第3章 統合版「正義という名の暴力」|テルナ・ヴァイド
第3章 正義という名の暴力
― 守るために、奪われるもの ―
Scene 16 浄化、と呼ぶ
最初に気づいたのは、匂いだった。
油を塗った鉄と、湿った革の匂い。
いつものラグナの朝は、焼き上がったパンの匂いから始まる。
屋台へ水を撒く音。
荷車の車輪が石畳を擦る音。
魚の値を張り上げる商人と、その半分まで値切ろうとする客の声。
昨日まで、ここにはそういう朝があった。
今朝はない。
代わりに、兵たちの装備から漂う匂いがあった。
病院にいた頃、これに似た空気を知っていた。
救急搬入口に車が止まり、患者が運び込まれる直前。
まだ何も見ていないのに、何かが起きたと身体だけが先に知る。
あの感覚だった。
朝の鐘が鳴った。
一度。
二度。
三度。
三度目が腹の奥まで響いた時、通りにいた人間が一斉に顔を上げた。
隣を歩いていたフィーナも足を止めた。
「何が始まる」
俺が聞くと、フィーナは市場の西側を見たまま答えた。
「もう始まっている」
ラグナ中央市場の西端。
旧市場区へ続く道に、神殿兵が横一列に並んでいた。
中央市場そのものを塞いでいるわけではない。
旧市場区へ入る道と、その周辺だけが木柵と兵によって区切られていた。
剣は抜いていない。槍の穂先も下を向いていた。
それでも、人を通さないためには十分な数だった。
兵の後ろには、白い外套を着た記憶管理官がいた。そのさらに奥では、黒い縁取りの紋章をつけた兵が、木箱や術式具を運び込んでいた。
フィーナの目が、その紋章で止まった。
「知ってるのか」
フィーナは、紋章から目を離さなかった。
「ヴェスタ中央神殿の特務任務部隊だ」
「ラグナの神殿じゃないのか」
「ああ」
短い返事だった。
旧市場区側から、住民が中央市場へ誘導されてきた。
荷物を抱えた商人。
眠そうな子ども。
店を開けたばかりなのか、前掛けをつけたままの女。
兵は声を荒らげていない。誰かを殴っているわけでもなかった。
ただ、道の両側に立ち、肩や背中へ手を添えて、進む方向を決めている。
その丁寧さの中で、人の流れは一つになっていた。
「止まってください」
封鎖線の手前で、若い兵が片手を上げた。
「この先は一時封鎖中です」
「理由は」
フィーナが聞いた。
兵は答えず、木柵の内側を指した。
小さな木台の上に、ラグナ神殿の若い神官が立っていた。
配給所で見かけたことのある顔だった。
両手で紙を広げている。
指先が、わずかに震えていた。
その後ろには、灰色の外套を着た男が立っていた。胸元にはヴェスタ中央神殿の印。特務任務部隊の現場指揮官らしい。
若い神官が紙へ目を落とした。
「旧市場区で、管理されていない記憶の瓶が発見されました」
声は震えていなかった。
「一部で残響の漏出が確認されています。住民保護のため、旧市場区と周辺道路を一時封鎖します」
列の中で、誰かが息を呑んだ。
「記憶の瓶や、それに関係する記録を所持している者は、確認に応じてください。作業を妨害した場合は、一時拘束の対象となります」
神官は一度だけ唇を湿らせ、紙を畳んだ。
すぐに反発する者はいなかった。
言っていることは、分からなくはない。
管理されていない記憶の瓶。
漏れ出す残響。
頭痛や混乱を起こす可能性。
放っておけるものではない。
少なくとも、その説明だけを聞けば。
「リオル」
俺は呼んだ。
封鎖線の内側で、若い神殿騎士が振り返った。
いつもの軽い笑顔はない。
簡素な装備の上から外套を羽織り、手にした命令書を確認しながら、部下へ指示を出していた。
「住民を押すな。子どもと歩けない人を先に通せ。荷物は後でいい」
「ですが、照合の順番が――」
「住民誘導が先だ。転ばせるな」
若い兵が返事をし、列の端へ走っていった。
リオルがこちらへ来た。
「ソウルさん。フィーナ」
「何があった」
「未登録の瓶が見つかりました。破損しているものもあります」
「怪我人は」
「今のところ、大きなものはありません。ただ、気分を悪くした人が数人います」
「見てもいいか」
リオルは一瞬、後ろに立つ現場指揮官を見た。
「封鎖区域の外まで運びます。そこでお願いします」
俺は頷いた。
その直後、旧市場区側で何かが割れた。
甲高い音。
続いて、誰かが短く叫んだ。
兵が一斉に動いた。
「下がれ!」
記憶管理官が声を上げた。
屋台の下から、青白い光が滲んでいた。
小さな瓶だった。首の部分に亀裂が入り、中の光が煙のように漏れていた。
近くにいた男が、頭を押さえて膝をついた。
「痛い……頭が……」
俺は封鎖線を越えようとした。
兵が腕を出した。
「入れません」
「倒れてる」
「管理官が処理します」
「瓶に近づくな」
フィーナの声だった。
俺は足を止めた。
フィーナは、瓶から漏れる光を見ていた。
「あれは普通の瓶じゃない」
「危険なのか」
「ああ。残響が外へ漏れている」
記憶管理官が厚い手袋をはめ、地面へ術式布を広げた。
淡い金色の線が、瓶の周囲を囲んでいった。
別の管理官が専用の箱を開いた。二人がかりで瓶を持ち上げ、術式布ごと箱へ収めた。
蓋が閉じられると、青白い光は見えなくなった。
リオルが近くの兵へ手を上げた。
「その人を外へ。歩かせるな」
兵が男の両脇を支え、封鎖線の外まで運んだ。
石壁のそばへ座らされた男に、俺は駆け寄った。
「聞こえますか」
肩へ触れた。
呼吸は速い。脈も速いが、意識はある。
「吐き気は」
「少し……声が……」
「今も聞こえますか」
男は目を閉じた。
「分からない。泣いてるような……」
「無理に思い出さなくていい。ゆっくり息をしてください」
男の背を石壁へ預けさせ、口を湿らせる程度に水を渡した。
何度か呼吸を繰り返すと、男の肩から少しだけ力が抜けた。
振り返ると、記憶管理官が封印箱へ管理番号を書いていた。
あの瓶は放置できない。
その判断は正しい。
病棟でも、似たようなことをしていた。
期限の切れた薬を回収する。
汚染された器具を隔離する。
誰かが嫌がっても、やらなければならない仕事がある。
ただ。
嫌がられたことを、正しさの証拠にしてはいけない。
それも知っていた。
「必要な仕事だな」
独り言のつもりだった。
フィーナが横で言った。
「今のところは」
その言葉が引っかかった。
問い返す前に、別の声が上がった。
「帳面も出してください」
封鎖線の内側に設けられた臨時検査区画で、持ち物の確認が始まっていた。
最初に確認されていたのは、記憶の瓶だった。
だが、それだけでは終わらなかった。
商人の帳面。
宿屋の名簿。
施療所の記録。
危険かどうかにかかわらず、文字が残されたものが次々と開かれていった。
「それは患者の記録です」
若い神官が声を上げた。
「確認後に返却する」
「個人の症状と施療内容が書かれています」
「関連記録だ」
記憶管理官は同じ言葉を返した。
リオルが近づいた。
「命令書を見せてください」
現場指揮官が眉を寄せた。
「先ほど確認したはずだ」
リオルは手元の命令書を開いた。
「命令にあるのは、記憶の流通や保管に関係する記録です」
「該当すると判断した」
「生活のための記憶帳まで、一律に含める命令ではありません」
「分類は回収後に行う」
「ならば、押収の理由を一つずつ記録してください」
現場指揮官は、リオルをまっすぐ見た。
「騎士リオル。これは住民保護のための措置だ」
「分かっています」
「ならば、任務へ戻れ」
リオルは返事をしなかった。
命令書へ視線を落とした。
書かれている言葉は変わっていない。
その言葉で、どこまで奪えるのか。
それを決める人間だけが、変わっていた。
リオルは命令書を閉じ、住民の列へ戻った。
まだ動かせるものを、探しているように見えた。
その時。
列の中に、見覚えのある外套があった。
褪せた青。
袖口を、別の布で縫い直してある。
少女が、女の手を引いていた。
女は胸元へ、一冊の薄い帳面を抱えていた。
どこかで見た。
そう思った瞬間、少女が顔を上げた。
母親は、少女の手と帳面を交互に見ていた。
確かめなければ、どちらを信じればよいのか分からないように。
「次」
記憶管理官が手を伸ばした。
「記録媒体を確認します」
母親は帳面を抱えたまま動かなかった。
「規則です。一時的にお預かりするだけです。受取証をお渡しします」
「返してもらえますか」
「確認が済み次第」
「いつですか」
記憶管理官は答えなかった。
答えられなかったのかもしれない。
母親は、帳面を胸に抱いたまま言った。
「これがないと」
叫んでいなかった。
泣いてもいなかった。
人に事情を説明する時の声だった。
「これがないと、この子が誰なのか分からなくなるんです」
周囲の音が、少し遠くなった。
記憶管理官の手が、わずかに止まった。
それでも、引っ込めはしなかった。
「お名前を確認します」
少女が、自分の名前を答えた。
記憶管理官は帳面を受け取り、最初の頁を開いた。
少女の名前。
二人が親子であること。
帰る家と、眠る場所。
帳面がなければ失われるものが、短い言葉で並んでいた。
記憶管理官は帳面を閉じた。
「関連記録として保管します」
母親の腕から、帳面が離れた。
破り取られたのではない。
母親の指が、先に開いた。
紙が一枚、差し出された。
「受取証です」
番号。
押収物の分類。
管理官の印。
それだけだった。
少女が娘であることは、どこにも書かれていない。
母親は受取証を両手で受け取った。
帳面を持っていたのと、同じ持ち方だった。
少女は泣かなかった。
母親の顔も見なかった。
帳面が入れられた箱を、ずっと目で追っていた。
どの箱に入ったのかを、覚えようとしている目だった。
記憶は、今ここで奪われたわけではない。
母親はすでに、娘の記憶を失っている。
今、奪われたのは。
娘を娘だと確かめる方法だった。
俺は一歩前へ出た。
「ソウル」
フィーナの声がした。
止める手は伸びてこない。
フィーナはただ、俺と箱の間にいる兵の数を見ていた。
「今は、取り返せない」
「今は、って何だ」
フィーナは答えなかった。
帳面が、他の記録と同じ押収箱へ入れられた。
母親は、まだ少女の手を振りほどかなかった。
帳面を読んだばかりだからなのかもしれない。
その確信が、いつまで続くのかは分からなかった。
「子どもと、具合の悪い者を先に通せ」
リオルの声が響いた。
列の後ろで、若い兵が首を振った。
「順番を崩せば照合が――」
「住民誘導の範囲だ」
「ですが」
「倒れてからでは遅い」
リオルは子どもを抱えた女を列の外へ通した。
次に、足元のおぼつかない老人を支えた。
命令へ逆らっているわけではない。
命令の中に残された言葉を使って、人を外へ出している。
それが、今のリオルにできることのすべてなのかもしれなかった。
リオルは老人を支えたまま、封鎖線の反対側へ歩いていった。
やがて、その背中は人の列へ隠れた。
封鎖区域の外へ、押収箱が運び出されていった。
その反対側から、別の木箱が来た。
兵が二人がかりで抱えている。蓋の隙間から、青や紫の光が漏れていた。
「あれも、押収したものか」
フィーナが箱を見た。
「逆だ」
「逆?」
「持ち込んでいる」
木箱は封鎖区域の内側へ運び込まれていった。
「何のために」
フィーナは、封鎖線の内側に設置された術式具を見た。
「術式を動かすには、燃料がいる」
それ以上は言わなかった。
気づけば、箱の数を目で追っていた。
病棟にいた頃からの癖だった。
数えたところで、何かを変えられるわけではない。
帳面を収めた押収箱にも。
記憶の瓶を収めた燃料箱にも。
神殿の管理番号が記されていた。
封鎖線に沿って歩くと、ガルムの工房が見えた。
戸は開いていた。
街の半分が塞がれた朝にも、そこだけは変わらないように見えた。
開いた戸の向こう。
作業台には、手つかずのパンが残っていた。
その時。
封鎖線の外側で、栗色の髪が揺れた。
レンだった。
いつものパン籠を持っていない。
肩にあるのは、いつもの鞄だけだった。
それだけで、普段のレンとは違って見えた。
木柵に沿うように、避難する住民とは逆方向へ走っていた。
「レン!」
俺は呼んだ。
鐘の余韻。
兵の指示。
住民の声。
全部に飲まれた。
レンは振り返らなかった。
誰かとすれ違った。
立ち止まらず、折り畳んだ紙だけを渡した。
