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第3章 Scene16「浄化、と呼ぶ 」|テルナ・ヴァイド

第3章 正義という名の暴力

― 守るために、奪われるもの ―

 

Scene 16 浄化、と呼ぶ

 

 最初に気づいたのは、匂いだった。

 油を塗った鉄と、湿った革の匂い。

 

 いつものラグナの朝は、焼き上がったパンの匂いから始まる。

 屋台へ水を撒く音。

 荷車の車輪が石畳を擦る音。

 魚の値を張り上げる商人と、その半分まで値切ろうとする客の声。

 

 昨日まで、ここにはそういう朝があった。

 今朝はない。

 代わりに、兵たちの装備から漂う匂いがあった。

 

 病院にいた頃、これに似た空気を知っていた。

 救急搬入口に車が止まり、患者が運び込まれる直前。

 まだ何も見ていないのに、何かが起きたと身体だけが先に知る。

 あの感覚だった。

 

 朝の鐘が鳴った。

 一度。

 二度。

 三度。

 三度目が腹の奥まで響いた時、通りにいた人間が一斉に顔を上げた。

 隣を歩いていたフィーナも足を止めた。

 

「何が始まる」

 俺が聞くと、フィーナは市場の西側を見たまま答えた。

「もう始まっている」

 

 ラグナ中央市場の西端。

 旧市場区へ続く道に、神殿兵が横一列に並んでいた。

 中央市場そのものを塞いでいるわけではない。旧市場区へ入る道と、その周辺だけが木柵と兵によって区切られていた。

 剣は抜いていない。槍の穂先も下を向いていた。

 それでも、人を通さないためには十分な数だった。

 

 兵の後ろには、白い外套を着た記憶管理官がいた。そのさらに奥では、黒い縁取りの紋章をつけた兵が、木箱や術式具を運び込んでいた。

 フィーナの目が、その紋章で止まった。

「知ってるのか」

 フィーナは、紋章から目を離さなかった。

「ヴェスタ中央神殿の特務任務部隊だ」

「ラグナの神殿じゃないのか」

「ああ」

 短い返事だった。

 

 旧市場区側から、住民が中央市場へ誘導されてきた。

 荷物を抱えた商人。

 眠そうな子ども。

 店を開けたばかりなのか、前掛けをつけたままの女。

 

 兵は声を荒らげていない。誰かを殴っているわけでもなかった。

 ただ、道の両側に立ち、肩や背中へ手を添えて、進む方向を決めている。

 その丁寧さの中で、人の流れは一つになっていた。

 

「止まってください」

 封鎖線の手前で、若い兵が片手を上げた。

「この先は一時封鎖中です」

「理由は」

 フィーナが聞いた。

 兵は答えず、木柵の内側を指した。

 

 小さな木台の上に、ラグナ神殿の若い神官が立っていた。

 配給所で見かけたことのある顔だった。

 両手で紙を広げている。

 指先が、わずかに震えていた。

 その後ろには、灰色の外套を着た男が立っていた。胸元にはヴェスタ中央神殿の印。特務任務部隊の現場指揮官らしい。

 

 若い神官が紙へ目を落とした。

「旧市場区で、管理されていない記憶の瓶が発見されました」

 声は震えていなかった。

「一部で残響の漏出が確認されています。住民保護のため、旧市場区と周辺道路を一時封鎖します」

 列の中で、誰かが息を呑んだ。

「記憶の瓶や、それに関係する記録を所持している者は、確認に応じてください。作業を妨害した場合は、一時拘束の対象となります」

 

 神官は一度だけ唇を湿らせ、紙を畳んだ。

 すぐに反発する者はいなかった。

 

 言っていることは、分からなくはない。

 管理されていない記憶の瓶。

 漏れ出す残響。

 頭痛や混乱を起こす可能性。

 放っておけるものではない。

 少なくとも、その説明だけを聞けば。

 

「リオル」

 俺は呼んだ。

 

 封鎖線の内側で、若い神殿騎士が振り返った。

 いつもの軽い笑顔はない。簡素な装備の上から外套を羽織り、手にした命令書を確認しながら、部下へ指示を出していた。

「住民を押すな。子どもと歩けない人を先に通せ。荷物は後でいい」

「ですが、照合の順番が――」

「住民誘導が先だ。転ばせるな」

 若い兵が返事をし、列の端へ走っていった。

 

 リオルがこちらへ来た。

「ソウルさん。フィーナ」

「何があった」

「未登録の瓶が見つかりました。破損しているものもあります」

「怪我人は」

「今のところ、大きなものはありません。ただ、気分を悪くした人が数人います」

「見てもいいか」

 リオルは一瞬、後ろに立つ現場指揮官を見た。

「封鎖区域の外まで運びます。そこでお願いします」

 俺は頷いた。

 

 その直後、旧市場区側で何かが割れた。

 甲高い音。

 続いて、誰かが短く叫んだ。

 兵が一斉に動いた。

「下がれ!」

 記憶管理官が声を上げた。

 

