父、幻影のガンジス。そしてミッキーマウス
2024年12月の危篤
2024年の12月に父が倒れたという知らせが入った。
僕は、今はなくなってしまった職場の食堂で、その最初の連絡を受けた。
連絡をくれたのは父方の親族たちで、すでに伝言ゲームの最終版のようになっていた情報によると、それはもう危篤と言っておかしくない話のように僕には聞こえた。
僕ら一家がバラバラに暮らすに至った理由の根幹にあるのは、僕が生まれるずっと前から続く父の暴力行為だ。
ドメスティックバイオレンス。いわゆるDV。
外面があまりにも良すぎる父の暴力は、どこに訴え出ても、誰に相談をしても、まともに取り合ってもらえなかった。
多分に時代のせいもあったのだと思うけれど。
各々が各々の安全な場所で離れて暮らせるようになってなお、
父の元妻である母も、父とはすっかり絶縁状態だった兄弟も、唯一の窓口として父に付き合い続けた僕も、被暴力の影響から抜け出すことはきっと無い。
これはもう如何ともし難いもので、せめてこれから先の世代への悪影響が出ないように、自分で自分の心身をコントロールして、基本的に自分がどっかおかしいことを前提にして、微調整を繰り返しながら生きていくしかない。
父が病院に搬送されたという連絡を受けたあの日、一体自分が食堂で何を食べていたのか覚えていない。
ただ、僕は最初の連絡が入った時ちょうど食事をとっているところで。なんとなく「この連絡を受けたら昼ごはんどころじゃなくなりそうだな」と、着信を知らせる自分の端末を眺めて思ったことを覚えている。
そうしてとりあえず、死ぬのかもしれない父親のことより、目の前の食事を食べ切ることを優先したはずだ。
食堂のシェフは上海人で、僕は彼の鷹揚な調子の上海訛りの日本語が大好きだった。彼が作ってくれる、尋常ではないレベルで供される豪華な社食も。
その彼は退職し、今や食堂は無く、会社の社食システムは無くなった。
危篤だと思った父は、今日も無事に生きている。
父が最初に倒れたあの日は、でもまだ食堂はあったんだよな、と思うとなんだか蜃気楼の只中にあるような不思議な感触がする。
2025年1月からの介護
2024年12月、危篤というほどの状態でもなく特に問題なく病院から帰宅させられることになった父の家は、かなりひどい状況だった。
雨戸は開けっ放し、玄関のカギも開けっ放し、電気は煌々とついていて、台所にはいつからそこにあるのかわからない、鍋に入った父作のおでんが置き去りにされていた。
家のあらゆる場所に、請求書と納品書と督促状が積み重なっていて、通販のDMにテーブルは埋め尽くされていた。
そして、何より大量のビールの空き缶が台所の片隅で山盛りになっていた。
余談だけれどちょうどその直前に、フリーアナウンサーの小倉智昭さんが亡くなったところだった。父と同い年だった。小倉さんファンだった父にとって、同い年の彼の死が、その頃の父の精神になんらか影響をもたらしていたのかもしれないと、家の中の荒れ模様を見て思ったのだけれど、その後の父の要介護者としての状態が悪化するにつれて、そんな考えは雲散霧消していくことになる。
これは、そんなナイーブな話じゃあなかった。
父がほったらかしにした様々なものの整理と、一人では病院まで行けない父の介護が早急に必要になり、主に付き添うことになったのは結局は僕だった。
毎週、仕事が休みのたびに実家に通った。
要介護1の判定が出ても、ケアマネージャーは見つからなかった。
病院からも市役所からも「そんなはずはない」と言われた。市に登録をされている事業所に連絡をすれば、要介護1の父に見合うケアマネージャーのフォローを受けられるはずだと。
けれど実際は連絡をしても、“要介護1”ではまだ軽いと見なされてなのか、受け入れてくれる先は見つからなかった。どこも、父よりももっと重篤な人々で手いっぱいだ、ということだった。
僕は、父の病院に付き添い、行政機関の窓口に赴き、父がなまじ自由に元気に動けているがために巻き起こるたくさんの問題をどうにかしようと必死に立ち回った。
料理を作っては持って行き食べさせる。
トイレの掃除、エアコンの掃除、季節が変わったことを理解できない父から初夏でも使っていた暖房器具を取り上げ、家の庭木の剪定と草むしりをした。
足りなくなった下着を買いに行き、開かずの扉になっていたぼろぼろの床下収納を全て片付けたりもした。
この期間に起きたことは、できる限り記録に残そうとして、noteの記事として残したエピソードも多い。