相手の顔は、人の背に隠れて見えなかった。
「何してる」
追おうとした。
だが、封鎖線の木柵が動かされ、中央市場へ出てくる住民の列が前を塞いだ。
兵の肩越しに、レンの背中が小さくなっていった。
フィーナも見ていた。
「知ってるのか」
フィーナは、すぐには答えなかった。
その間に、レンは路地の向こうへ消えた。
封鎖区域の外へ、母親の帳面が運ばれていく。
封鎖区域の内側へ、術式を動かす記憶の瓶が運び込まれる。
奪われているものと。
持ち込まれているもの。
形は、同じだった。
Scene 17 忘れるな
フィーナは、レンが消えた路地を見たまま答えなかった。
やがて、封鎖区域の内側へ視線を戻す。
「見て、忘れるな」
「何を」
「ここで起きることを」
それは答えではなかった。
沈黙をごまかすために置かれた言葉に聞こえた。
問い返す前に、木柵の向こうから若い神官が駆けてきた。
息を切らし、額に汗を浮かべている。
「ソウルさん」
「どうした」
「マレクさんから、区域内の救護を手伝ってほしいと頼まれています。検査で気分を悪くした人が増えて、手が足りません」
旧市場区の内側へ目を向ける。
朝に嗅いだ鉄と湿った革の匂いに、焦げた木と薬品の匂いが混じっていた。
さらに、人の汗。
恐怖で浅くなった呼吸。
病棟で、患者の容体が急変した直後に似ていた。
誰もが動いている。
それなのに、何を優先するのかだけが揃っていない。
「行きます」
若い神官が頷いた。
封鎖線へ近づくと、兵が槍を横へ出した。
「許可がありません」
「施療所の手伝いだ」
リオルが、封鎖線の内側から歩いてきた。
「マレクからの要請を受けている。住民救護のため、区域内へ入れる」
兵は現場指揮官を見た。
灰色の外套を着た男は、俺を頭から足元まで一度見た。
肩の医療鞄で視線が止まる。
それから、何も言わずに目を逸らした。
答えないことが、通行の許可になった。
リオルは小さく頷いた。
「中では、勝手に動かないでください」
「怪我人がいても?」
一瞬、返事が遅れた。
「怪我人がいたら、私を呼んでください」
命令の中で守れる範囲を探している声だった。
俺とフィーナは木柵の隙間を通った。
旧市場区は、外から見た時より静かだった。
声を上げれば、自分が次に選ばれる。
そう知っている人間の静けさだった。
仮設検査所には、椅子が三脚並べられていた。
記憶管理官が一人ずつ住民を座らせ、額と胸元へ細い術式具を当てている。
淡い光が皮膚の上を走った。
名前を聞かれる。
光に包まれる。
終わった者は立たされ、次の者が座らされる。
何を調べているのか、列にいる者へ説明はなかった。
「これは何をされているんですか」
椅子に座った女が聞いた。
記憶管理官は術式具を額へ当てたまま答えなかった。
光が強くなる。
女の肩が跳ねた。
「頭が……」
術式具が離された。
女は立ち上がろうとして、膝から崩れた。
「何をしたんですか」
付き添っていた男が叫ぶ。
「記憶反応を確認しました」
管理官が、倒れた後になって説明した。
「外部記憶との接続と、不自然な欠損がないかを調べる検査です」
「先に言ってください」
「緊急措置のため、説明は後になります」
女は両手で頭を押さえていた。
呼吸が浅い。
肩が小刻みに上下している。
俺はそばへ膝をついた。
「聞こえますか」
女が頷く。
「吐き気は」
「少し……頭の奥が、引っ張られるみたいで」
手首へ触れる。
脈は速い。
意識はある。
「横になれますか」
「照合が残っています」
若い兵が言った。
「今は動かさない方がいい」
「検査が終わっていません」
「立てない人間に続けるのか」
「命令です」
「救護を優先しろ」
リオルの声が飛んだ。
若い兵が振り返る。
「ですが、検査が――」
「呼吸が止まれば、照合もできない」
リオルは女の反対側へしゃがみ、肩を支えた。
「外へ運ぶ。歩かせるな」
「現場指揮官の許可が」
「住民救護は命令書にある」
言葉は静かだった。
だが、返事を待つ声ではなかった。
兵は唇を結び、もう一人を呼んだ。
二人で女を持ち上げる。
リオルが書記役の神官へ向いた。
「検査前の説明を省略したこと。検査後に頭痛と吐き気が出たこと。現地記録へ残してください」
書記役が現場指揮官を見る。
「記録しろ」
指揮官は短く言った。
紙へ文字が残る。
それでも、次の住民が椅子へ座らされた。
異議が記録されたことと。
目の前の検査が続くこと。
二つは、何の矛盾もないように並んでいた。
俺は医療鞄から記録帳を出した。
女の名前。
検査を受けた時刻。
頭痛。
吐き気。
呼吸の速さ。
説明が後から行われたこと。
書けるものから書いた。
「何をしている」
フィーナが聞いた。
「残す」
「神殿も記録している」
「神殿が残さないこともある」
返すと、フィーナは検査所の周囲を見た。
兵の位置。
木柵の切れ目。
管理官が出入りする天幕。
住民が外へ抜けられる細い路地。
視線が順番に動いた。
「北側の路地は、兵が少ない」
「逃がすのか」
「女は逃げると言っていない」
フィーナは、検査所へ視線を向けたまま答えた。
「見ているだけだ」
その声には、見ているだけでは終わらない何かがあった。
次に座らされたのは、白髪の老人だった。
椅子へ座る前から、右手が震えている。
「名前を」
管理官が聞いた。
老人は口を開いた。
だが、声が出なかった。
付き添っていた娘らしい女が答える。
「ハルドです。父は、名前が出てこないことがあります」
「本人に答えてもらいます」
「だから、出ない時があるんです」
術式具が老人の額へ当てられた。
淡い光が走る。
老人の身体が強く揺れた。
「父さん!」
娘が近づこうとする。
兵が前へ出て止めた。
「検査中です」
「苦しんでるでしょう!」
老人の喉から細い音が漏れた。
両手が椅子の縁を掴んでいる。
指の関節が白くなっていた。
「中止してください」
俺が言った。
「強い反応があります」
「だから止めろ」
「危険記憶との接続が疑われます」
フィーナが一歩前へ出た。
「術式だけを見るな。本人の顔色も見ろ」
管理官が老人の顔を見る。
「呼吸が落ちている。続ければ意識を失う」
老人の息が一度途切れた。
術式具が離される。
身体が崩れた。
俺は肩と頭を支え、床へ横向きに寝かせた。
「聞こえますか」
返事はない。
呼吸はある。
脈は弱いが触れる。
娘がそばへ膝をついた。
「父さん」
「呼び続けてください。手を握って」
娘が老人の手を包む。
俺は記録帳へ書いた。
検査中に意識を失いかけた。
中止要請後も継続。
「その記録を提出してください」
記憶管理官が言った。
「何のために」
「作戦中に作成された関連記録です」
「被害を受けた人のために書いた」
「提出を拒否すれば、作戦妨害と判断します」
俺は記録帳を閉じ、医療鞄へ入れた。
「なら、そう書け」
「何を」
「誰が、いつ、何を理由に、被害者の記録を取り上げたのか」
管理官の表情が硬くなる。
フィーナが、俺と管理官の間へ半歩入った。
剣に手はかけていない。
それでも、そこを通れる空気ではなかった。
管理官はそれ以上近づかなかった。
昼を過ぎる頃には、検査所の外へ具合を悪くした者が増えていた。
頭痛。
嘔吐。
記憶の混乱。
手足の震え。
転倒して額を切った者。
拘束の際に肩を痛めた者。
俺は一人ずつ名前を聞き、状態を書いた。
名前を言えない者には、家族へ聞いた。
家族がいなければ、服装と特徴を書いた。
誰かが忘れた後でも。
少なくとも、ここにいたことが分かるように。
旧市場区の奥から、三人の兵に囲まれた男が連れてこられた。
腕を後ろで縛られている。
頬が腫れ、口元から血が流れていた。
革を扱う職人なのか、袖口には細かな切り傷がいくつも残っている。
左の袖には、小さな花の刺繍があった。
子どもの手で縫ったような、不揃いな形だった。
「その男は」
リオルが近づく。
「地下倉庫の場所を知っている」
現場指揮官が答えた。
「証拠は」
「複数の住民が、覚醒派と接触していたと証言した」
覚醒派。
神殿の記憶管理に反対する者たちを指す名らしい。
何をしている集団なのかまでは、まだ分からない。
「本人は」
リオルが聞いた。
「否認している」
男が顔を上げた。
「怪我人を運んだだけだ」
声が掠れている。
「雨の日に、倒れていた女を屋根のある場所へ運んだ。それだけだ」
「地下へ運んだのか」
「そうだ。でも、そこが何の場所かは知らない」
「その女の名前は」
「知らない」
現場指揮官が記憶管理官へ目を向けた。
「反応を確認しろ」
男は椅子へ押しつけられた。
額へ術式具が当てられる。
光が走った。
さっきまでの検査より強い。
男の背が弓なりに反った。
「本人のものではない記憶との接続が確認されました」
管理官が言った。
「外部記憶との接続は、どの程度だ」
「強い残響反応があります。ただし、危険記憶との接続かは断定できません」
現場指揮官が一歩近づく。
「地下の違法術式に接触した可能性は」
「否定はできません」
「なら、危険記憶との接続が疑われる対象だ」
リオルが命令書を開いた。
「疑いだけでは、記憶切離しの条件を満たしません」
「反応がある」
「具体的な危険性は確認されていない」
「証拠を消されるおそれがある」
「拘束と移送で対応できます」
男の前へ、黒い布に包まれた術式具が運ばれた。
細い針のような金属が三本。
中央には空の小瓶が固定されている。
フィーナの呼吸が変わった。
「何をする」
「記憶を切り離す」
「どの記憶を」
「地下への経路と、接触した人間に関するものだ」
「選べるのか」
「範囲を絞る」
フィーナの目が術式具へ向いた。
「嘘だ」
管理官が顔を上げる。
「完全には選べない」
フィーナの声は低かった。
「場所を切れば、そこで会った人間が抜ける。人間を切れば、その前後の出来事も崩れる」
神殿で術式を教え込まれた者の声だった。
「必要な範囲に限定します」
「必要だと決めるのは誰だ」
現場指揮官が手を上げた。
「実施しろ」
「待ってください」
リオルが男と術式具の間へ入った。
「命令書では、生命または人格へ重大な危険を及ぼす接続が確認された場合に限るとあります」
「確認した」
「管理官は断定できないと言った」
「現場判断だ」
「証言だけを根拠に、人の記憶を切り離すのですか」
「騎士リオル」
現場指揮官の声が低くなる。
「任務を妨げるな」
男が椅子の上で身をよじった。
「やめてくれ」
兵が肩を押さえる。
「娘がいる」
男の声が震えた。
「娘の顔まで、なくなるかもしれないんだろ」
「対象外の記憶は保全します」
「さっき、選べないって言ったじゃないか!」
男の叫びが天幕の中へ響いた。
俺は前へ出た。
兵が腕を伸ばす。
フィーナが、その手首を掴んだ。
「離せ」
「その手を引け。離すのはそれからだ」
フィーナは兵士の腕を掴んだまま、目を逸らさなかった。
剣はまだ鞘の中にある。
それでも、空気が張り詰めた。
管理官が、術式具を男へ向けた。
針の先が、男のこめかみと胸元へ触れた。
淡い光が小瓶へ集まり始める。
男の身体が震えた。
「娘の名前は」
俺は叫んだ。
男が目を見開く。
「名前を言え!」
「ミ、ミラ」
「もう一度」
「ミラ!」
「何歳だ」
「九つ」
「髪は」
「黒い。母親に似て、長くて――」
声が途切れた。
光が強くなる。
「忘れるな!」
自分でも、誰へ向けた言葉か分からなかった。
男へ。
俺へ。
ここにいる全員へ。
「ミラだ。九歳。黒い髪だ。忘れるな!」
男の口が動いた。
「ミラ」
声は、さっきより弱かった。
「ミラ……」
小瓶の中へ、薄い光が流れ込む。
男の目から焦点が消えた。
「聞こえますか」
男が俺を見る。
焦点は合っている。
けれど、さっきまでの怯えが消えていた。
「ミラは」
男は、ゆっくり首を傾げた。
「誰だ」
胸の奥が冷えた。
左の袖にある、不揃いな花の刺繍。
それを縫った人間の顔も。
その手を見て笑った時間も。
同じ場所から崩れているのかもしれない。
小瓶が術式具から外された。
記憶管理官は封をしようとした。
現場指揮官が言った。
「現地で処分する」
「移送できます」
管理官の手が止まった。
「封入状態は安定しています」
「危険記憶だ。処分しろ」
