『アルバイト』の肩書きだ。
実家の親はもうすでに、この不出来な長男を諦めているのだろう。
以前は頻繁に来ていた連絡も、今じゃほとんどない。
代わりに出来のいい弟が、両親とうまくやっているはずだから、きっと俺がいなくても問題はないのだ。
ひとまず、部屋を出ることにした。
エアコンなしでも眠れないことはないかもしれないけれど、快適な睡眠とは程遠くなるだろう。
できるだけ涼を取るために、コンビニで『冷たい何か』を調達してこようと思った。
たとえば、氷枕的なやつとか?
あとは保冷剤でもいいか。
玄関から出ても、皮膚に纏わりつく熱気は変わらなかった。
いつもは外へ出た途端、「あっつ!」と文句を言っているけれど、なんなら空気がこもっている分、部屋の中の方が不快なくらいだ。
この予定外で無駄な出費、地味に痛いな。
そんなことを考えながら共用部分の階段を下りると、ペンギンから「こんばんは」と声をかけられた。
……ペンギン!?
頭がおかしくなるほどの暑さではないはずだ。
だけど目の前にいるのは、どう見てもペンギン。向こうはじっとこちらを見上げている。
「あの……、何かご用ですか?」
目が合ってしまっては仕方ない。
無視するわけにもいかず、ペンギンに声をかけてみる。
なんとなくペンギンの目が、話しかけられるのを待っているように感じたのだ。
ペンギンは目を輝かせた(ように見えた)。
「やはり! あなたは私どもの存在が見えるのですね!」
見えるもなにも、ペンギンなら子供の頃に水族館で飽きるほど見た。
見えなければ水族館で展示されたりしないだろう。
……あー、嫌なことを思い出してしまった。
年間パスポートまで買って、家族で何度も行った水族館のこと。忘れていたかったのに。
「いや、まあ、みんな見えるんじゃないですか?」
頭を掻きながら適当に答えると、ペンギンはますます目を輝かせた(ように見えた)。
「いえいえ。この姿を認識できる人間は、そう多くはいません。
ああ、どう説明したらいいのでしょう。
今、ここにいる私は特別なのです」
「はあ……。
よくわからないですけれど、そういうものなんですね」
ちょっと面倒くさくなってきて、とりあえず受け入れることにした。
「そんなあなたにお願いがあります。
どうか私に涼を分けてはもらえませんか?
お礼は必ずいたしますので」
鶴の恩返しじゃあるまいし。
それに、涼を分けてもらいたいのはこちらの方だ。
「申し訳ないですが、お力になれそうにはありません」
ペンギンは悲しそうに目尻を下げた(ように見えただけだけど、もはやそれについてはどうでもいい)。
「うちのエアコン、さっき壊れちゃって。
俺もちょうど今、身体を冷やすためにコンビニまで冷たいものを買いに行こうかと思っていたところなんです」
ペンギンは両手(両羽)を一度ぴょんと動かした。
「それは災難でしたね。
大変なところ恐縮ですが、その冷たいものとやらを分けてもらうことは難しいでしょうか?」
正直なところ、これ以上無駄な出費は避けたいところだ。
エアコンだって直さなきゃいけないし。
だけどこのままペンギンを追い返すのは、寝覚めが悪い気がした。
「それくらいなら、まあ……」
「ありがとうございます!」
食い気味にお礼の言葉が飛んできた。
「じゃあ、コンビニ行ってくるんで。
ここで待っててもらえますか?