実家に向かうと決めている日の前の晩になると、必ず僕は心身の調子を崩した。些細なことに苛立ったし、心拍数が上がったままで、ずっと手が震えていた。
それはそうだ。
僕らは親子であると同時に、被害者と加害者の関係で、僕は僕に暴力を行った人間と、その現場でずっと二人っきりだった。
自分の自由時間をすべて切り刻んで僕はどんどんおかしくなった。
僕とは正反対に、父との一定の距離を保ち続ける僕の兄弟から、
やりすぎなんじゃないか、と言われたとき、
正直に言えば「じゃあ、お前がやれよ」と思った。
でも、彼は、僕の兄弟はやらない。
そして、もし僕もやらないとして。
それでじゃあ誰が困るのかと言えば、多分誰も困らないのだ。
父も。
困らないのだ。
いや、本当は困るのかもしれない、けど、もし本当の本当にこれで生きていけないほどに困るというのなら。自分でどうにかするべきで、それができずに困るのなら、生きていけなくなるのなら。
それは仕方のないことなのだ。
父がこういう状況にあるのは、彼の人生の選択のその果てにあることで、だからこれは彼が潜在的に望みをかなえ続けた先にある時間で。
だから。
だから、彼は本当は困ってはいないのだ。
そう考えることは、無理矢理に実家に行くこと以上の恐怖だった。
それでも僕は、毎週行っていた実家行きを、10日に一度にし、2週間に一度にした。
2週間の間、父が食べることに困らないように、電子レンジだけで完結しそうな食べ物を、台所に詰め込めるだけ詰め込んだ。
この時によく買っていたものは、本当に本当に便利でとてもお世話になったのだけれど、それと同時にこの時期の記憶とあまりにも紐付いてしまって、自分のためにはもう買えないかもしれない。
排泄と入浴、洗濯機を使うこと、簡単な食事の支度は、父も自力で出来ていた。
いつまで続くのかはわからないけれど、それでも低空飛行の父の暮らしは、安定しているように見えた。
もちろん、それはものすごい楽観的なものの見方であって。
2週間の間に、父が急死する可能性は常に頭の片隅にあった。
それでも、
たとえばいっしょに蔵書の整理をし始めた父の、
ぼんやりしている割に、妙に鋭いことを言って、読みたい本と、処分していい本を、仕分けている父の様子は、なんだかとっても元気に見えた。
何の本だったか。
知の巨人と呼ばれた吉本隆明先生の文庫本を『捨てない』本に選んだ父はこう言った。
「こんなこと書かれちゃあ、読まないわけにいかないよねえ」
父が吉本隆明を「読まねば」と思うに至った「こんなこと」がどんなことだったのか、どうしても思い出せない。
2025年7月の休息
そうして、僕が月末に行った後。
2週間後にあたるその翌月の半ばを、珍しく兄弟が父の様子を見るのを引き受けてくれて。
僕は2024年1月から始まって半年以上ぶりに、父のところへ行かない4週間を手に入れた。
それが、2025年7月だった。
その月を、どんな風に過ごしたのかの記憶がほとんどない。
兄弟が行った日、父は下半身丸出しで西日の当たる部屋に座り込んでいたらしい。
父に服を着せ、階下にある私が掃除しておいたエアコンのある部屋に移して、水と食事を取らせた、という連絡を受けた。
「あんな暑い部屋になんでいたんだろう」
と、兄弟は言った。
僕が次に父の家に行くのは2週間後。8月1日に決めていた。
2週間、保つんだろうか、と兄弟の話を聞いて僕は思った。
行く日を早めるべきかどうか、悩んで結局やめた。
僕は、8月1日へ行く。そうする。
2025年8月、幻影のガンジス
僕が来訪する予定日の前日夜。
実家の近所の酒屋さんから電話が入った。
「お父さんを3週間以上お見かけしていませんが大丈夫ですか」
という電話だった。
兄弟が父に会いに行ったのが2週間前で、その時点で父は、ぼんやりとはしていたけれど、食事も取れたし話はできていた、ということであって。
けれど、酒屋さんが3週間見ていないというのなら、兄弟が訪ねるよりも1週間も前から酒屋さんには行っていないことになる。
これは、おかしいかもしれない。
まったくもって褒められる話ではないけれど、僕の父はどんな身体の状態になっても、酒を飲むことをやめられない人だ。
だから、介護の世話を僕がしにいくようになってからも、父はずーっと酒屋通いをしていた。日に2回酒屋さんに行く日もあったと聞いていた。
とうとう、来る時が来たのだろうか。
父は、もう危ないのかもしれない。
8月1日、僕は実家に向かった。