別の管理官が、小瓶を術式台へ置いた。
金色の線が一瞬走る。
乾いた音がした。
瓶が割れた。
中の光が煙のように散った。
男が生きていた記憶。
娘の名前。
黒い髪。
九歳。
それが、目の前で消えた。
「今の処置を記録してください」
リオルの声だった。
顔から、いつもの柔らかさが消えている。
「記録は不要だ」
「証拠記憶の破壊です」
「危険媒体の処分だ」
「移送可能でした」
「私の判断だ」
「命令書は、移送可能な証拠記憶の保全を定めています」
現場指揮官は答えなかった。
リオルは、割れた瓶の跡を見ていた。
命令書を握る指が、ゆっくり閉じた。
リオルは、男の腕を押さえていた兵へ向いた。
「縄を解け」
「何を」
「解け」
「指揮官の命令が」
「今の命令は、俺が出している」
兵は動かなかった。
リオルが自分で縄へ手をかけた。
現場指揮官の部下が前へ出る。
「騎士リオル。命令違反になります」
「分かっている」
縄が解けた。
男の腕が力なく落ちる。
「北側の路地へ運べ」
リオルは先ほどの若い兵へ言った。
「しかし」
「住民救護だ」
若い兵はリオルと現場指揮官を見比べた。
やがて男の肩を担いだ。
「残りの住民も、検査を中止して外へ出せ」
「騎士リオル!」
現場指揮官の声が響く。
「これは浄化ではありません」
リオルは振り返らずに言った。
「命令に書かれた住民保護でも、証拠保全でもない」
「部隊を妨害すれば拘束する」
「その前に、住民を出します」
リオルは木柵の留め具を外した。
若い兵がもう一人、手を貸す。
北側の路地へ通じる隙間が開いた。
「走るな。子どもを先に」
住民が動き始める。
混乱は一瞬だった。
誰かが叫び、誰かが転びそうになる。
フィーナが列の外へ出た。
「壁沿いに進め。押すな」
短い指示で、人の流れを整える。
俺はハルドを背負った。
娘が隣で手を支える。
特務隊の兵が出口へ回り込もうとした。
リオルと若い兵たちが、その前へ立った。
剣は抜かない。
ただ、道を塞ぐ。
ラグナの神殿兵が、特務隊の進行を止めていた。
遠くで石が崩れる音がした。
封鎖区域の奥から煙が上がる。
次いで、二人の負傷者が担架で運ばれてきた。
一人は神殿兵。
もう一人は、顔を布で隠した若い男だった。
どちらの腕にも血が流れている。
煙の向こうで何が起きているのかは見えなかった。
ただ、抵抗する側も無抵抗ではなかった。
怒鳴り声と、何かがぶつかる音が続いていた。
俺たちは負傷者をマレクの施療所へ運んだ。
施療所は、夕方になる前から満員だった。
寝台は足りない。
床へ布を敷き、壁際まで人を並べる。
マレクは運び込まれた者の外套や紋章を見なかった。
誰の側かではなく、傷の深さだけを見ていた。
「呼吸が悪い者を奥へ」
それだけ言った。
「神殿兵もいます」
若い手伝いが小声で言う。
「紋章を気にするな。顔色と呼吸を見ろ。状態の悪いやつから先だ」
マレクは血の流れる腕を押さえたまま答えた。
俺は記録を続けた。
ハルド。
記憶反応検査中に意識低下。
ミラという娘を持つ男。
切離し後、ミラという名に反応を示さず。
娘に関する記憶が失われた可能性。
切り離された記憶は現地で破壊。
時刻。
場所。
部隊の紋章。
そこにいた者。
覚えているうちに書いた。
記憶を失った本人に代わって。
見ていた者が、残すしかなかった。
床を拭く。
水を運ぶ。
血の染みた布と、洗えば使える布を分ける。
動けない者の身体を起こし、水を飲ませる。
治療が終わった者を壁際へ移す。
いつもと同じ仕事を繰り返した。
違うのは、数だけだった。
日が沈む頃、負傷者の搬送がようやく途切れた。
施療所の裏にある小さな物置へ入り、記録帳を机へ広げた。
壁には包帯と薬草の袋が積まれている。
灯りは、小さな油皿が一つだけだった。
書いた文字を、最初から読み返す。
名前。
症状。
検査。
拘束。
切り離された記憶。
破壊された瓶。
紙の上には、名前と、その人に起きたことが順に書き足されていった。
神殿の兵も、旧市場区の住民も、同じ書き方で並んでいく。
入口で布が擦れる音がした。
振り返る。
レンが立っていた。
パン籠はない。
昼間と同じ伝令鞄を、肩から下げている。
「ソウルさん」
「昼間、どこへ走ってた」
レンの足が止まった。
驚いた顔ではなかった。
聞かれると思っていたわけでもない。
ただ、質問の意味を確かめるように俺を見た。
「手紙を届けていました」
「誰の手紙だ」
「覚醒派のです」
短い答えだった。
誇るでもなく。
隠そうとするでもなく。
「僕は、見習いの伝令なので」
言葉が、すぐには頭へ入らなかった。
レンは十四歳だ。
転んで膝を擦りむいて。
形の崩れたパンを焼いて。
いつか店を持つと笑っていた。
その同じ肩に、伝令鞄が掛かっている。
「いつから」
「工房へ通うようになって、少ししてからです」
「ガルムは知ってるのか」
レンは頷いた。
「フィーナも」
「はい」
昼間、問いに答えなかったフィーナの顔が浮かんだ。
「十四歳がやる仕事じゃない」
声が低くなった。
怒りより。
胸の奥が冷えていく感覚の方が近い。
「パンを運ぶのと、そんなに違いはありません」
レンは、本当にそう思っている顔だった。
「頼まれた紙を、知っている人へ届けます。戦うわけじゃありません」
「パンを運ぶのとは、話が大きく違う」
「でも」
「捕まったら、殴られるかもしれない」
昼間、頬を腫らした男を思い出した。
「何を知っているか調べるために、記憶を切り離されるかもしれない」
娘の名前を失った目。
「帰れなくなるかもしれない」
レンの手が、鞄の紐を握った。
「大丈夫――」
そこで止まった。
いつもなら続く言葉が、最後まで出てこなかった。
レンは一度、口を閉じた。
「……気をつけます」
「気をつければ済む話じゃない」
「でも、届けないと困る人がいます」
「お前が届けなくても」
言いかけて止まった。
誰かがやればいい。
大人がやればいい。
そう言うのは簡単だった。
だが、その誰かが足りないから、レンが運んでいる。
それを認めたくはなかった。
「続けるのか」
「はい」
返事は小さかった。
それでも、迷ってはいなかった。
俺には、やめさせる言葉がなかった。
許す言葉もなかった。
机の上には、記憶を奪われた人たちの名前が並んでいる。
目の前には、これから奪われるかもしれない少年が立っていた。
レンは鞄の紐を握ったまま、俺の返事を待っている。
俺は何も言えなかった。
Scene 18 神殿を壊す女
レンを見送った後も、眠れなかった。
施療所の物置には、油皿の小さな火が残っている。
机の上には記録帳。
名前。
症状。
失われた記憶。
破壊された瓶。
何度読み返しても、そこに書かれていることは変わらなかった。
変えられないなら、せめて残すしかなかった。
俺は記録帳を閉じた。
物置を出ると、施療所の裏口近くにフィーナが立っていた。
壁へ背を預けている。
待っていたのかどうかは分からない。
フィーナが先に口を開いた。
「レンは帰ったか」
「ああ。工房に戻るように言った」
フィーナの目を見た。
「知っていて、何も言わなかったのか」
フィーナも視線を返した。
昼間と同じ沈黙だった。
「何を」
「レンが覚醒派の伝令だってことだ」
「ああ」
否定しなかった。
「十四歳だぞ」
「知っている」
「捕まればどうなるかも?」
「知っている」
短い答えばかりだった。
胸の奥に残っていた冷たさが、少しずつ別のものへ変わっていく。
「それでも、何も言わなかった」
「話す必要がなかった」
俺はフィーナを見た。
「必要がなかった?」
「レンは、自分の立場を隠していない」
「俺は知らなかった」
「だから何だ」
「危険なことをしてるって分かってたら――」
「止めたのか」
言葉が止まった。
フィーナの声は責めるものではなかった。
ただ聞いていた。
「止めようとはした」
「今日も止められなかった」
「だからって」
「私が話せば、レンはやめたのか」
答えられなかった。
レンは続けると言った。
小さな声で。
それでも、迷わずに。
「私が話すことではなかった」
フィーナは視線を外した。
「他人の過去も、所属も、私が勝手に話すことじゃない」
正しいのかもしれない。
少なくとも、間違っているとは言えなかった。
それでも。
「十四歳が殴られてから知るよりは、ましだった」
フィーナがこちらを見た。
「……そうか」
それだけだった。
俺も、それ以上言わなかった。
分かったわけではない。
納得したわけでもなかった。
ただ、ここで言葉を重ねても、同じところを回る気がした。
裏口の外から足音がした。
レンだった。
「帰ったんじゃなかったのか」
「途中まで行って、戻ってきました」
伝令鞄はまだ肩にある。
俺が見ると、レンは少しだけ鞄を身体の後ろへ回した。
隠したつもりではないらしい。
「また手紙か」
「違います」
レンはフィーナを見た。
「地下にいる人たち、怪我人が増えています」
フィーナの表情が変わった。
「何人だ」
「僕が聞いた時は、七人です。歩けない人が二人。あと、息が苦しい人が一人」
「どこで聞いた」
「西の配給所です。水を運んできた人から」
レンは俺へ向き直った。
「マレクさんのいる神殿の施療所へ運ぶと、見つかるかもしれないって」
俺はフィーナを見た。
「覚醒派か」
「ああ」
「治療できる人間は」
「いる。だが足りない」
「俺は行く」
フィーナはすぐには答えなかった。
何か言いかけるように、俺を見た。
「俺を止めるのか」
「止めても行くだろ」
「たぶんな」
「なら、一人では行かせない」
フィーナは壁から背を離した。
レンが一歩前へ出る。
「入口までは僕が案内します」
「お前は来るな」
俺は反射的に言った。
レンの足が止まる。
「危ない場所には入りません」
「同じだ」
「同じじゃない」
フィーナが口を挟んだ。
「レンが使うのは封鎖線の外だ。市場跡の地下へは入らない」
「入口を知ってる時点で危ないだろ」
俺が言うと、レンが小さく首を振った。
「そこから先は知りません」
「中は入っちゃ駄目だって言われてます」
「誰に」
「ガルムさんと、エレナさんに」
初めて聞く名前だった。
「エレナ?」
フィーナが先に歩き出した。
「行けば分かる」
「またそれか」
「今は負傷者が先だ」
言い返せなかった。
夜のラグナは、昼間とは別の街に見えた。
中央市場へ近づく道には、まだ神殿兵が立っている。
灯りの数は少ない。
焼けた木の匂いと、昼間に割れた記憶瓶の甘い匂いが、湿った夜気に残っていた。
レンは大通りを避けた。
細い路地を二つ抜ける。
施療所の裏手。
使われなくなった染物屋の横。
壁沿いに積まれた空樽の間。
レンは走らなかった。
物陰へ飛び込むこともない。
慣れた道を、いつもより静かに歩いているだけだった。
それでも、背中の伝令鞄を見るたび、十四歳という年齢が頭に浮かんだ。
「レン」
「はい」
「いつもこの道を使うのか」
「毎回、同じ道は使いません」
「誰に教わった」
「道は自分で覚えました。使っていい道はガルムさんに確認します」
「夜も?」
「夜は一人で行くなって言われてます」
フィーナが振り返り、後ろを確かめた。
「今日は私がいる」
少なくとも、レン一人に好き勝手させているわけではない。
危険を承知で、周りの大人が道と役割を決めている。
だから安心できるかと言われれば、できなかった。
旧市場跡から二本先の通りで、レンが止まった。
崩れかけた石造りの倉庫。
扉は半分外れ、窓には板が打ち付けられている。
「ここまでです」
「地下は?」
「中の床下に入口があります。でも、僕は入りません」
フィーナがレンの肩を軽く押した。
「工房へ戻れ」
「はい」
「大通りは使うな。配給所の前を通れ」
「分かりました」
レンは俺を見た。
「ソウルさん」
「何だ」
「怪我人、お願いします」
俺は返事をするまで少し時間がかかった。
「ああ」
レンが走り出す。
「走るな」
思わず言うと、レンが振り返った。
「はい」
レンは足を緩め、歩き出した。
俺の肩から、少しだけ力が抜けた。
それでも、姿が角の向こうへ消えるまで見ていた。
倉庫の中は暗かった。
フィーナが床板の一枚をずらす。
下から冷たい空気が上がってきた。
湿った土。
古い木材。
薬草。
それに血の匂い。
