「認められたい私」と「認められない父」──タイプ3の私が映画で揺れたこと
横須賀に住む友人が家族でこの映画を観てきたとFacebookに投稿していて、なんとなく心を惹かれました。
しかも寺尾聰さんが出ている──私にとってはそれだけで「観てみようかな」と思わせる俳優さんです。
こうして私は『父と僕の終わらない歌』を観ることにしたのですが、観ている間は感情移入できなかった自分に少し戸惑いが残りました。
帰宅してからもずっと、なにかが引っかかるという違和感ともいえる余韻が残っていて。
じつはその正体は、自分の中にあった“認められたい気持ち”と向き合っていたのかもしれません。
これは息子の物語だった
寺尾聰さんが出演していると知って、いい映画だろうなと期待して観に行った『父と僕の終わらない歌』。
タイトルからして、父と息子の二人が対等に描かれるのかなと思っていたけれど、物語が進むにつれて、これは明らかに「息子の視点から語られる父との関係の物語」だと感じました。
息子は、父の期待とは違う道を選んで生きてきた人。
横須賀を出て、東京でフリーランスのイラストレーターとして独立し、同性のパートナーと共に暮らしている。
仕事もプライベートも、自分で選んできたその姿に私は「もう十分、立派じゃないか」と思いました。
評価を手放した私と、まだ求める彼
私は20代の終わりに親からの評価をある意味“卒業”し、一人暮らしを始めて、自分の意思で人生を選ぶようになりました。
それ以降は「どう思われるか」ではなく、「どうありたいか」を優先してきたつもりだったから、この息子の生き方には共感以上にちょっとした“誇らしさ”すら感じたんでしょう。
けれども物語の後半、アルツハイマーが進行した父から、息子は「本当は認めていない」とも受け取れるような言葉をぶつけられます。
傷ついた息子は思わず家を飛び出し車で波止場に向かい、車内で慟哭します。その後時間を置いて戻ったら、「寒かっただろう」と今度は温かいお茶を淹れてなにも聞かずに居てくれる父がいて。
どちらが本音なんだろう?
息子が抱いたそのゆらぎに、私はひどく揺さぶられました。
泣けなかった自分が気になった
見終えたあと、正直戸惑っていました。
じつは私はこの映画に感情移入して涙する自分を想像していたのに、そうはならなかったから。
誤解しないで欲しいのは、映画の出来栄えは素晴らしかったです。
俳優陣の演技はどの方もその人物が感じられる味わい深いもので、
父・母・息子もごく自然に家族で、愛情もひしひしと伝わってきました。
横須賀の景色も美しく、音楽も軽やかで、アルツハイマーという重いテーマを温かく包み込んでいるようでした。
それなのに、心がスッと入りきれない。なぜだろう?と。
たぶん私は、息子の“求め方”に、自分を投影しきれなかったんだと思います。
エニアグラムタイプ3の私にとって、「誰かに認められる」ことは、無意識に大きなテーマになりがちです。
だからこそ、「もうそれを手放した」と思っていた自分が、彼の揺れに強く反応してしまったのかもしれません。
「未完のまま」という優しさ
映画のタイトルは『父と僕の終わらない歌』。
その「終わらない」という部分に、さらに私自身の解釈を重ねてしまいます。
父からの評価を得られなかったままでも、関係がすべて壊れたわけじゃない。
ちゃんと伝えられなかったこと、認識されなかった自分、間に合わなかった想い──そうしたものがそのまま、歌として残っている。
それはきっと、“完結”できなかった親子への、祈りにも似た優しさなのかもしれません。
囚われずに、生きていく
そして私自身、映画を通して気づきました。
自分の生き方は、誰かに肯定されなければならないものではない。
今の暮らしも、いつか変化していく可能性がある。
だからこそ、親という強くて深い絆に、過度に囚われてほしくない。
そんな思いがスクリーンの中の彼に少しだけ重なって、私は静かに願うような気持ちになりました。
父に理解されなくても、愛されていたかどうかが曖昧でも。
それでもあなたの人生は続いていく。
その歌は、まだ終わらない。
