『贈与を巡る旅』刊行記念 近内悠太さん×渡邉康太郎さん トークイベントの記録
まえがき
2026年8月24日に青山ブックセンター本店で開催された、「『贈与を巡る旅』(PHP研究所) 刊行記念 近内悠太さん×渡邉康太郎さん トークイベント」の記録。
白熱の議論が繰り広げられた90分。
渡邉さん曰く、トークイベントの場で著者に批判的な読解を提示することが失礼にあたらないか、悩んだとのこと。また、具体的で込み入った話になるため、もしかしたら未読の方にとってはわかりづらい内容かもしれない、とも気にしたという。しかし、「しっかりと議論をしたい」と前もって告知されていたこともあり、個人的にはあらかじめ一読のうえで参加し、緊張感がありながらも、非常に刺激的な時間を過ごすことができた。
イベントに向けて、渡邉さんがおそらく20枚ほどにわたるスライドを用意していたことが、いい意味で「割に合わない」(この場のためだけに使われるのはあまりにももったいないので、いつか公開されることを切望する!)。しかし、それはまさに「割に合わないほどのコストがかけられたメッセージだからこそ、信頼できる。」(p.184)という本書の記述とも重なり、だからこその愛や真剣さを感じる。
その場限りのスライドの準備に時間や労力をかけること。「甘噛み」ではなく「強噛み」でもなお遊ぶことができる信頼関係を築き、議論すること。けっして「生きのびる」ために必要なことではなくとも、それらの行為が、「生きる」うえでの愉しみとなり得るのかもしれない。
東京から金沢へ向かう新幹線のなかで近内悠太さんの新刊を一気に読み切りました。刊行おめでとうございます。
— 渡邉康太郎 / Takram コンテクストデザイナー (@waternavy) August 17, 2026
あとがきまで読んで、我が言葉なり本が、(意外と近くにいる)誰かへの贈与になり得ることを、ありがたく謙虚に受け止めました。… https://t.co/kYUSlwMNek
全球、全力投球のキャッチボール。
— 近内悠太 (@YutaChikauchi) August 17, 2026
そんな対談、よろしくお願いします! https://t.co/RCxKJINx85
🗺️そもそも「旅」とは何だったのか
冒頭では、本のタイトルにある「旅」について話す。
近内さん自身は、身体的に移動する「旅」がかなり苦手だという。外で眠れないし、安全地帯から出ることに不安がある。一方で、本書を執筆する過程では、一種のクライアントワークとして、他者に連れ出されるような「旅」となった。
渡邉さんは、本の文章も「旅行したことを書く」のではなく、あるシーンからひとつの言葉が想起され、その言葉をきっかけに思索が深まっていくものだと振り返る。本の「主題」だけでなく「そこへ至る過程」も、他者から与えられたもの(=贈与)となっている。
🫱🏻🫲🏼共有する態度
トークの手前に、足場として共有する態度を確認する。
『贈与を巡る旅』でも紹介される、穂村弘さんが語る「生きる」と「生きのびる」の対比。それを踏まえて、二人が共有している問題意識として、「生きのびる」偏重への不安や、「生きる」にも有用性があることへの同意がある。
💡事例の選び方への指摘
ここからが議論の根幹。
『贈与を巡る旅』の第4章では、「目に見えない愛を、目に見える形にすること」が論じられている。そのなかで、
呪術医の手術(→呪いと祝福は同じ構造)
カフカの手紙(→物語は悲しみを治療する)
メディシンマン(→割に合わないことが愛を証明する)
カクテル問題(→儀式を経ると特別に変わる)
などの事例が挙げられる(括弧内の記載は、本のなかでの意図)。
渡邉さんは、個別の事例はおもしろいと述べつつも、「ただし、引用する事例がこれでよいのかがわからない」と指摘する。
どういうことか?