見つけることになるのは、父の死体かもしれない。その可能性が高い、と僕は思っていた。
恐る恐ると踏み入れた家の中、
兄弟が2週間前に見たというのと同じ、エアコンの無い西側の部屋で、
下半身を丸出しにし、血まみれのランニングシャツを着て、骨と皮になってベッドの上に転がる、父が居た。
生きていた。
僕が手を貸すと、父はゆっくり起き上がった。
僕は、その姿を見た時に、ガンジス川のほとりで沐浴をするインドの修験者みたいだなあ、と思った。
見知っていた、恰幅のいい、酒飲みの父はいなかった。
極限までそぎ落とされた骨と皮、死んでいてもおかしくはなさそうなのに、顔は生気が無いというよりは、すっきりとしていて、落ちくぼんだ目の奥だけが爛々としていた。
着ている服が血まみれなこともそうだったけれど、ベッドの上にも血だまりが乾いた跡があった。
動くつもりは、なさそうだった。
西側の部屋だったけれど、雨戸が閉め切られているおかげか、懸念したほどには暑くなかった。
水を飲ませた。
僕は、食べさせようと思って持って行った、何を作ったんだったろう。
何か料理をしていったはずだ。
それを一口食べさせてみた。
味が濃い、と言って、あまりおいしくはなさそうだった。
僕がたまたま職場の人から貰って、持ってきていたとても良い桃を、切って、それも食べさせてみた。
甘すぎると言って、これも数切しか食べなかった。
兄弟が2週間前に、父に食べさせたと言っていた弁当のガラ以外に、台所に食べ物のゴミはなかった。その代わりに、得体の知れない物体が、ごみ箱に入っていて、人間の排泄物だということに気が付くのに時間がかかった。
何枚も置いておいたはずの下着はどこにも見当たらない。
と思っていたら、ごみ箱の中に見つけた。
これは多分、トイレに行けなくなったんじゃないだろうか、と思った。
それでも不思議なことなのだけれど、おそらくは入浴も排泄も、自分の世話はどうやらできなくなったらしい父の身体からは、何の異臭もしていなかった。
カラカラに、うまい具合に乾燥した木みたいだった。
腐るんじゃなくて、中の水分だけが抜けて、綺麗なガワが残ろうとしている。
僕は、たまに、家の中で果物を食べ忘れてしまうことがあって、ほとんどの果物はもちろん腐ったりかびたりするのだけれど。
ほんの時々、綺麗に乾燥していく果物がある。
大抵、ものすごく“良い”果物だと言ってもらったものに限ってそうなるので、いわゆる“良い”と言われる、質の高い生命力のあるような果物には、かびたり腐ったりで悪くなるのではなくて、クオリティを保ったまま、老化をしていくみたいにして、まるごと乾燥をしていく力があるんじゃないか、と思っているんだけれど。
まさに、そんな感じの乾き方だった。
このタイミングでこんなことを思うのもなんだかなとは思うのだけれど、
おそらく僕は、僕の人生で初めて、何日もの間、アルコールを摂取していない父を、このとき目の当たりにしていた。
救急車を呼ぶべきかどうか
さて、この状態の父をどうすればいいんだろう、と思った。
声をかければ返事をするし、
手を握れば握り返す、
ゆっくりと起き上がることも、
歩いてみてと言えば歩くこともできる。
僕はどうにも決めかねて「7119」に電話をしてみた。
救急車を呼ぶべきかどうかを、相談させてくれる電話番号だ。
状況を説明して、するように言われた動作確認も何もかもをやってみた結果、7119の判断は、
「普通の内科を受診する」
というもので、近隣の初診で見てくれる内科の病院の連絡先を教えてもらった。
とはいえ、受診してくれとは言われても、この状態ではタクシーを呼ぶしかない。
ひとまず紹介された病院に電話をして、初診で向かうことを伝えようとおもったのだけれど、電話に出てくれた事務の男性の言葉が流れを変えてしまった。
「救急車を今すぐ呼んでください」
「僕は医者でも看護師でも無い、事務方の人間なんです。だから本当はこんなことを言う権限は無くて、でも、その状態は救急車を呼ぶべきだと思います。呼んで良いです」
僕はこの人の言葉に従い、救急車を呼んだ。
呼んで、来てくれた救急隊員の方々も、とても親切だった。
僕の状況、父の状況、搬送しても、入院にならなかったら、この家の中に父が一人になるであろうことへの懸念。
「なるべく入院に対して前向きになってくれそうな病院を探しますから」
と言われた。
そんなことってできるものなのかどうかは知らない。
電話に出てくれた内科の事務の方といい、この協力的すぎる救急隊の方との出会いといい、