部屋よりは外の方が涼しいと思うので」
他の人には見えないということなら、このまま置いていっても問題ないだろう。
「もちろんです。
こちらでお待ちしております」
ちょこんとお辞儀をしたペンギンは、なんともかわいらしかった。
コンビニまでの道中、何度追い払っても過去の思い出が頭を占拠した。
やめてくれ。もう俺には不要な思い出なんだ。
頭をブンブン振っても、全然出て行ってくれない。
それどころか、より鮮明に思い出してしまう。
家族の中で特に水族館が好きだったのは俺だった。
もしかすると弟は、それほど興味を持っていなかったのかもしれない。
実際、中学生になってからは、俺はひとりで水族館に行くことが多くなった。
通い詰めた水族館。
そこで働きたくて、海洋学部のある大学へ進んだ。
けれど就職活動は惨敗。
そこから、すべては悪い方へ転がり出した。
家族との仲も気まずくなり、長期で働けそうな仕事は見つからず、余裕がなくつまらない生活を送る日々。
こんな現状、嫌気がさす。
「……くそ。ペンギンなんかに会ったせいだ」
恨み言を言ってみても、今が変わるわけではない。
そんなことわかっているけれど、無理やり忘れようとしていた心に刺さった棘が、まだジュクジュクと痛んでいることに気づいてしまった。
とはいえ、ペンギンに罪はない。
あのペンギンは俺の人生と関係のないものだ。
成り行きで会話をすることになってしまったけれど、涼を取らせたらさっさとお帰り願おう。
コンビニに置いてある氷を大量に買った。
氷たっぷりの水風呂を作ってやろう。
(……そうしたら、あのペンギンも喜んでくれるかな。)
氷は見た目よりもずっと重かった。
居酒屋でバイトをしていても、こんなに大量の氷を一度に持ったことはない。
段ボールの底が抜けないように気をつけながら、急いでアパートへ戻った。
当然だけれど、別にペンギンを待たせていることに気が急いたわけではない。
ただ、せっかく買った氷が溶けないようにと心配しただけだ。
ペンギンは、さっき別れたときと同じ場所で同じ格好で待っていた。
俺を見ると、またパァッと目を輝かせた。
「お待ちしておりました」
ちょこんと頭を下げる。
(くそ、かわいいじゃないか。)
「氷を買ってきたので、水風呂で泳ぎますか?」
「なんというお気遣い。ありがとうございます」
階段を上り、鍵を開けるために一度氷を足元に置いた。
ふと振り返ると、ペンギンはまだ階段下にいる。
……上れないのか!
慌てて階段を駆け下り、今度はペンギンを抱えて二階へ上った。
想像していたより軽い。
今度こそ鍵を開けようと、ペンギンを地面に下ろしたところで、真っ黒なペンギンの尻尾に、小さく白い桜のような模様が入っていることに気づいた。
「あれ? ペンギンさんの尻尾のところ、かわいい模様がついていますね」
「お気づきになられましたか。
実はこれ、生まれつきなのです。
どうやら珍しいみたいですね」
ペンギンは得意げに胸を張った。
部屋の中は、出かけたときよりも蒸し暑く感じた。
せめてもの悪あがきで窓をあけてから、風呂に水を張って氷を入れた。
「さあ、どうぞ。思う存分涼んでください」
ペンギンはまるで温泉に浸かるみたいに「はあ。いい気持ちです」と言った。
「しばらくここで涼ませていただきますので、どうぞお構いなく」
たしかに、ずっと見守っている必要もないか。
狭い居間に戻り、布団を敷いて、自分の涼のために氷枕を置いた。
横になると、ひんやりした感覚がなんとも気持ちよく、バイトで疲れていたことを思い出した。
——気がつけば、朝。
窓は閉められているけれど、気温はそれほど高くない。
どうやら夜中から雨が降っているらしい。
気温が低いのはそのおかげのようだ。
それにしても、いつの間に寝たのだろう。
そういえば、ペンギン! ペンギンはどうなった?
慌てて風呂場を覗いたけれど、そこにペンギンの姿はなかった。
不思議な夢……?
考えてみれば、ペンギンが喋ること自体がおかしい。
昨夜はよほど疲れていたのだろう。
これ以上、わけのわからないことを蒸し返すことはやめた。
今日もバイトだ。
午後までに雨が止んでくれればいいけれど。
天気予報を確認しようとスマホを手にした瞬間、タイミングを見計らったかのようにスマホが震え出した。
電話だ。
しかも、実家から。
親から最後に連絡が来たのは、もう半年以上前。
年末年始は帰省するのか、という事務的な連絡だけだ。
もちろん、俺は帰らないと伝えた。
いったい、何の用事が?