ここで用意されていたスライドは、情報量が豊富だったうえに、めくられるスピードもやや速かったので、正しく捉えられているかわからないが、大意としては以下のような内容だったと思う。
「無用の尊厳」を語るべきところで、「無用を有用へ還元する理論」を選んでしまっているのでは? 事例が反証側に効いているのでは?
カクテル問題は、「儀式には意味がない」という論にも使えてしまう。
全事例に共通する「虚構性」をどう捉えるか? なぜあえて虚構の事例を気をつけて選んだのか? 真実の事例ではいけなかったのか?
メディシンマンも納得を捏造しているのでは?
行為者は嘘に自覚的だが、受け手はそれを知らず、行為者と受け手で情報の非対称性がある事例でよいのだろうか?
そのほか、「ガゼルの跳ねる行為は、生きのびるための最小コストなのでは?」(これは、わたし自身も読みながら思った)、「カフカは自分の創作意欲を優先していないか?」というユーモアを交えた細かいツッコミも入る。
また、ラッピングの話(p.143)については、そもそも何をもってムダなのかが大事であり、「生きる」の立場ではどれもムダとは言えないはず。「生きる」側で、ムダがどんな意味を持つのかまで論じてほしいと指摘する。
(すこし違った観点ではあるが、わたし自身がこの箇所を読んだときには、「プレゼントは、なぜそれを選んだのかには理由や合理性が求められることもありそう」、「ラッピングには、儀式としてだけでなく、中身を隠す・装飾を施す・期待値を高めるといった合目的的な要素もあるはずでは」という思考が働いた。つまり、虚なる世界と実なる世界は、「まったく異なる二つの領域」と捉えるのではなく、重なりあっているものと解釈してよいのでは。)
🔍別様の可能性を探る議論
さらに、渡邉さんは、その背景に対して仮説を投げかける。
「A:事例の掛け違い説」「B:本音はもっと先にある説」があるのではないか。Bについては、「ほんとうは、もっと過激なことを言いたかったのでは?」「中身が嘘でも、コストが本物なら愛が届く、まで言いたかったのか?」という問いかけ。
近内さんは、Bではあると応答する。バカげている事例を選んだのではないか。ただし、「よきバカげている」と「悪しきバカげている」がある。内在的な視点から見たら、虚構ではないことが大事なのかもしれない。ただし、これはやや危険でもある、と振り返る。
渡邉さんの問いかけは、さらに続く。
たとえばキュウリの絵ばかりを描くアーティストがいたとして(どんな例?笑)、その人はそれがよいと信じていて誰かを騙すものでもないのであれば、その物語全体がよい話に聞こえる。一方で、もしかしたら、むしろ虚構の例でしか言えないことがあるのでは。
阿波おどりは、「踊らにゃそんそん」として当事者になると、あたらしい魔法を帯びる事例。分解するだけでなく、その魔法を知りたい。
本のなかの事例は要素還元的に見えてしまう。そうではなく、帯びてしまう意味を説きたい。見方によっては、生きることは捏造できるのでは、と見えてしまう。
さらに、指摘にとどまらず、「もし仮に自分が論じるのであれば」という事例を提示する。自己目的的な過剰さの顕れを論じるとするならば、縄文の文様、ラスコーの壁画、動物の「遊び/甘噛み」(cf. ベイトソン)などが、「生きる」の証拠となりうるのではという展開。
近内さんは、それらは「生きる」が大事だとすでにわかっている人向けの事例だと思う、と返す。もしかしたら、自分は「生きのびる」思考の人に伝わる事例を選んだのかもしれない。この本では、「生きのびる」だけでは語れない領域がある、というところまでを書いているのではないか。神学の言葉で、「バカげているからこそ信じる」というものがある。もしくは、福田恆存の「文学は一匹の羊のためにある」も連想する。
渡邉さんも応えて曰く、メディシンマンに言われずに山へ行った人との違いや、メディシンマンの存在を知ったあとも、その人は幸せと思えているか、といった考察が必要なのでは。疑念が湧かない事例が大事だったのでは。「もろ刃の剣らしさ」が、近内さんには大事なのだろうか。そんな問いかけを残す。