階段を下りる。
壁には小さな灯りが一定の間隔で置かれていた。
揺れていたのは、油皿の火だった。
神殿の白い光とは、ずいぶん違って見えた。
地下へ下りると、通路は旧市場跡の下へ向かって伸び、途中でいくつかに枝分かれしていた。
さらに下りると、人の声が聞こえてきた。
「南の出口は使うな!」
女の声だった。
「歩ける者は二人ずつ東へ。記録箱は先に出すな。人を通せ」
指示は簡潔だった。
返事を待たず、次の指示が続く。
「水は半分残せ。全部持たせるな。次の組が使う」
「北側から三人戻りました!」
「負傷者は?」
「一人です」
「こっちへ」
通路を曲がった。
最初に見えたのは、血だった。
女の袖から落ちている。
自分のものか、担いでいる男のものか、見分けがつかなかった。
赤銅色の長い髪を後ろで束ねた女が、男の肩を担いで歩いてきた。
二十代後半くらい。
黒を基調にした戦闘装備。
肩からは、擦り切れた赤黒い外套が垂れていた。
腰には長剣。
片腕を、負傷者の脇へ回していた。
「そこへ寝かせる」
女が床へ敷かれた布を顎で示した。
周囲の男たちが動く。
「足は?」
「動きます」
「なら固定は後。先に脇腹だ」
女はしゃがみ込み、負傷者の服を切った。
手元が見えた。
左手。
薬指がなかった。
古い傷だった。
女は気にする様子もなく、布を引き寄せた。
「押さえろ」
そばにいた男が傷口へ布を当てる。
「強く。手を離すな」
フィーナが近づいた。
「エレナ」
女が顔を上げた。
「遅かったな。来ると思っていた」
「地上が塞がれた」
「知ってる」
その視線が俺へ移った。
顔。
肩の医療鞄。
手。
そこで止まった。
「誰」
「ソウルだ」
「医者?」
「違う」
俺が答えた。
「前の世界で、怪我人や病人を看る仕事をしてた」
エレナの眉がわずかに動いた。
「何ができる」
「見ないと分からない」
「じゃあ見て」
自己紹介はそれで終わった。
地下倉庫には、思っていたより多くの人間がいた。
周囲を見回した。
剣や弓を持つ者に混じって、負傷者や荷を運ぶ者もいる。
老人。
腕を布で吊った女。
子どもを抱く男。
床へ並べられた記録箱。
水瓶。
乾いたパン。
壁際には、名前と数字を書いた紙が何枚も貼られている。
負傷者の人数。
避難した人数。
残っている薬草。
水。
東側の出口はまだ使えるらしい。
人が途切れず、そちらへ流れていく。
覚醒派。
その言葉から想像していたものとは、少し違った。
「こっちに来て」
若い女に呼ばれた。
床に男が横たわっている。
顔色が悪い。
呼吸が速い。
「いつから」
「昼過ぎ。煙を吸って、それから」
「意識は」
「あります」
俺は男の肩へ触れた。
「聞こえますか」
瞼が動く。
「息を吸うと痛いですか」
男が頷いた。
胸の左右を見る。
片側だけが動きにくい。
転倒したのか、肋骨の辺りに大きな打撲があった。
「上体を少し起こして」
周囲の二人が動く。
「無理に寝かせない。本人が一番息をしやすい姿勢にして」
俺は医療鞄から布を出した。
「血は出てない。今は呼吸を見る。急に返事がなくなったら呼んで」
「分かった」
次。
太腿を切った女。
出血は止まりかけている。
縛りすぎた布を少し調整する。
次。
腕の骨が曲がっている男。
固定する。
次。
頭を打った若者。
名前を聞く。
答えられる。
時間を置いて、もう一度聞く。
誰の側か考える暇はなかった。
身体は、所属を待たない。
壁際で手当てを待っていた男へ、エレナが目を向けた。
「その男は後でいい」
男はまだ自分で歩けそうだった。
「歩ける者から、東の出口へ出す」
そばにいた男が口を挟んだ。
「でも、こいつは」
「歩ける」
エレナが遮った。
別の男が、証言の記録を収めた箱へ目をやった。
「この記録箱は?」
「置いていく」
エレナが即座に答えた。
周囲の者が一瞬、動きを止めた。
エレナが箱を指す。
「証言の記録には複製がある。全部持ち出せば、神殿も必死に追ってくる。原本はいくらか残した方がいい」
「記憶瓶は?」
「持てる分だけだ」
「残りは神殿に押収されてしまいます」
「人を先に出す」
エレナの声は変わらなかった。
「物や記録にこだわって、逃げ遅れるな」
一人が頷き、箱から手を離した。
「空の箱を二つ南へ置け。追手が来たら、南へ誘導する」
「分かった」
命令するだけではなかった。
エレナ自身も木箱を持ち上げ、通路の端へ寄せる。
その途中で、呼吸の苦しい男へ目をやった。
「その人は?」
俺は男を見た。
「動かさない方がいい」
「どれくらい」
「今は分からない。少なくとも歩かせるな」
「担架を一つ残す」
エレナは即座に決めた。
「東の二組目と一緒に出して」
今度は俺を見た。
「他は」
「腕の骨折は急がなくていい。太腿の女は出血を見ながら動かせる」
「分かった」
使える情報だけを拾っていく。
俺が何者かより、今、何ができるか。
エレナはそれだけを見ていた。
通路の奥から男が走ってきた。
「北の排水路、塞がれました」
「神殿?」
「記憶管理官が二人。兵が六人」
エレナが壁の地図へ向かった。
炭で線を引いた簡単な図だった。
地下の通路は、そこから東西南北へ枝分かれしていた。
「東は」
「まだ開いてます」
「何人通した」
「十三人」
「あと八人」
指が地図の上を動く。
「北は捨てる。南も使わない」
「西は?」
「狭い。負傷者は無理」
「なら東だけです」
「だから急ぐ」
エレナは地図から手を離した。
「フィーナ」
「ああ」
「最後の組を頼む」
「分かった」
「術式は使うな。気付かれる」
フィーナが短く頷く。
「必要なら使う」
「使う前に引け」
そのやり取りだけで、二人が以前から知り合いなのは分かった。
通路の奥で、鈍い崩落音が響いた。
天井がわずかに震え、土埃が落ちてきた。
一度。
二度。
地下にいる全員の動きが止まった。
「西側だ!」
誰かが叫んだ。
エレナが通路へ走る。
俺とフィーナも追った。
石壁の一部が崩れていた。
その向こうから咳が聞こえる。
「誰がいる」
「ハインとロウです!」
「返事しろ!」
「こっちは動ける!」
土埃の向こうから声が返った。
もう一つ。
低い呻き声。
「もう一人いる」
フィーナが言った。
石の隙間から腕が見えた。
黒い袖。
金色の縁取り。
神殿兵だった。
若い。
額から血が流れている。
胸が不規則に上下していた。
「神殿兵だ」
覚醒派の男が言った。
空気が変わった。
「さっき西から入ってきた奴です」
「他にもいるのか」
「分かりません」
エレナが通路の向こうを見る。
「置いていく」
「確認だけする」
フィーナが言った。
俺は神殿兵のそばへ膝をついた。
「ソウル」
フィーナの声。
「呼吸がおかしい」
兵の口元へ耳を寄せる。
浅い。
途切れる。
血が喉へ流れ込んでいる。
俺は顔を横へ向けた。
「布」
誰も動かなかった。
「布をくれ!」
フィーナが自分の腰袋から出した。
口元の血を拭う。
「ソウル、行くぞ」
エレナだった。
「このままだと死ぬ」
「分かってる」
エレナの答えは早かった。
「なら」
「置いていく」
俺は顔を上げた。
エレナは兵士ではなく、その後ろを見ていた。
避難する人間。
負傷者。
記録を抱えた女。
歩けない老人。
「追跡隊が来る」
「二分でいい」
「その二分で出口が塞がれる」
「呼吸だけ戻す」
「その一人のために、後ろの全員を止めるのか」
言葉が詰まった。
俺の後ろに、人がいることは分かっている。
それでも、答えは決まらなかった。
「分からない」
エレナが俺を見る。
「何が」
「どっちが正しいかは分からない」
兵の胸が小さく動いた。
「でも、今は呼吸が止まりかけてる」
「その兵士が戻れば、次は誰を捕まえる」
「誰かが捕まるかもしれない」
「私たちの顔を覚えて戻ったら?」
「危険なのも分かってる」
「あなたが助けた人間が、明日誰かの記憶を奪うかもしれない」
「その可能性もある」
「なら、何で止まる」
すぐには答えられなかった。
正しいからじゃない。
神殿兵だからでもない。
覚醒派だからでもない。
ただ、目の前で息が止まりかけている。
それだけだった。
「死にそうだからだ」
エレナの顔から何も読めなかった。
「甘い」
「そうかもな」
「その甘さで、後ろの人間が捕まる」
「だから二分で終わらせる」
「一分」
「無理だ」
「一分」
エレナは譲らなかった。
俺も返事をしなかった。
兵の顎を上げる。
口の中の血を拭う。
呼吸が入りやすい位置へ身体をずらす。
脇腹からも出血していた。
布を当てる。
「押さえて」
フィーナがしゃがんだ。
傷口へ手を置く。
「強く」
「ああ」
兵が咳き込んだ。
血混じりの息が出る。
呼吸が少し深くなった。
「全員は救えない」
手を止めずに言った。
「でも、ここで何もしない理由にはならない」
フィーナは何も言わなかった。
ただ、傷口を押さえる手に、少しだけ力がこもった。
「もういい」
エレナが言った。
「まだ」
「時間だ」
俺の肩を掴んだ。
強い。
「離せ」
「ここで全員を捕まえさせる気?」
「せめて見つけてもらえる場所へ」
「運べない」
「目印だけでいい」
エレナの手が離れた。
「三十秒」
俺は医療鞄から白い布を一本出し、兵の腕へ結んだ。
「何を」
「見つけてもらう」
さらに、通路の入口側から見える位置へ、割れた板を立てる。
そこへ、もう一枚の白い布を結ぶ。
兵の腕と、通路の目印。
誰かがここにいると、それだけ分かればいい。
「行くぞ」
フィーナに肩を引かれた。
立ち上がる。
数歩進んで、振り返った。
兵の胸は動いていた。
それ以上はできなかった。
東側の出口へ向かう。
エレナが二人の構成員へ指示している。
後ろで石の擦れる音がした。
俺は足を止め、エレナに聞いた。
「何をしている」
「西の通路を落とす」
「負傷兵がいる」
「完全には塞がない」
エレナが続けた。
「人一人通れない幅まで落とす。空気は残す」
「救助が入れなくなる」
「追手を止めるのが先だ」
「さっきの負傷兵は」
「神殿側から掘れる」
「時間がかかる」
「全員を逃がすためだ。仕方ない」
仕方ない。
その言葉が胸に残った。
何が正しいのか、今の俺には分からない。
ただ、目の前の命を見捨てたくはなかった。
「フィーナ」
エレナが言った。
「先へ行って」
フィーナは動かなかった。
俺を見ている。
「ソウル」
フィーナが俺を呼んだ。
「先に行け」
「フィーナはどうするんだ?」
「最後の組を見てから行く」
最後の避難組が動き始めた。
フィーナが老人の腕を肩へ回す。
俺は呼吸の苦しい男の担架を持った。
反対側を、エレナが持つ。
「お前が運ぶのか」
思わず聞いた。
「手が空いてる」
「部下にやらせるかと思った」
「歩ける奴は出口を確保してる」
それだけだった。
担架を持ち上げる。
「傾けるな」
「分かってる」
「分かってない持ち方だった」
「悪かったな」
初めて。
エレナの口元が、ごくわずかに動いた。
笑ったのかは分からなかった。
東の出口近くで、構成員が人数を数えていた。
「十九人出ました。西に二人残っています」
「西の二人は、奥の別経路から出る」
「それならば、これで全員です」
エレナが頷いた。
「証言記録は」
「複製三箱。原本一箱を残しました」
「それでいい」
「記憶瓶が四本残っています」
エレナは一瞬だけ後ろを見た。
「置いていく」
「でも……」
「人が優先だ」
構成員は唇を噛んだ。
それでも頷いた。
地下から外へ出る。
夜気が肺へ入った。
狭い裏路地だった。
遠くに神殿の灯りが見える。
ここまで来れば、旧市場区の封鎖線からは外れている。
「負傷者は三か所へ分ける。一か所に集めるな」
エレナが指示した。
「見つからないように散らす。歩けない者だけ北の倉庫。軽傷は家へ戻せるなら戻す。記録を持っている者は別の場所へ回せ」
エレナは、俺を見た。
「あなたは?」
「施療所に戻る」
「神殿側へ?」
「マレクのところだ」
「神殿の施療所でしょ」
「負傷者を診る場所だ」
エレナは少し黙った後、尋ねた。
「今日、神殿兵も診た?」
「ああ」
「覚醒派も?」
「ああ」
「同じように?」
「怪我に敵味方があるなら教えてくれ」
フィーナがこちらを見た。
エレナは答えなかった。
しばらくして、俺の医療鞄へ視線を落とした。