だけど無視するわけにもいかず(家族に何かあったのなら大変だ)、気乗りしない声で「はい」と電話に出た。
「あー、よかった。つながった」
電話の主は、やけに興奮気味な母だった。
「あのね、昔よく家族で行ってた水族館、覚えてる?
あそこの館長さん、実はお母さんが通ってる生け花教室にいらっしゃってて。
同じ曜日の同じ時間、一緒に生け花してたのよ」
だからなんだ。
それが俺とどう関係がある?
やることなんて何もないくせに「バイトの準備で忙しいんだけど」と不機嫌丸出しで伝えた。
「ちょっと待って。
すぐ終わるから、少しだけ聞いて」
珍しく必死に引き留める母の声を聞いて、もう少しだけ付き合うことにした。
「それでね、館長さんと世間話してたら、水族館の人手が足りなくて、バイトで来てくれる人を探してるんだって。
あんた、どう?
同じバイトなら、水族館も悪くないんじゃない?」
「なんだよそれ。それを早く言えよ!」
こんなうまい話があるのだろうか。
いや、まだ喜ぶのは早い。
バイトという肩書は何も変わらない。
そもそも、まだ採用が決まってもいない。
だけど心は動いた。
あれほど思い出したくないと思っていた『夢』だったけれど、やっぱり好きだという気持ちは表に出るのをずっと隠れて待っていたような気がする。
すぐに履歴書を書いて送った。
(エアコンを買い替えた。貯金が底をついた)
面接になった。
採用された。
信じられない。
けれどこれは現実だ。
俺は実家に帰って、実家から水族館に通うことにした。
新品になったアパートのエアコンは、そのまま置いてきた。
もしまたペンギンが訪ねてきたときに、次の住人が涼を分けてあげられるように……なんてのはもちろん冗談で、実家への出戻りにエアコンは必要なかっただけだ(大家さんにとても感謝された)。
こんな気前のいいことをできるなんて、柄にもないと自分でも思う。
たぶん俺は浮かれていたのだ。
出勤初日。
まずは館内を一通り案内してもらうことになった。
子供の頃通い詰めただけあって、だいたいのことは覚えている。
だけどバックヤードは初めてで新鮮だった。
「ここが一番人気のペンギンコーナーです。
見てください、あの子。
ちょっと変わっていて、それで一気に人気が出たんです」
指さされた先にいるペンギンを見ると、妙な既視感が。
あのペンギンはもしかして……。
「桜の模様ですか?」
先輩社員が目を丸くした。
「この距離でよく見えましたね!」
「あ、いえ。見えてはいなくて。
ただ前に見たことがあって」
しどろもどろに答えると、「そうですよね。SNSでもたくさん上がっていますもんね」と納得された。
俺が見たのはSNSではないのだけれど、それは黙っておく。
先輩社員が他のペンギンに構っている隙に、「ペンギンさん?」と小さな声で呼びかけてみた。
すると桜模様のペンギンはこちらを振り向いて、そしてあのときと同じように小さくお辞儀をした。
か、かわいい……!
思わず頬が緩んでしまった。
その瞬間、先輩社員が「そういえば、聞いてます?」とこちらに戻ってきた。
やばい、だらしない顔を見られてしまった。
慌てて真面目な表情を作って、「なんのことですか?」と尋ねた。
「今はバイトで採用ですけど、来年の春に定年退職の方がたくさんいるんですよ。
だから正社員登用を見込んでの採用になります。
一生懸命、仕事覚えてくださいね」
そんなこと、聞いていない。
どうして教えてくれないんだ。
大事なことは、みんな最後に伝わってくる。
「めちゃくちゃ頑張ります!」
気合の入った大声に、ペンギンも笑った気がした。