 屋台の下から、青白い光が滲んでいた。

 小さな瓶だった。首の部分に亀裂が入り、中の光が煙のように漏れていた。

 近くにいた男が、頭を押さえて膝をついた。

「痛い……頭が……」

 

 俺は封鎖線を越えようとした。

 兵が腕を出した。

「入れません」

「倒れてる」

「管理官が処理します」

 

「瓶に近づくな」

 フィーナの声だった。

 俺は足を止めた。

 フィーナは、瓶から漏れる光を見ていた。

「あれは普通の瓶じゃない」

「危険なのか」

「ああ。残響が外へ漏れている」

 

 記憶管理官が厚い手袋をはめ、地面へ術式布を広げた。

 淡い金色の線が、瓶の周囲を囲んでいった。

 別の管理官が専用の箱を開いた。二人がかりで瓶を持ち上げ、術式布ごと箱へ収めた。

 蓋が閉じられると、青白い光は見えなくなった。

 リオルが近くの兵へ手を上げた。

「その人を外へ。歩かせるな」

 

 兵が男の両脇を支え、封鎖線の外まで運んだ。

 石壁のそばへ座らされた男に、俺は駆け寄った。

「聞こえますか」

 肩へ触れた。

 呼吸は速い。脈も速いが、意識はある。

「吐き気は」

「少し……声が……」

「今も聞こえますか」

 男は目を閉じた。

「分からない。泣いてるような……」

「無理に思い出さなくていい。ゆっくり息をしてください」

 男の背を石壁へ預けさせ、口を湿らせる程度に水を渡した。

 何度か呼吸を繰り返すと、男の肩から少しだけ力が抜けた。

 

 振り返ると、記憶管理官が封印箱へ管理番号を書いていた。

 あの瓶は放置できない。

 その判断は正しい。

 

 病棟でも、似たようなことをしていた。

 期限の切れた薬を回収する。

 汚染された器具を隔離する。

 誰かが嫌がっても、やらなければならない仕事がある。

 

 ただ。

 嫌がられたことを、正しさの証拠にしてはいけない。

 それも知っていた。

 

「必要な仕事だな」

 独り言のつもりだった。

 フィーナが横で言った。

「今のところは」

 その言葉が引っかかった。

 問い返す前に、別の声が上がった。

 

「帳面も出してください」

 封鎖線の内側に設けられた臨時検査区画で、持ち物の確認が始まっていた。

 最初に確認されていたのは、記憶の瓶だった。

 だが、それだけでは終わらなかった。

 

 商人の帳面。

 宿屋の名簿。

 施療所の記録。

 危険かどうかにかかわらず、文字が残されたものが次々と開かれていった。

 

「それは患者の記録です」

 若い神官が声を上げた。

「確認後に返却する」

「個人の症状と施療内容が書かれています」

「関連記録だ」

 記憶管理官は同じ言葉を返した。

 

 リオルが近づいた。

「命令書を見せてください」

 現場指揮官が眉を寄せた。

「先ほど確認したはずだ」

 リオルは手元の命令書を開いた。

「命令にあるのは、記憶の流通や保管に関係する記録です」

「該当すると判断した」

「生活のための記憶帳まで、一律に含める命令ではありません」

「分類は回収後に行う」

「ならば、押収の理由を一つずつ記録してください」

 

 現場指揮官は、リオルをまっすぐ見た。

「騎士リオル。これは住民保護のための措置だ」

「分かっています」

「ならば、任務へ戻れ」

 

 リオルは返事をしなかった。

 命令書へ視線を落とした。

 書かれている言葉は変わっていない。

 その言葉で、どこまで奪えるのか。

 それを決める人間だけが、変わっていた。

 リオルは命令書を閉じ、住民の列へ戻った。

 まだ動かせるものを、探しているように見えた。

 

 その時。

 列の中に、見覚えのある外套があった。

 褪せた青。

 袖口を、別の布で縫い直してある。

 

 少女が、女の手を引いていた。

 女は胸元へ、一冊の薄い帳面を抱えていた。

 どこかで見た。

 そう思った瞬間、少女が顔を上げた。

 母親は、少女の手と帳面を交互に見ていた。

 確かめなければ、どちらを信じればよいのか分からないように。

 

「次」

 記憶管理官が手を伸ばした。

「記録媒体を確認します」

 母親は帳面を抱えたまま動かなかった。

「規則です。一時的にお預かりするだけです。受取証をお渡しします」

「返してもらえますか」

「確認が済み次第」

「いつですか」

 記憶管理官は答えなかった。

 答えられなかったのかもしれない。

 

 母親は、帳面を胸に抱いたまま言った。

「これがないと」

 叫んでいなかった。

 泣いてもいなかった。

 人に事情を説明する時の声だった。

「これがないと、この子が誰なのか分からなくなるんです」

 

