都立庭園の四季「向島百花園」
山ばかりの神奈川・秦野で育ったぼくにとっては、緑に囲まれているのが普通であり、四季というのは山々の風景の移り変わりでした。
色を無くす冬→花々の春→緑鮮やかな夏→紅葉の秋
というサイクルですね。
東京に暮らすようになってからは、練馬区、杉並区、墨田区、板橋区、と住まいを転々としてきましたが、23区は平野部で山はありません。
便利さの反面、淋しさも感じる都会暮らし。
と、思いきや、実は多くの緑地や公園が整備され、緑あふれる都市になっています、東京。
人が多いぶん、息抜きできる場所もたくさん必要だよね!
ということかもしれませんが、嬉しい配慮の都市設計です。
そうした"憩いの場"のひとつ、「庭園」。
公園とちょっと違うのは"鑑賞"に特化してデザインされていることで、見て、歩いて、楽しむための作品、芸術なんですね。
庭園の多くは、もともとは各地の有力者たちによって私的に楽しむために作られたものが多いようですが、そうしたものたちも時代が下るにつれて持ち主が変わったり、公的に引き取られたりしています。
そうして"東京都"によって運営、管理されている庭園は9つ。
・浜離宮恩賜庭園
・旧芝離宮恩賜庭園
・旧岩崎邸庭園
・六義園
・旧古河庭園
・小石川後楽園
・向島百花園
・清澄庭園
・殿ヶ谷戸庭園
そのうちの「向島百花園」に注目してみました。

国の名勝・史跡にも指定されている。
「とうきょうスカイツリー」駅から東武スカイツリーラインに乗り、ふた駅先の「東向島」駅が最寄り駅。
"明治通り"を渡って、徒歩約10分です。

開園は1804年ごろと言われているそうで、当初は「花屋敷」や「新梅屋敷」と呼ばれていたそうです。「百花園」と呼ばれるようになったのは1809年ごろ。
ヨーロッパではナポレオン戦争が繰り広げられ、江戸は11代将軍・徳川家斉が贅沢暮らしでお金を使いまくっていた時代です。
「遊王」将軍のおかげで経済がまわり、華やかな時代に町人たちにも余裕が生まれたということか、佐原鞠塢という骨董品屋によってこの土地が買い上げられ、開園しています。
大名庭園ではなく、町人や文人によって運営された珍しい庭園なんですね。
開園当初、有力文人たちによって360本の梅の木が持ち寄られたことから、前述の「新梅屋敷」の呼び名が生まれたそうです。
近く亀戸に有名な「梅屋敷」があったので、"新"がついたわけですね。
ちなみに、かつて「屋敷」と呼ぶのは武士身分しか許されていなかったので、掲げられた庭門の扁額は「花屋敷」の"敷"の字が大きく崩され読みにくくされているそうです。
摘発逃れの小細工というか、将軍もこの百花園を訪れていたそうなので、"洒落"として黙認されていたのでしょうか。おもしろいですね。

オリジナルは焼失したため、複製です。


素敵な句が。

開園以来130年あまりを民営でつづけてきましたが、昭和9(1934)年に当時の持ち主だった小倉常吉が亡くなったのを機に、残された夫人によって東京市へ寄贈されました。
この人は「日本の石油王」とも呼ばれた実業家で、明治43(1910)年、隅田川の洪水によって壊滅した百花園を大正4(1915)年に買い取り、復興させた人物でした。

ハナトラノオとハナショウガ。


ボタンと冬の七草。
しかし、昭和20(1945)年3月、東京大空襲により全焼し、ほとんどの植物と建物を失います。
その後、昭和24(1949)年、地元有志らの協力により復興、再開が果たされました。
もともとが、文人たちによって詩歌や古典にちなんだ植物が持ち寄られ築園されていったという歴史を持つ百花園。
地元民にも愛されていたのが伺えます。

9期は江戸時代、18基が明治時代のものだそうです。
空襲にも耐えました。



きれいです。
春夏秋冬、どの季節も楽しめますが、やはり百花園といえば"梅"。
2-3月は"梅まつり"も開催されています。



2024年で、開園から220年を数える向島百花園。
当時から多くの町民に開かれ、愛され、今も四季折々さまざまな姿を見せてくれます。
あまり広くないので、苦もなく一周できるサイズ感も親しみやすいところですね。
空いていることが多いので、ちょっとした息抜きに穴場の"癒やしスポット"になっています。
都心で四季を楽しむのに、"庭園めぐり"おすすめです。
丸山直己