今、自分は不思議な流れの中にいる、と思った。
下着が見当たらないという僕からのヘルプ要請を受けて、父のパンツを買った母もやって来てくれていた。
なんやかんや119番が16時前
救急車に乗り込めたのが16時半頃
受け入れ先の病院が見つかったのが16:40頃
病院の救命到着が17時
呼ばれて入院決定ですって言われたのが18時
入院病棟に移動開始が18:50頃
病室に入れたのが18:55頃
僕が病院を後にしたのが19:30だった
諸々の記録から時間計算した
これは、多分搬送当時、なんとか記事にしようとしたらしい(そして、できなかった)僕が残していたメモだ。
結論から言えば、父はこの日、問答無用で入院になった。
理由は、当初予測した熱中症ではなく、脳内出血だった。
「命に別状はないんですけれども」
と、救急で担当してくれたドクターは言った。
「ただ、一人で暮らして行くのは無理だと思います」
命の別状はない、という言葉のニュアンスを考える。
一人で暮らしていけない人は、もはや命の別状がある人なんじゃないのか。
それを言ったら、本当の本当に『命の別状がある』人を軽んじたことになるのかもしれないけれど。
2026年、そしてミッキーマウス
8月1日に入院した病院には、約3か月。
父は、この、ひとつめの入院先にいる途中から、僕の名前が出て来なくなっていって、正式に認知症の診断がくだった。
その後、あの日、僕が電話をして、父を救急搬送するようにと導いてくれた内科の病院へ、縁があって転院することになる。
移動したそこでも約3か月入院をしている間に、父の介護度は要介護4になった。
これは、寝たきりではない人間の介護度としてはMAXなのだそうだ。
この頃、父が退院する日が来るかもしれない、と案じたらしい僕の兄弟は、要介護1では差し迫っていないからと言って断られたケアマネージャーの事業所に、また連絡を取ったらしい。
要介護4になったことを伝えたら、今度は、
「それはこちらでは手が余るので」と断られたそうだ。
結果的に、父はこの後病院を出ることにはならなかったのだけれど、介護の現場というものは、かなり小さな穴に糸を通すような条件のもとで、どうにかこうにかやりくりをしているのだな、と話を聞きながら思った。
「一人で暮らしていける要介護1だと、
『それは我々がお世話をする必要はないですね』って言われて、ケアマネージャーさんは頼めなくて、
一人で暮らしていけない要介護4でも、
『それは我々に依頼する範疇を越えてますね』って言われて、ケアマネージャーさんを頼めなくて。
どのタイミングだったら『頼んでいい』タイミングだったんだろうね」
と、僕の兄弟は笑っていた。
二つ目の病院では、軽度の潰瘍性大腸炎が見つかった。
潰瘍性大腸炎は難病に該当する病気だけれど、父の場合は難病と認定されないくらいのものだということだった。
本当にそうなのだろうか。確かめる術はあるようで無い。
軽度だから、というわけではないのだろうけれど、その内科的治療以上に、精神面の問題行動のほうが重くなっていった。
面会に行くと、ひどく暴力的な空気をまとっている日もあった。
大部屋で、他の人間がいる状況でも、こちらを殴ろうとするモーションをされれば足がすくんだ。
時折、父は僕の兄弟の名前を呼んだ。
来ているだろうと、さっき見かけたからと、言われたけれど、僕の兄弟はもちろん来ていなかった。
父は僕の兄弟、つまるところ自分の息子を、とても気にしていた。
それは実は昔から、
父がまだ元気で、僕が父と暮らしている頃から、ずっとそうだった。
けれど父はいざ自分の息子を前にすると、いない間に口にしていた言葉とはまるで裏腹な態度になる。
だから、僕の兄弟は、自分が父から疎んじられていると思いこそすれ、愛されていたり、気にされていたりするとは思えないと思うし、思う必要もない。
ただ、“父”という存在の視点に立って見れば、可愛がっていたんだから、きちんとわかりやすく可愛がればよかったのに。
ただ単純に不幸な話だなと思う。
そして父は、仕事場の話もしていた。
病室は、彼の頭の中で、彼のかつての仕事場だった舞台の楽屋になっていた。
なるほど、そういう目で見ると、色んな人間が入れ代わり立ち代わり忙しそうに出入りする様子は、舞台裏に似ていなくもない。
父は、隣のベッドの患者さんを訪ねてやってくるお身内に、楽屋の主のような調子で声をかけようとした。
仕事を愛していたんだなあと思って、僕はその旨を病院のケースワーカーさんにしみじみと話したのだけれど、ケースワーカーさんから、