「今日の被害、記録してる?」
エレナは続けて尋ねた。
「ああ」
「見せて」
「嫌だ」
俺は、即答した。
エレナの眉が動いた。
「昼間も神殿に渡さなかった」
「私は神殿じゃない」
「だから何だ」
「私たちは、その記録を必要としてる」
「記録された人間のために書いた」
「同じだ」
「同じかどうかは、俺が決めない」
エレナの目が止まった。
「本人が決める」
少しの沈黙。
「そう」
エレナはそれ以上、手を伸ばさなかった。
「じゃあ持っていて」
「言われなくても」
「なくさないで」
その言葉だけ、少し違って聞こえた。
「神殿は消すから」
昼間。
割られた小瓶。
ミラ。
九歳。
黒い髪。
頭の中に戻ってきた。
「覚醒派は消さないのか」
エレナの目が俺へ向いた。
「何を」
「都合の悪いもの」
答えはすぐには来なかった。
「消さないようにしてる」
「ずいぶん弱い言い方だな」
「人間がやってるから」
それだけだった。
遠くで鐘が鳴った。
一度。
続いて二度。
神殿側の合図なのか、俺には分からない。
エレナはすぐに周囲へ視線を走らせた。
「移動する」
構成員たちが動き始める。
フィーナが俺の横へ来た。
「戻るぞ」
「ああ」
歩き出す前に、エレナを振り返った。
「さっきの負傷兵」
「何」
「助からないかもしれない」
言葉が続かなかった。
エレナは俺を見た。
「私の判断だ」
「そういう話じゃない」
「私には、そういう話だ」
平然としているように聞こえた。
けれど、左手が腰の布を掴んでいた。
薬指のない手。
すぐに離れた。
「あなたが止まった一分で、後ろの人たちは一分待った」
「分かってる」
「その一分で何も起きなかったから、今回はよかった」
「今回は?」
「次も同じとは限らない」
「だから見捨てろって?」
「違う」
エレナは首を横へ振った。
「一人を選んだ時、その後ろに誰がいるか忘れるなって言ってる」
その言葉に、足が止まった。
忘れるな。
昼間。
フィーナが言った言葉と同じだった。
意味は違う。
フィーナは、奪われる側を見ろと言った。
エレナは、助けようとした一人の後ろを見ろと言う。
どちらも、人を見ろと言っている。
見ている方向が違うだけだった。
「エレナ」
フィーナが呼んだ。
「何」
「西の通路、本当に落としてよかったのか」
「ああ」
「兵が残っていた」
「分かっていた」
「それでも落としたのか」
「承知の上の判断だ」
フィーナは黙った。
「反対?」
エレナが聞いた。
「賛成はしていない」
「それでいい」
「だが、今は撤退を優先する」
「ああ」
二人の間には、俺の知らない時間があった。
同じ側にいても、同じ考えとは限らない。
そのことだけは分かった。
俺とフィーナは路地を戻った。
しばらく、何も話さなかった。
旧市場区の方向から、低い音が響いた。
石が崩れる音だった。
俺は足を止めた。
フィーナも止まった。
「西か」
俺が聞いた。
「ああ」
「さっきの兵は」
フィーナは少し間を置いた。
「助かるかは分からない」
それ以上は聞かなかった。
歩き出す。
フィーナが少し前を行く。
「フィーナ」
「何だ」
「エレナは、神殿を壊したいのか」
足は止まらなかった。
「ああ」
「全部?」
「本人に聞け」
「聞いたら答えるか」
「たぶんな」
「お前よりは?」
フィーナが一度だけ振り返った。
「どうだろうな」
それで会話は終わった。
施療所の灯りが見えてきた。
負傷者の呻き声。
水を運ぶ音。
マレクの怒鳴る声。
その音が、戻るべき場所を示していた。
俺は医療鞄へ手を置いた。
中には記録帳がある。
神殿兵。
旧市場区の住民。
覚醒派の負傷者。
地下に残した神殿兵の胸が、最後に振り返った時も動いていたことを覚えていた。
あの時、十九人が避難を待っていたことも。
「忘れるな」
誰かの声が、聞こえたような気がした。
Scene 19 パン屋になります
施療所へ戻った頃には、空が白み始めていた。
マレクへ必要なことだけを伝え、少し休んだ。
横にはなった。
眠れたかどうかは分からない。
朝になっても、地下で聞いた崩落の音が耳の奥に残っていた。
俺とフィーナは、ガルムの工房へ向かった。
どちらからともなく、そうなった。
ラグナの通りでは、いつもの朝の支度が始まっていた。
水を撒く音。
荷車の軋む音。
焼き上がったパンの匂い。
昨夜、あの地下で見たものとは、あまりに違う。
それでも、同じ街だった。
工房の戸は開いていた。
中から、小さな金属音が聞こえる。
歯車を噛み合わせる音。
工具が作業台へ触れる音。
いつもと変わらない音だった。
「来たか」
ガルムは顔を上げなかった。
作業台に向かい、小さな歯車を磨いている。
いつもの位置に、いつもの道具が並んでいた。
フィーナは戸口近くの壁へ背を預けた。
俺は作業台の前まで進んだ。
何から言えばいいのか、道すがら考えていた。
考えても、結局は同じところへ戻った。
「ガルム」
「何だ」
「レンのことです」
歯車を磨く手は止まらない。
「知っていて、止めなかったんですか」
「ああ」
「十四歳ですよ」
「知っている」
昨日、フィーナからも聞いた言葉だった。
それだけに、腹の奥へ残った。
「それで、黙って送り出したのか」
一拍、間が空いた。
磨く手が、ほんの少しだけ遅くなった。
「止めた者を、何人も見た」
「それは——」
「仕事の邪魔だ」
ガルムは次の歯車を手に取った。
会話は、そこで終わっていた。
終わらせたのは、ガルムの方だった。
納得はできなかった。
十四歳だ。
捕まれば、殴られるかもしれない。
記憶を切り離されるかもしれない。
帰れなくなるかもしれない。
昨日、俺はレン自身に、続けるのかと聞いた。
「はい」と答えた。
止められなかった。
だからといって、大人が黙って見ていていい理由になるとも思えない。
フィーナを見る。
目が合った。
すぐに外された。
昨日の続きを話す気にはなれなかった。
その時。
工房の扉が勢いよく開いた。
「できました!」
レンだった。
肩には、いつもの伝令鞄。
両手には布で包んだ何かを抱えている。
俺は、その鞄へ一度だけ目をやった。
レンは気づいたのかもしれない。
何も言わなかった。
「何がだ」
ガルムも鞄を見なかった。
レンの手元だけを見ている。
「新しいやつです」
「何の」
「パンです!」
「見れば分かる」
「じゃあ聞かないでください」
ガルムが眉を動かした。
レンは作業台の空いている場所へ布包みを置いた。
包みを開く。
黒いパンが三つ出てきた。
丸い。
いや。
丸かったものだと思う。
一つは横へ潰れ、一つは妙に細長い。
残りの一つには、端に黒く焦げた部分がある。
香りだけは悪くなかった。
焼いた穀物の匂いが、油と鉄の匂いに混じった。
レンが胸を張る。
「どうですか」
ガルムが一つ持ち上げた。
裏を見る。
横を見る。
指で表面を押す。
「見た目は三点」
「厳しいです!」
「二点でもいい」
「下がった!」
フィーナが小さく息を漏らした。
俺も、少しだけ口元が緩んだ。
ガルムがパンを割る。
中から湯気が出た。
一口食べる。
何度か噛む。
レンが、ガルムの顔を下から覗き込んでいる。
「味は」
「七点」
「本当ですか!」
レンが飛び上がった。
「やった!」
「うるさい」
「前より二点上がりました!」
「見た目は下がった」
「そこは今いいんです」
「よくない」
ガルムが残りを机へ置いた。
レンはもう一つをフィーナへ差し出した。
「フィーナさんも食べますか?」
「いらない」
即答だった。
「味、七点ですよ」
「ガルム基準だろ」
「だから信用できるじゃないですか」
「見た目三点も同じ基準だ」
「そこは忘れてください」
「無理だ」
レンが肩を落とした。
俺はパンを一つ取った。
「俺が食う」
レンが顔を上げる。
「本当ですか?」
「ああ」
「焦げてないやつにしてください」
「最初に言え」
「大丈夫です!」
「何がだ」
久しぶりに、最後まで聞いた気がした。
昨日、途中で止まった言葉。
今日は、ただの焼き損じのパンに使われている。
それでよかった。
パンを割る。
黒い生地の中に、粗く挽かれた穀物が残っていた。
一口食べる。
少し硬い。
香ばしい。
それから、わずかに苦い。
「どうですか」
「六点」
「なんで下がるんですか!」
「焦げてる」
「そこ、避けてくださいよ」
「商品にしたら客は避けてくれないだろ」
レンは不満そうにパンを見た。
ガルムが断面を指で押す。
「水が多い」
「え?」
「だから形が崩れる」
レンの顔がすぐに作業台へ向いた。
「やっぱりですか」
「粉を増やせ」
「でも、それだと高くなります」
返事が早かった。
「白い粉は使ってないだろ」
「使いません」
俺は手元の黒パンを見た。
「どうしてだ」
レンはパンを指で押した。
「白いパン、高いですから」
「黒い方が安いのか」
「はい。雑穀を混ぜれば、だいぶ安くできます」
レンの声が少し真面目になる。
「働いてる人とか、子どもでも買えるくらいにしたいんです」
「安くすると儲からないぞ」
俺が言うと、レンはすぐに頷いた。
「少しは儲けます」
「少しか」
「じゃないと窯が買えません」
レンは指を折った。
「粉代。薪代。それから窯」
「店もいるだろ」
「最初は小さくていいです」
「窯はいくらだ」
「まだ全然足りません」
俺が聞くと、レンは少し照れたように笑った。
「給金を貯めてます。伝令の仕事も、パン運びの分も、少しずつ」
伝令。
その言葉に、胸の奥が少しだけ引っ掛かった。
レンは気にせず続ける。
「売れ残ったら、安くします」
「それでも残ったら」
ガルムが聞いた。
レンは少し考えた。
「小さく切って、スープに入れます」
「誰が食う」
「施療所とか」
俺を見る。
「駄目ですか?」
「駄目じゃない」
昨夜の施療所を思い出した。
床へ横たわった負傷者。
水を運ぶ音。
食事を取れずにいた人間もいた。
「柔らかくすれば、食べられる人はいる」
「ですよね」
レンが嬉しそうに頷いた。
「形が悪いだけなら、捨てる方がもったいないです」
ガルムがパンをもう一口食べた。
何も言わない。
「そんなにパン屋になりたいのか」
俺は聞いた。
「なりたいです」
即答だった。
「どうして」
レンは少しだけ考えた。
大きな理由を探しているようには見えなかった。
「前に、配給所でずっと泣いてる子がいたんです」
「子ども?」
「はい。お母さんも困ってて」
レンは手の中のパンを見た。
「焼きたてのパンをちぎって渡したら、泣き止んだんです」
少し笑う。
「それだけなのに、そのあと笑って」
工房の中で、時計の針が小さく音を立てた。
「それ見て、パン屋になろうって思いました」
レンは不格好な黒パンを持ち上げた。
「お腹が空いてる時って、嫌なことばっかり考えるじゃないですか」
「そうか?」
「僕はそうです。でも、パンを食べると、ちょっと元気になるんです」
「七点のパンでも?」
「七点なら、少しくらい元気になります」
「俺は六点だ。勝手に上げるな」
レンが笑った。
昨日の地下通路が、頭をよぎった。
神殿兵。
覚醒派。
逃げる住民。
一人を置いていく判断。
その後ろにいた人たち。
レンは、何も知らないわけではない。
知った上で。
今はパンの話をしている。
「だから」
レンが言った。
「僕はパン屋になります」
声は大きくなかった。
宣言というより、予定を確認しているような言い方だった。
「まず、その形をどうにかしろ」
ガルムが言った。
「そこに戻ります?」
「店を出す前に商品を作れ」
「明日は焦がしません」
「形も直せ」
「それもやります」
「床も磨け」
レンが止まった。
足元を見る。
工房の隅に、途中まで磨かれた床板がある。
「忘れてたのか」
「忘れてません」
「今、見た」
「確認しただけです」
「嘘だな」
「大丈夫です。今日やります!」
レンは上着の袖をまくった。
肩には、まだ伝令鞄が掛かっている。
俺は何も言わなかった。
フィーナも、鞄を見ていた。
けれど、口にはしなかった。
レンは箒を取りに行く。
途中で戻ってきた。
「あ」
「今度は何だ」
「店の時計」
ガルムを見る。
「いつか店を出したら、入口に時計を置きたいです」
「パン屋に時計がいるのか」
「朝に来る人が時間を見られるじゃないですか」