あとがき
ある結論を導くための事例の選び方が、これでよいのか――、という指摘。なるほど、わたし自身が本を読んでいたときには、個々の事例に対する細かいツッコミを入れつつも、流れに身を任せてページをめくるような感覚だったため、いざ立ち止まって俯瞰した構成を振り返ることができていなかったと痛感する。
もちろん、必ずしも新聞記者的な態度で読む必要はなく、ロジックに依りすぎない感覚的な読み方があってもよいとは思う。とはいえ、整理や構造化を通した深い読み、および、さらにそこから自分なりの仮説を立てる姿勢は、ぜひ真似したい。
さいごに、書籍の個人的な感想を。
過去に、近内さんのオンライン講座や隣町珈琲での連続講義に何度か参加していたため、そこで見聞きした様々な話が、一冊の本にまとまったことへのうれしさがある。各種のエピソードが、このような文脈でつながるのか、という驚きと発見。
また、今回の対談相手であった渡邉康太郎さんの影響も多分に見え隠れしている印象があった。あとがきに記載がある『はじめての短歌』のエピソードや「表現」という用語だけでなく、「恩送りとは、恩返しの失敗である」(p.55)という文章も、渡邉さんが『生きるための表現手引き』で記した「あらゆる創作は、模倣の失敗である」というテーゼに触発されたものだろうか、と勝手に妄想しながら読みました。
トークイベントでもメインで取り上げられた、第4章の「目に見えない愛を、目に見える形にすること」を論じるパート。このなかで、個人的にひとつ疑問点を付け加えるとするならば、散瞳(瞳孔が通常よりも大きく開く現象)をどう捉えるのかということ。散瞳は身体の無意識な反応であると思うので、必ずしも「身ぶり」と言うことはできず、また、儀式性や物語性とも結びつかないように感じる。つまり、「目に見えない愛を、目に見える形にすること」を説明するなかで、呪術医やカフカやメディシンマンの事例と並べられるのだろうか、という疑問。
あとがきで本書の執筆の経緯を述べる文章では、どうも近内さん自身の体重の乗り切っていないような印象を感じていたが、「クライアントワーク」という言葉がイベント中の近内さんの口からも出たように、これまでとは違う背景であったことがわかり腑に落ちる部分もあった。しかし気になるのは、CQプロジェクトは「気候の問題を(中略)新しい『お金』のサービスで解決を目指そうとする」(p.219)プロジェクトであり、一方で、「『問題解決』という表現を見ると、僕はどうも戸惑ってしまう」(p.3)という近内さんのまえがきの文章があること。問題解決を前提としたプロジェクトのなかで、問題解決とは距離をとった「生活」や「生きる」について考える。そんな板挟みのような状況に、どのように折り合いをつけたのか。あくまで本書では夢を書く、と割り切ったのか。
また、全体を通して、「虚なる世界」と「実なる世界」をまったく異なる二つの領域とするのではなく、重なりあったものとして捉えられないか、という視点を持ちながら読みました。現(うつつ)の世界で、いかに夢の世界の魔法を使えるのかを考えたい。
本書を実践編とまで言い切れるかは、まだ理解が追いついていないところがある。たしかに、近内さん自身の旅を追体験し、各地に根付く贈与的な営みに触れることはできるが、それが日々の実践に落とし込まれるまでには、まだ距離があるように思う。
たとえば、身体的同期が大事であることは理解・共感するが、つまり都市生活を営む人々は、どのようにそれを体現すればよいのか。それは、伊是名島の飲み会のように、東京の飲み会でも歌って踊ればよい、ということではないはず。また、儀式の場では一体感が醸成されることにも納得するが、日常生活においては、いかにそれを取り込めるのか。
こうした問いを読者に残してくれること自体が、本書からの贈り物なのだと捉えます。