 周囲の音が、少し遠くなった。

 記憶管理官の手が、わずかに止まった。

 それでも、引っ込めはしなかった。

 

「お名前を確認します」

 少女が、自分の名前を答えた。

 記憶管理官は帳面を受け取り、最初の頁を開いた。

 少女の名前。

 二人が親子であること。

 帰る家と、眠る場所。

 帳面がなければ失われるものが、短い言葉で並んでいた。

 

 記憶管理官は帳面を閉じた。

「関連記録として保管します」

 

 母親の腕から、帳面が離れた。

 破り取られたのではない。

 母親の指が、先に開いた。

 

 紙が一枚、差し出された。

「受取証です」

 番号。

 押収物の分類。

 管理官の印。

 それだけだった。

 

 少女が娘であることは、どこにも書かれていない。

 母親は受取証を両手で受け取った。

 帳面を持っていたのと、同じ持ち方だった。

 

 少女は泣かなかった。

 母親の顔も見なかった。

 帳面が入れられた箱を、ずっと目で追っていた。

 どの箱に入ったのかを、覚えようとしている目だった。

 

 記憶は、今ここで奪われたわけではない。

 母親はすでに、娘の記憶を失っている。

 今、奪われたのは。

 娘を娘だと確かめる方法だった。

 

 俺は一歩前へ出た。

「ソウル」

 フィーナの声がした。

 止める手は伸びてこない。

 フィーナはただ、俺と箱の間にいる兵の数を見ていた。

「今は、取り返せない」

「今は、って何だ」

 フィーナは答えなかった。

 

 帳面が、他の記録と同じ押収箱へ入れられた。

 母親は、まだ少女の手を振りほどかなかった。

 帳面を読んだばかりだからなのかもしれない。

 その確信が、いつまで続くのかは分からなかった。

 

「子どもと、具合の悪い者を先に通せ」

 リオルの声が響いた。

 列の後ろで、若い兵が首を振った。

「順番を崩せば照合が――」

「住民誘導の範囲だ」

「ですが」

「倒れてからでは遅い」

 

 リオルは子どもを抱えた女を列の外へ通した。

 次に、足元のおぼつかない老人を支えた。

 命令へ逆らっているわけではない。

 命令の中に残された言葉を使って、人を外へ出している。

 それが、今のリオルにできることのすべてなのかもしれなかった。

 リオルは老人を支えたまま、封鎖線の反対側へ歩いていった。

 やがて、その背中は人の列へ隠れた。

 

 封鎖区域の外へ、押収箱が運び出されていった。

 その反対側から、別の木箱が来た。

 兵が二人がかりで抱えている。蓋の隙間から、青や紫の光が漏れていた。

 

「あれも、押収したものか」

 フィーナが箱を見た。

「逆だ」

「逆?」

「持ち込んでいる」

 

 木箱は封鎖区域の内側へ運び込まれていった。

「何のために」

 フィーナは、封鎖線の内側に設置された術式具を見た。

「術式を動かすには、燃料がいる」

 それ以上は言わなかった。

 

 気づけば、箱の数を目で追っていた。

 病棟にいた頃からの癖だった。

 数えたところで、何かを変えられるわけではない。

 帳面を収めた押収箱にも。

 記憶の瓶を収めた燃料箱にも。

 神殿の管理番号が記されていた。

 

 封鎖線に沿って歩くと、ガルムの工房が見えた。

 戸は開いていた。

 街の半分が塞がれた朝にも、そこだけは変わらないように見えた。

 開いた戸の向こう。

 作業台には、手つかずのパンが残っていた。

 

 その時。

 封鎖線の外側で、栗色の髪が揺れた。

 レンだった。

 いつものパン籠を持っていない。

 肩にあるのは、いつもの鞄だけだった。

 それだけで、普段のレンとは違って見えた。

 

 木柵に沿うように、避難する住民とは逆方向へ走っていた。

「レン!」

 俺は呼んだ。

 

 鐘の余韻。

 兵の指示。

 住民の声。

 全部に飲まれた。

 

 レンは振り返らなかった。

 誰かとすれ違った。

 立ち止まらず、折り畳んだ紙だけを渡した。

 相手の顔は、人の背に隠れて見えなかった。

 

「何してる」

 追おうとした。

 だが、封鎖線の木柵が動かされ、中央市場へ出てくる住民の列が前を塞いだ。

 兵の肩越しに、レンの背中が小さくなっていった。

 

 フィーナも見ていた。

「知ってるのか」

 フィーナは、すぐには答えなかった。

 その間に、レンは路地の向こうへ消えた。

 

 封鎖区域の外へ、母親の帳面が運ばれていく。

 封鎖区域の内側へ、術式を動かす記憶の瓶が運び込まれる。

 

 奪われているものと。

 持ち込まれているもの。

 形は、同じだった。


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【第1章 Scenen 1】

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※この小説「テルナ・ヴァイド」は、「小説家になろう」にも同時掲載しています。

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