「自分で買え」
「高いです」
「働け」
「働いてます」
「もっと働け」
「ひどいです」
レンは壁いっぱいに並ぶ時計を見上げた。
「古いやつでもいいです」
「壊れてたら時間が分からん」
「直してください」
「金を取る」
「身内価格で」
「誰が身内だ」
「僕です」
「知らん」
レンが笑った。
ガルムはもう答えなかった。
ただ、工具を持つ手が一度だけ止まった。
俺はその横顔を見た。
何を考えているのかは分からない。
少し前。
俺はこの男に聞いた。
なぜ止めなかったのか。
答えは、まだ分からない。
それでも。
レンが明日のパンの話をしている。
ガルムがその出来に点数をつけている。
フィーナが食べないと言いながら、パンを見ている。
俺は六点のパンを食べている。
それが今、この工房にあるものだった。
「ソウルさん」
「何だ」
「次はちゃんとしたの食べてください」
「今日のはちゃんとしてないのか」
「試作品です」
「さっき商品にする気だっただろ」
「形がいいやつだけです」
「随分都合がいいな」
「商売ですから」
「十四歳が言う台詞か」
「もうすぐ店主になるので」
「いつだよ」
レンは少し考えた。
「窯を買ってからです」
「先は長いな」
「だから働きます」
箒を持ち上げる。
「今日は床磨きの続き。明日はパンを焦がさない。次の配給日には、もう少し多く持っていきます」
「予定だらけだな」
「忙しいです」
レンは笑った。
「ソウルさんも、次も食べてくださいね」
「ああ」
答えてから、少しだけ間があった。
「次は七点以上にしろ」
「八点にします」
「欲張るな」
「じゃあ七点半で」
「細かいな」
「大事です」
レンは笑った。
そのまま箒を持って工房の奥へ走った。
「走るな」
俺とフィーナの声が重なった。
レンが止まる。
振り返った。
「はい!」
レンは歩き出した。
俺とフィーナは目を合わせた。
どちらからともなく、視線を外した。
何かが解決したわけではない。
昨日のことも。
レンのことも。
フィーナとのことも。
何一つ答えは出ていない。
それでも。
工房にはパンの匂いが残っていた。
時計の針が動いている。
レンが床を磨く音がする。
明日の話をしている声がする。
俺は残ったパンをもう一口食べた。
やっぱり少し焦げていた。
今は、その苦さが、やけにうまく感じた。
Scene 20 古い顔
午後のラグナには、まだ昨日の跡が残っていた。
旧市場区へ続く道には縄が張られ、神殿兵が人の流れを細く分けている。封鎖そのものは解かれていない。市場の声は戻りつつあったが、西へ近づくほど足音が減った。
荷車の音。店先から聞こえる値切り声。子どもの笑い声。昨日の騒ぎなど待ってくれないように、街はもう次の日常へ戻り始めていた。
俺とフィーナは、ガルムの少し後ろを歩いていた。工房で使う細かな部品を受け取りに出たらしい。俺たちは施療所へ戻る途中だった。
ラグナ神殿前の掲示板に、人が集まっていた。
新しい紙ではない。昨日、旧市場区の封鎖が始まった時に読み上げられた公示文が、そのまま掲示されている。雨除けの板の下で、紙の端だけが風に揺れていた。
未登録の記憶の瓶。危険記憶。区域封鎖。確認と回収。
読んだ内容は、もう知っている。
それでも俺は、紙の下まで目を追った。
ヴェスタ中央神殿、記憶管理部門。
その下に、上層会議の承認印。
さらに一つ、名前があった。
最高司祭――アシュ・カルテア。
隣で、金属の触れ合う小さな音が途切れた。
ガルムの手が止まっていた。
部品の入った小箱を持ったまま、掲示板を見ている。
ほんの一瞬だった。
「知ってる名前ですか」
俺が聞くと、ガルムはすぐには答えなかった。
風が紙を鳴らした。
「古い名だ」
それだけ言って、ガルムは歩き出した。
俺は追って聞かなかった。
フィーナも何も言わなかった。
工房へ戻ると、時計の音が迎えた。
壁の時計。棚の置き時計。作業台の上で分解された小さな機構。
違う速さで動いているはずなのに、部屋に入ると一つの音に聞こえる。
昨日、レンが床を磨いていた場所には、もう箒がなかった。パンの匂いも薄れている。
ガルムは小箱を作業台へ置き、上着を脱いだ。何事もなかったように工具へ手を伸ばす。
その時、戸口の鈴が鳴った。
入ってきたのは、小さな置き時計を両手で抱えた年配の女だった。
木の枠は角が丸くなり、文字盤の数字もところどころ薄れている。長く使われてきた時計だった。
「見てもらえますか」
女は作業台へ時計を置いた。
「昨日から、動かなくて」
ガルムは時計を引き寄せ、裏蓋を外した。
俺とフィーナは少し場所を空ける。
細い工具が一本、内部へ入った。
歯車を押す。
軸を確かめる。
ばねを指先でわずかに持ち上げる。
「ばねだ」
「直りますか」
「直る」
女の肩から、少しだけ力が抜けた。
「よかった」
それだけ言って、時計を見た。
ガルムは顔を上げない。
「急ぐのか」
「いえ。ただ――」
女はそこで言葉を切った。
「主人が死んでからも、これだけはずっと動いていたので」
工房の時計が、重なって鳴っていた。
「止まると、家が静かすぎて」
ガルムの手は止まらなかった。
「夕方に来い」
「そんなに早く?」
「直ると言った」
女は何度か頭を下げて、工房を出ていった。
戸口の鈴が、もう一度鳴る。
作業台には、裏蓋を外された古い時計が残った。
ガルムは何も言わず、その隣へ部品の小箱を置いた。
フィーナが、外套の内側から折り畳んだ紙を出した。
「これ」
作業台の端へ置く。
「昨夜、地下から移した記録の中にあった」
俺は紙へ目を落とした。
「神殿の押収記録か」
「写しだ。一部だけだ」
フィーナはそれ以上説明しなかった。
ガルムも礼を言わない。ただ、工具を置いた。
「施療所に戻る」
フィーナが言った。
「先に行っててくれ」
俺が答えると、一度だけこちらを見た。
「遅くなるな」
「分かってる」
扉が閉じた。
工房には、俺とガルムだけが残った。
紙を開く。
昨日までなら、見ても意味の分からない欄が多かったと思う。今は少しだけ読める。施療所で記録を書き、神殿の書類を何度も見たせいだ。
押収物の番号。回収場所。保全状態。移送先。
記憶帳。施療記録。未登録の記憶の瓶。破損した媒体。
同じ紙の中に並んでいる。
人が自分を確かめるための帳面と、触れれば体調を崩す危険な瓶が、同じ欄で番号に変わっていた。
「これ、全部を危険物として扱ってるわけじゃないんですよね」
「書いた奴に聞け」
「聞けるならそうします」
ガルムは返さなかった。
俺は次の紙へ移った。
端に、小さな備考欄がある。
封印済み保管物。
特殊保管番号。
最高司祭管理。
俺の指が、そこで止まった。
「また、アシュだ」
ガルムは黙っている。
「これは、記憶の瓶ですか」
しばらく、歯車の音だけが続いた。
「今のお前が知ることじゃない」
「今の、ですか」
「言葉尻を拾うな」
「気になります」
「気にしてろ」
「答える気はないんですか」
「ない」
いつものガルムなら、そこで会話は終わる。
今回も、たぶん同じだった。
けれど俺は、もう一度紙へ目を落とした。
「この命令を、アシュが出したんですか」
ガルムの工具は動いたままだった。
「紙に名前がある」
「それは見れば分かる」
「なら、それ以上は書いてない」
俺は承認印を見る。
最高司祭の名前。
上層会議の印。
記憶管理部門。
紙に書かれているのは、それだけだった。
誰が何を知っていたのか。
どこまでが命令で、どこからが現場の判断だったのか。
そこまでは分からない。
「便利な答えですね」
「答えてない」
「そうでした」
少しだけ、いつもの調子が戻った。
でも、さっき掲示板の前で止まった手を、俺は見ている。
名前を見ただけにしては、妙な止まり方だった。
そう思った。
ただ、その先は分からない。
ガルムは紙を俺から取り上げなかった。
隠そうともしない。
教えようともしない。
作業台の上で、小さな歯車を一つずつ組み直していく。
時計は、止まれば原因を探せる。
欠けた歯。曲がった軸。切れたばね。
壊れた場所を見つければ、直せるものもある。
人の記憶も、制度も、同じようにはいかない。
ガルムが五百年以上生きてきたことは知っている。
けれど、俺が知っているのは、その数字だけだった。
目の前にいるのは、いつも通り工具を握る老人だった。
ただ、その背後にある時間だけが、俺の知っている人生の長さでは測れなかった。
俺は最後の紙を閉じた。
「アシュに会えば、分かりますか」
ガルムは答えなかった。
作業台の端に置かれた懐中時計へ目を向けていた。
針は動いていない。
工房中の時計が音を刻んでいる中で、それだけが止まっていた。
古いのは、紙でも名前でもなかった。
ガルムが黙っている時間、そのものだった。
Scene 21 必要な犠牲
旧市場区での騒ぎから三日が経った午後、ラグナには薄い雲がかかっていた。
市場の呼び声は戻っている。荷車も動いている。
けれど旧市場区へ近づけば、縄の張られた道と神殿兵の姿がまだ残っていた。
街が元へ戻ったというより、壊れたところを避けて、人が歩き方
を変えただけに見えた。
ガルムの工房前で、レンはいつもの伝令鞄を肩に掛けていた。
いつの間にか、俺もそれを「いつもの」と思うようになっていた。
そのことが、少しだけ引っかかった。
レンは折り畳まれた書状を鞄へ入れ、肩紐の位置を確かめた。
パン籠を持つ時と、そう変わらない手つきだった。
「配給所へ一通。そのあと西の共同井戸の近くで、もう一通受け取って戻るんだったな」
俺が聞いた。
「はい」
フィーナがレンを見る。
「旧市場区へは近づくな。封鎖線が動いていたら、南から回れ」
レンが伝令をしていることを、フィーナは前から知っていた。
必要だと判断すれば、この人は言わない。
それが正しいこともある。
正しいから、なお困る。
レンは一度頷いた。
「分かってます」
フィーナはレンの足元へ目をやった。
「走るな」
「それは無理かもしれません」
「なら転ぶな」
「努力します」
軽い返事だった。
レンは鞄の留め具に触れ、それから肩紐の位置をもう一度確かめた。
少し間を置いて、言う。
「大丈夫です」
いつもの笑みはなかった。
ガルムが工房の奥から出てきた。レンの顔ではなく、肩の鞄を見る。
「こっち向け」
「え?」
「いいから向け」
レンが背を向けた。ガルムは肩紐を指で引き、脇の留め具を外した。
穴を一つ詰め、余った革を折り返す。次に靴のつま先へ目を落とした。
「右」
「何がですか」
「靴の紐だ」
レンが自分の足元を見る。右の靴紐が少し緩んでいた。
「これくらいなら」
ガルムの手が止まった。
「その『これくらい』で転ぶ」
レンが黙った。
ガルムは緩んだ靴紐を締め直した。
「大丈夫で済ませるな」
レンが顔を上げる。
「怖いなら、怖いと言え」
一瞬だけ、返事が遅れた。
「……分かりました」
「忘れるな」
「はい」
「なら行け」
レンは一度だけ口を閉じた。
それから、いつものように笑った。
「大丈夫です」
ガルムは何も返さなかった。ただ、さっき詰めた留め具をもう一度押した。
「日が落ちる前に戻れ」
俺が言うと、レンは少しだけ眉を上げた。
「ソウルさんまで、おじいちゃんみたいなこと言いますね」
「誰がおじいちゃんだ」
「俺まで一緒にするな」
ガルムと俺の声が、ほとんど同時に重なった。
レンが一瞬だけ目を丸くして、それから笑う。
「じゃあ行ってきます」
レンは歩き出した。角を曲がるまでは、走らなかった。
ガルムはその背を最後まで見送らなかった。工房へ戻り、途中だった時計へ向かう。
レンを止めはしない。
ただ、鞄の紐を詰め、緩んだ靴紐を締めた。
自分に直せるものだけを直して、送り出した。
それがガルムなりの見送り方なのかもしれない。
正しいのかどうかは、俺にはまだ分からなかった。
レンが角の向こうへ消えてしばらくして、覚醒派の使いが工房を訪れた。
負傷者の手当てを頼みたいと、エレナからの伝言だった。
フィーナにも一緒に来てほしいという。
俺たちは旧市場跡から延びる地下通路を抜け、覚醒派が移った先の区画へ向かった。
昼の光が届かなくなるにつれ、石壁の温度が下がっていく。
前に通った時より人は少ない。
箱の位置が変わり、昨日まで負傷者が寝ていた場所には、畳まれた布だけが積まれていた。