「昨日は、潜水艦の中になってましたよ」
と言われて、しみじみと出かかっていた涙が引っ込んだ。
そうだね、あなた海軍ものが好きで、特にイギリス海軍のファンだったものね。
なーんだ。
愛する仕事場に心が行ってしまったわけじゃなくて、色んな好きなものを都合よく出し入れしているんかい。
こんなにわけがわからない状態になっているのに、自分の中にある“好きな物”を箱から引っ張り出すみたいにして生きるのだから、人間は謎の胆力があるなと思う。どことなく、植物を思わせる、ずるずると地を這うような底力がある。
そこからさらに転院することになり、2025年12月中頃。父は三つ目の病院に移った。
最初に父が倒れた報を受けてから、一年が経とうとしていた。
精神科に特化した三つ目の病院のおかげで、父の問題行動はかなり落ち着いたと聞いている。
二つ目の病院では、不潔行為や夜間の徘徊があったらしいから、どういう様子かを心配していたのだけれど、何事もなくおとなしくしているらしい。
面会の時、
僕は、父を彼の仕事の時の呼び名で呼びかけてみた。
彼が愛する仕事場の記憶を、もしもまだ鮮やかに持っているんだったら、その話ができない環境は気の毒に思えたのだけれど、
父は、自分の仕事での名前をすっかり忘れていた。
「誰が来るの? その人が来るの?」
と言うので、その人は来ないよ、と返事をした。
“その人”は、父本人であり、
父が“その人”の名前を忘れてしまったのなら、
“その人”はもう二度と来ないよ。
なんとなく、大きな皮がぼろんと外れて消えていく景色が見えた気がした。
大きな古い木の皮が、べこりと剥がれ落ちるみたいなイメージ。
父の介護に付き合っている間に、父という“個人”を通して、“人間”という生命体に起きる、普遍的な変化を見せられている瞬間が、多々あったんだろうと思う。
それは、カラカラに乾いたまま必要最低限で生きる父を見つけた時だったり、
まともに働かない思考の端でも、昔の記憶から何かを引っ張り出す奇妙なしぶとさだったり、
それでも古くなって使わなくなった表皮が大きく剥がれ落ちる瞬間だったりした。
そんな時に、不思議と頭に浮かぶのはいつも植物の姿だった。
人間は動物的というよりも、植物的な存在なのかもしれないな、なんてことを父を通して僕は思った。
いずれ自分にもやってくるはずの、生き物として向かう先の姿。
僕は父の本名を呼んでみた。
父はきびきびと手を上げて返事をした。小さな子どもみたいに。
「わたしのことはわかりますか」と、僕は僕を指さして言った。
父はあまり興味はなさそうに「うん」というだけで、僕の名前を口にしたりはしない。
ふと思い立って、
僕は、その日着て行っていた洋服の背中を見せてみた。
「ミッキー」
と、父は言った。
僕はこのとき、ミッキーマウスの魔法使いの弟子が描かれた服を着ていた。
父は、自分が子どもの頃に、テレビで『ミッキーマウス・クラブ』という番組が始まったのだ、という話を昔よくしていた。
ディズニーに憧れ続けていた父だ。
いや、娘の名前よりもミッキーのほうがわかるんかい。
ミッキーマウスは、父にしてみれば娘なんかよりよほど付き合いが長い存在なんだろう。
面会室に、看護師さんが父を迎えに来た。
僕は、父に背中を向けて喋る、どう考えても不審な状況の自分の言い訳をすることになった。
「ミッキーマウスはわかるみたいで」
という僕の説明に、看護師さんが、ああ!と声を上げる。
「この間も急にミッキーって言ってたんですよ、ミッキーマウスのことだったんですね! 急にどうしたのー、かわいーって看護師たちで言ってて」
父よ、あなた「かわいー」って言われてんのか。
何をしたら「ミッキー」って言っただけで「かわいー」ってな状態になるのか。
看護師さんの説明は、わかるようで何もわからない話だった。
被せるようにもう一度「ミッキー」と父は言った。
時に薄皮を剥ぎ取るように、
時に大きなナタで叩き割るように、
何もかもを失って手放していった先で父の中に残ったのはミッキーマウスだったのか。
それも所詮は一時的なもので、ミッキーマウスすら父の中からいずれいなくなるかもしれないし、外からは見えないだけで父の中にずっとあるかもしれない。
父が、当人がいないところでだけ、僕の兄弟・自分の息子のことを褒め、労っていたみたいに。
僕を相剋の此岸に残し、
幻のガンジスを経て、
植物めいた不思議な生命力を駆使しながら、
父の魂はミッキーマウスと共にある。今のところは。