「右、見ておいて」
分岐でフィーナが言った。
「見張りか」
「戻る時に、人が増えていないか」
「ああ」
それだけだった。
以前なら自分で確かめていたはずのことを、フィーナは俺に任せ、そのまま先へ進んだ。
拠点へ着くと、俺は会議区画ではなく、奥の一角へ通された。敷いた布の上に、処置を待つ負傷者が二人いた。
一人は前腕に巻いた布へ血が滲み、もう一人は片足を庇うように座っていた。
俺は傷を洗い、出血を確かめ、汚れた布を替えた。
もう一人の足首は腫れていた。折れてはいないように見えたが、無理に歩かせる理由もない。
木片を当て、布で固定する。
「今日は体重をかけるな。移動するなら誰かに肩を借りてくれ」
「分かった」
できることは多くない。それでも、悪くしないためにできることはある。
最後の結び目を確かめたところで、赤銅色の髪を後ろで束ねたエレナがやって来た。
「助かった」
「これで全部か」
「今いる負傷者は、これで全部だ」
エレナは一度だけ、会議区画の方へ目を向けた。
「もう一つ、話がある。フィーナにも聞いてほしい」
会議区画の入口には二人の男が立っていた。
武器は下げている。
だが扉の前からは動かない。
中へ入ると、エレナが先に机の位置へ向かった。
周囲には三人の覚醒派構成員がいた。誰も座っていない。
机の上には水差しと、折り畳まれた地図。
それから、人員、食料、薬、空いている寝床の数を記した紙が並んでいた。
避難者と負傷者の欄には、書き直された跡がいくつもある。
ここでは何かを決めるたびに、別の何かが減るらしい。
壁際に、一人の男がいた。三十代か、四十代か。
見ただけでは分からない。
手は前で縛られている。頬に傷はない。服も破れていない。
ただ、縄が手首へ食い込み、指先が白くなっていた。
エレナは向かいの椅子を示した。
「座ってくれ」
俺とフィーナが腰を下ろす。
エレナの視線が、壁際の男へ移った。
「この男は、物資運びを手伝っていた。正式な構成員ではない」
「何があった」
俺が聞いた。
「神殿側へ情報を渡した」
部屋の空気が、少しだけ重くなった。
「旧市場の周辺で私たちが動いていること。地下通路があること。物資を入れるおおまかな時間。こちらで確認できているのは、その三つだ」
エレナは一度、俺とフィーナを見た。
「ここからは、手当てとは別の話だ。この男をどうするか決める」
「俺たちにも聞くのか」
「二人が来ているうちに、意見を聞いておきたい」
エレナは俺を見る。
「ソウルは覚醒派じゃない。外から見た意見がほしい」
次にフィーナへ視線を移す。
「フィーナも、私たちのやり方を何でも肯定する人間じゃない」
「同じ考えの者だけで、人一人の処遇を決めたくない」
エレナは男へ向き直った。
「もう一度確認する。情報を渡した相手は誰だ」
男はしばらく黙っていた。
「……名前は知りません。神殿の人間です」
「所属は」
「分かりません」
「新しい拠点の入口は話したか」
「話してない」
「記録を保管している場所は」
「知らない」
「構成員の名前は」
「誰の名前も言ってない」
エレナは怒鳴らない。
机も叩かない。責めているというより、事実を一つずつ並べているように見えた。
「なぜ話した」
男の喉が動いた。
「薬を止めると言われた」
誰も動かなかった。
「配給も外すと」
男は縛られた手を見た。
「妹が、神殿の施療を受けてる。記憶が、もうかなり抜けてる。薬がなくなったら悪くなる。配給までなくなったら……」
そこで言葉が切れた。
「俺が話さなければ、妹が死ぬと思った」
「だから全部話したのか」
奥にいた構成員が低く聞いた。
「違う」
男は顔を上げた。
「場所はぼかした。入口は言わなかった。名前も出してない。それなら、向こうも妹に手を出さないと思った」
「両方守れると思ったのか」
同じ構成員が聞く。
男は答えなかった。
奥の構成員が息を吐いた。
「お前が話したあとで、二人戻ってない。負傷した奴もいる」
構成員は一度、口を閉じた。
「あいつとは、ずっと一緒にやってきた」
「……そんなことになるとは、思ってなかった」
「思わなかったで済むのか」
「地下通路があることと、荷を入れる時間だけだ。入口は言ってない。誰がいるかも言ってない」
「それでも向こうは動いた」
「場所まで絞れるとは思わなかった」
「絞られた。その結果、二人戻ってない」
構成員の声が一段だけ大きくなった。
縛られた男は反論しなかった。
俺には、食い込んだ縄の方が気になった。
指を動かそうとしているが、うまく曲がっていない。
「少し緩める」
俺が言うと、入口に立っていた構成員の一人が眉を寄せた。
「逃げるぞ」
「縄を外せとは言ってない。このままだと手を傷める」
「今、それを気にするのか」
「今だからだ」
返事を待たず、医療鞄から折った布を出した。
結び目と皮膚の間へ薄く差し込み、圧が一点へ集まらないよう位置をずらす。
指先を押し、離す。白くなった皮膚へ色が戻るまでを数えた。
「そんなやり方があるのか」
入口の構成員が小さく言った。
「痛めてから治すよりは楽だ」
男の指先へ、少しずつ色が戻った。
大したことではない。前に居た世界なら、特別な処置ですらない。
この世界でも、布と縄さえあればできることはあった。
男は俺を見たが、礼は言わなかった。
言われても困ったと思う。エレナも止めなかった。
「問題は、今の拠点についても、この男が一部を知っていることだ」
エレナが言った。
「移動の時に使った退路を見ている。ここで解放して、もう一度神殿側に捕まれば、同じことが起きるかもしれない」
「どこまで見た」
フィーナが男へ聞いた。
「移った時に通った道の一部だけだ。全部は知らない」
「外へ出る方向は」
「分かる」
「見張りが入れ替わる場所は」
「一か所だけ」
答えるたびに、男の声は小さくなった。
知っている情報は多くない。
多くないから安全だとも言えない。
「このまま解放できないか」
俺は続けて言った。
「妹も一緒に保護する。神殿から離せば、同じ脅しは使えない」
エレナが俺を見る。
「神殿の施療を受けている妹を、神殿から切り離す?」
「脅しに使われてるなら、そこから離すしかない」
「離したあと、同じ施療ができる?」
「できる範囲でやる」
エレナの視線は外れなかった。
「その『できる範囲』で悪化したら?」
神殿へ依存しているから脅される。
けれど、依存しているものを断てば助かるとも限らない。
「なら、拘束を続ける」
フィーナが言った。
「別の場所へ移して、知らせる情報を絞ればいい」
エレナはすぐに否定しなかった。
「移す場所は」
「今の拠点から離れた区画」
「そこまでの道を誰が確保する」
フィーナの視線が机の地図へ落ちる。
「監視は何人必要だ」
今度はエレナが、周囲の構成員へ聞いた。
「交代なら……二人ずつ」
入口側の構成員が答えた。
「一日で何人使う」
返事が止まる。
「妹の施療は。薬は。食料は。自力で動けないなら、誰が運ぶ」
エレナは声を変えないまま、一つずつ確かめていった。
誰もすぐには答えられなかった。
フィーナが机の紙へ目をやる。
「食料も、人も、道も足りないか」
「足りない」
エレナが答えた。
俺が出した案も、フィーナの案も、間違っているとは思わなかった。
少なくとも、他に手がないと決める前に考える価値はある。
ただ、実行する人間も、食料も、薬も、ここには余っていなかった。
正しさだけでは、人も荷物も運べない。
「記憶を切ればいい」
壁際にいた若い構成員が言った。
「知ってる道だけ消せば――」
「却下」
エレナの声が重なった。
「でも」
「神殿と同じことはしない」
そこだけは迷わなかった。
「設備もない。雑に切れば、道だけでは済まない」
フィーナの指が、自分の外套の端を一度だけつまんだ。すぐに離した。
しばらく、誰も次の案を口にしなかった。
地下のどこかを流れる水の音が聞こえた。
「……処刑するしかない」
奥にいた構成員が言った。
俺は顔を上げた。
処刑。
その言葉が、この場で初めて出た。
「待て」
自分でも思ったより早く声が出た。
「難しいのは分かる。でも、それで殺していい理由にはならない」
「解放して、次の避難先まで潰れたらどうする」
奥の構成員が返した。
「だからって――」
「二人はもう戻ってない」
言葉が止まった。
責任を取る、と言うのは簡単だった。
でも、死んだ人間を戻すことはできない。俺はそれを知っている。
知っているからこそ、目の前の一人を死なせる選択にも頷けなかった。
「渡した情報が、どこまで昨日の作戦に使われたかは分かっているのか」
フィーナがエレナへ聞いた。
エレナはすぐには答えなかった。
代わりに、さっき声を荒らげた構成員が口を開く。
「南倉庫の時間を知ってたのはこいつだ」
「他にも知っていた者は」
「いる」
「神殿が別の情報筋で知った可能性は」
「ないとは言えない」
フィーナの目がエレナへ戻った。
「なら、この男だけを殺せば正しいとも言えない」
「生かせば安全とも言えない」
エレナが返した。
拘束された男は逃げようとはしていない。
縛られた手を膝の上に置いたまま、呼吸だけが速くなっていた。
エレナは男へ向き直った。
「妹のことを確認する」
「……何を」
「住んでいる場所は」
「南の……水路沿いだ」
「施療所は」
「ラグナ神殿の西分所」
「薬は何日に一度」
「三日に一度」
「配給は」
「四日に一度。次は明後日だ」
胸の奥が冷えた。
何を確認している。
そこまで考えて、自分で止めた。
エレナはまだ何も決めていない。
先を勝手に決めつけているのは俺の方だった。
エレナは机の上の紙を見た。
解放。
拘束。
記憶切離し。
どれも、最後まで線を引けずにいた。
薬。食料。見張り。妹の施療。
紙の端に書き足した数字を、また見直している。
迷っているのだと、その手の動きで分かった。
「まだ決められない」
エレナが言った。
それまでの言い切るような響きはなかった。
「もう少し、確かめさせてくれ」
誰も、それを急かさなかった。
拘束された男は、椅子の上でうつむいていた。
時間だけが、水滴の音と一緒に落ちていった。
動いたのは、奥にいた構成員だった。
立ち上がり、男の後ろへ回る。
「決まらないなら、決める」
低い声だった。
「待て」
エレナが顔を上げた。
「まだ話してる」
「話してる間に、また誰か死ぬかもしれない」
構成員は、男の腕を掴んだ。
「お前のせいで、あいつは帰ってこなかった」
その声が震えていた。
怒りだけではないと、俺にも分かった。
「よせ」
エレナが席を立った。
だが、遅かった。
構成員は、男を引きずるように通路の方へ動かしていた。
「離せ」
エレナの声が、初めて大きくなった。
俺も動こうとした。
しかし、足が地面に張りついたように動かなかった。
フィーナの手が腰へ動き、途中で止まった。
エレナが追おうとした瞬間、別の構成員が扉の前に立った。
「エレナ」
短く名を呼ばれただけだった。
それだけで、エレナの足が止まった。
止めれば、今度は身内同士で刃を向け合うことになる。
その一瞬の計算が、エレナの顔をよぎるのが見えた。
エレナは、動かなかった。
動けなかった、のかもしれない。
男の姿が、通路の暗がりへ消えた。
誰も、間に合わなかった。
しばらくして、足音が一つだけ戻ってきた。
男を連れていった構成員だった。
こちらを見ない。
水桶の前へしゃがみ、手を洗った。
長く。
指の間まで、何度も。
もう汚れているようには見えなかった。
誰も、何も言わなかった。
エレナも、何も言わなかった。
ただ、水が石床へ落ちる音だけを、立ったまま聞いていた。
「武器を置け」
エレナが言った。
男の手が止まった。
「今は拘束する。処分は、あとで決める」
男は何も言わなかった。腰の武器を外し、石床へ置いた。
入口にいた構成員の一人がそれを拾い、男の腕を取った。
男は逆らわず、別の区画へ連れていかれた。
どれくらい経っただろうか。
エレナが、ようやく口を開いた。
「止められなかった」
誰に向けた言葉でもなかった。
「私が迷ってる間に、あいつはもう限界まで来てた」
「決めることばかり考えて、そこまで見えてなかった」
エレナは視線を落としたまま、動かなかった。
「残された妹は、どうする」
フィーナが言った。
エレナは、まだ通路の方を見ていた。
「妹の施療と配給は、こちらで引き受ける」
「神殿の施療が必要なんだろ」
俺が言った。
「必要な薬は確保する。神殿でしか受けられない施療が必要なら、西分所に出入りできる協力者を頼る」
「それで帳尻が合うのか」
「合わない」
返事は早かった。
エレナは少し黙った。
「決めきれなかった。その間に、止めるべきものを止められなかった」
「妹には、何て言う」
俺が聞いた。
エレナの返事は、少し遅れた。
「全部は言えない」
「じゃあ、また誰かが決めるのか。何を知っていいか」
「そうなる」
否定しなかった。
その返事が、いちばん重かった。
妹に何を知らせるかも、結局は残された側が決める。
それが正しいとは思えなかった。
それでも、全部を伝えることが正しいとも言えなかった。
男だけは、もう戻らない。
会議は、それで終わった。
油皿の火が小さく揺れている。
机の端には、男の前に置かれていた水の器が残っていた。
半分ほど入ったままだった。
片づけようとした若い構成員が器へ手を伸ばし、途中で止めた。
結局、そのまま置いた。
俺とフィーナは、会議区画を出た。
「右」
分岐でフィーナが言った。
来る時に頼まれた通り、人影を確かめる。
「増えてない」
「分かった」
それだけで、フィーナは先へ進んだ。
地下通路を抜ける頃には、夕方の光が入口の先まで差し込んでいた。
地上へ出る。
市場の方から荷車の軋む音がした。
夕餉の煙が屋根の間へ上がっている。
地下にいた時間だけ、街から切り離されていたように感じた。
その時、向こうから軽い足音が近づいてきた。
「戻りました!」
レンだった。
肩の鞄は出発した時と同じ位置にある。
ガルムが直した留め具も外れていない。
頬が少し赤い。走ったのかもしれない。
けれど息は上がっていなかった。
「次の配給、明日の昼でいいそうです」
レンは鞄から受け取った紙を出し、フィーナへ渡した。
「共同井戸の方も、今日は兵が増えてませんでした。あと、工房の床もまだ半分です」
「床の話まで報告するのか」
俺が聞いた。
「ガルムじいちゃんには大事です」
レンは鞄の紐を押さえた。
「あと、明日はもう少し焦がさないようにします。七点半でしたよね」
「七点以上だ」
「細かいですね」
「言い出したのはお前だろ」
レンは笑った。いつもの笑い方だった。
俺の握ったままの手へ、レンの視線が落ちた。
「手、どうしたんですか」
開いてみると、爪の跡が薄く残っていた。
「何でもない」
「それ、僕が言うと怒られるやつです」
「誰に」
レンは少し考え、工房の方を指した。
「二人くらいに」
思わず息が抜けた。
「お前はまず、自分の大丈夫をどうにかしろ」
「それとこれは別です」
「便利だな」
「便利です」
レンはすぐにフィーナへ配給所の返事を伝え始めた。
フィーナは短く確認し、受け取った紙の端へ何かを書き足す。
その横でレンは、明日の配給の数を指で数えていた。
明日の昼には、また配給がある。
工房へ戻れば、床磨きの続き。
そのあとには、次のパンが待っている。
会議の中では、人を生かすために何人必要かを数えた。
ここでは、明日配るパンの数を数えている。
同じ数えるという行為なのに、まるで違って見えた。
さっき、一人の男が通路の奥へ連れていかれた。
今、レンが夕方の街から戻ってきた。
一人は戻らなかった。
一人は戻ってきた。
その違いを、誰が決めたのか。
正しさだけでは、答えにならなかった。
Scene 22 優しすぎる
その日の夜。
俺はもう一度、覚醒派の地下拠点へ向かった。
昼に手当てした二人の様子を確かめるためだった。
前腕の傷は、出血が増えていないか。
腫れた足首は、固定したあとに悪くなっていないか。
フィーナは工房に残った。
手当ての確認だけなら、俺一人でいい。
地下拠点へ入ると、昼より灯りの数が減っていた。
人の声も少ない。
壁際の油皿だけが、細い通路を途切れ途切れに照らしている。
二人の状態を確かめた。
出血は増えていない。
足首の腫れも、ひどくはなっていなかった。
「今日はこのまま休んでくれ。その足にはまだ体重をかけるな」
そう言って立ち上がる。
帰ろうとしたところで、通路の奥を歩くエレナの背中が見えた。
赤銅色の髪を後ろで束ねたまま、一人で拠点の奥へ向かっている。
足取りは、いつもと変わらないように見えた。
何か言うためではなかった。
ただ、放っておけなかった。
俺は、その背を追った。
地下拠点の奥へ進むにつれ、灯りの数がさらに減っていく。
人の声も遠ざかり、代わりに地下のどこかを流れる水の音が近くなった。
途中、何人かの構成員とすれ違った。
誰もエレナへ声をかけなかった。
物資置場の裏へ回ったところで、エレナの足が止まった。
古い水桶と、空になった木箱が積まれている。
会議区画からは見えない、人目のない場所だった。
エレナは左手を壁についた。
呼吸が一度だけ深くなる。
喉が動いた。
さっきまでより、唇の色が薄い。
「大丈夫か」
声をかけるのと、エレナが身体を折るのはほとんど同時だった。
短く咳き込み、そのまま吐いた。
大きな音はしなかった。
身体が遅れて何かに追いつき、耐えていたものを勝手に押し出したような吐き方だった。
俺は数歩手前で止まった。
背中へ手を伸ばしかけて、やめる。
そこまで親しい間柄じゃない。
代わりに、水差しを取り、器へ少しだけ注いだ。
「水、飲めるか」
返事はない。
エレナは口元を袖で拭い、壁に手をついたまま呼吸を整えていた。
もう一度器を差し出すと、今度は受け取った。
「一気に飲むな。口をすすぐだけでいい」
「……分かってる」
声が少しかすれていた。
エレナは水を口に含み、吐き出した。
残った水には口をつけず、器を足元へ置いた。
しばらく、どちらも何も言わなかった。
水桶の縁から落ちた雫が、石床へ小さな音を立てる。
エレナの左手が、器を持ち直した。
薬指のない手。
昼には、その手で地図を押さえ、人と食料と薬の数を追っていた。
今は、水面がわずかに揺れている。
俺はそこから目を外した。
けれど、エレナは立ち上がらなかった。
俺も隣には座らず、少し離れた木箱へ腰を預けた。
「あの男のこと、まだ考えてるのか」
「考えない方が変だろ」
「少し休め」
エレナの指が、器の縁をなぞる。
「決めることが残ってる。休んでる暇はない」
「全部、お前が決める必要はない」
指が止まった。
「そうだな」
短い返事だった。
「今日、それが分かった」
言葉が返せなかった。
エレナは器を床へ置いた。
「私は決められなかった」
昼にも聞いた言葉だった。
エレナは壁を見たまま続けた。
「私が迷ってる間に、あいつは動いた」
「でも、殺したのはお前じゃない」
「分かってる」
エレナの指が、器の縁で止まった。
「それでも、止められなかったのは私だ」
水の落ちる音だけが残った。
「決めなければ、誰かが先に動く」
エレナの指が、器の縁をなぞった。
「今日、それを見た」
「だから、次は早く決めるのか」
エレナが俺を見る。
「必要なら」
「誰かを切ることになっても」
「切らないことで、別の誰かにしわ寄せがいくこともある」
「だからって、一人を死なせる方に頷けるわけじゃない」
「男を生かしておくなら、見張りがいる」
エレナは淡々と言った。
「妹を保護するなら、薬も食料もいる。拠点を移すなら、人手もいる」
「全部に同じだけ回せるほど、ここには人も物もない」
「分かってる」
「なら、どこかで決めるしかない」
「それも分かってる」
「じゃあ、何が違う」
エレナは石床へ目を落とした。
「何を間違えた。何を選べばよかった」
少し間が空く。
「私には、まだ分からない」
俺にも、答えは出なかった。
病棟でも、似たようなことはあった。
一人の呼吸が苦しくなれば、その人のそばへ行った。
別の部屋で呼び出しが鳴れば、誰かに頼んだ。
人が足りなければ、先に行く部屋を決めなければならない時もあった。
全員へ同じだけ手を伸ばせたわけじゃない。
何かを優先するたび、後ろへ回る人がいた。
そんなことは、ずっと前から知っている。
病床の数を数えた。
残っている薬を数えた。
夜勤に入れる人間を数えた。
数えなければ、回らない。
嫌だったのは、数えることそのものじゃない。
その数字の向こうにいる人間まで、
数字だけになったように扱われる瞬間だった。
それでも、目の前にいる一人を先に諦めることには慣れなかった。
慣れたふりなら、何度もした。
「それでも、まだ生きてる人を、最初から死んだ側へ数えたくない」
言ってから、自分でもきれいな答えではないと思った。
助けられると言っているわけではない。
全員を救える方法を持っているわけでもない。
ただ、先に線を引くことだけが嫌だった。
エレナはしばらく何も言わなかった。
それから、小さく息を吐く。
「優しすぎる」
褒められたようには聞こえなかった。
エレナは立ち上がった。
まだ顔色は戻っていない。
それでも、さっきまで壁へ預けていた身体を、自分の足だけで支えた。
「お前は、そうやって誰にでも手を伸ばす」
俺を見る。
「いつか、その優しさが、お前の命を奪うぞ」
否定しようとして、言葉が出なかった。
救えなかった人間の顔を、いくつも覚えている。
名前を思い出せない人までいるのに、握った手の冷たさだけが残っていることもあった。
この世界へ来てからも、触れたものから、知らない痛みが流れ込んできた。
聞こうとしたわけでもない声が、耳の奥に残った。
身体の中へ入り込んだ痛みが、自分のものなのか、誰かのものなのか分からなくなることさえあった。
それでも、放っておくことはできなかった。
それが正しいと思っているわけじゃない。
ただ、目の前にいる人間へ手を伸ばさない方を、俺はまだ選べなかった。
「お前は、自分の判断が正しいと思ってるのか」
少し間があった。
「思ってない」
エレナは俺を見た。
「正しいかどうか分からなくても、決めなきゃならない時はある」
「間違ってたら?」
「その時は、私が背負う」
「背負えば済むのか」
「済まない」
返事は早かった。
「死んだ人間は戻らない」
「……分かってる」
俺は口を閉じた。
これ以上続ければ、誰にも出せなかった答えを、エレナ一人に求めることになる。
そんな答えを、俺も持っていない。
エレナの考えを、正しいとは思えない。
それでも、あいつが何も感じていないわけでもなかった。
何も感じない人間なら、もっと簡単に嫌えた。
けれど、エレナはさっき吐いていた。
それでも、男は戻らない。
たぶんエレナは、この先も背負い続けるのだろう。
エレナは器を拾い、桶の横へ戻した。
袖で口元を拭う。
乱れた髪を片手で後ろへ押し、外套の襟を直した。
それから、ゆっくり立ち上がった。
顔色は、まだ戻っていない。
それでも、戻るつもりなのだろう。
「もう行く」
「水は」
「あとで飲む」
「少しずつにしろ」
「分かった」
エレナは数歩進み、足を止めた。
振り返らない。
「ソウル」
「何だ」
「どこまで手を伸ばすかは、考えておけ」
「エレナ、お前もな」
エレナは返事をしなかった。
そのまま、通路の明かりの中へ戻っていく。
俺はしばらく、その場に残った。
水桶の縁から、雫が一つ落ちた。
誰かを守るには、選ばなければならない時がある。
選んでも、誰かが傷つくことがある。
そんな場面を、病院でも何度も見てきた。
正しさや優しさの尺度を、俺はまだ知らない。
それでも俺は、また手を伸ばすのだろう。
ただ、目の前の一つの命を救いたい。
それだけで。
【作品案内】
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【公式設定資料(第2章読了後版)】
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【第1章 Scenen 1】
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※この小説「テルナ・ヴァイド」は、「小説家になろう」にも同時掲載しています。
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