第二十八話 普通に話す
「……あの」
かすかな声だった。
振り返ると、冬山ちなつが立っていた。
自分の腕を掴み、少し俯いている。
「冬山?」
名前を呼ぶと、身体がわずかに強ばった。
「夏沢さんと……話したんですよね」
「ああ」
「何を話したんですか」
「詳しいことは言えない。本人から話さないでくれって言われてる」
「……そう」
ちなつは視線を落とした。
「お前も何か話したいのか?」
「……話したいことはあります」
そこで、少し離れた場所にいる藤堂を見る。
「でも……男の人と話すの、ちょっと」
最後まで言わなかった。
それでも十分だった。
「分かった」
ちなつが顔を上げる。
「今日は聞かねぇよ」
「……いいんですか?」
「話せないやつから無理やり聞いてどうすんだ」
「……ごめんなさい」
「謝ることじゃねぇだろ」
ちなつは少し戸惑った顔をしたあと、小さく頷いた。
「また、話せそうな時でいい」
「……うん」
そのまま歩き出す。
数歩進み、一度だけ振り返った。
目が合うと、すぐに顔を逸らす。
話したい。
でも、怖い。
今のちなつは、その間にいるようだった。
◇
その夜。
拓也へ電話をかけた。
『次は冬山か』
「ああ。今日、向こうから来た」
『話したのか?』
「ほとんどな。男と話すのがきついらしい」
『なら、お前から呼び出すのはやめとけ』
「藤堂が一緒でも?」
『男が二人になるだけだろ』
「……確かにな」
冬山は夏沢とは違う。
神谷に傷つけられたあと、さらに嘘の噂を流された。
男にだらしない。
自分から神谷についていった。
そんな話が広まり、人の視線まで怖くなっている。
『優ちゃんに頼んだらどうだ』
「優を?」
『男が怖いなら、お前が無理して前に出る必要ねぇだろ』
「冬山は優のことも意識してるぞ」
『だから、決めるのは優ちゃんだ』
少し黙る。
『ホー。守るってのは、前に立つことだけじゃねぇぞ』
「……分かってる」
『なら本人に頼め』
「ああ」
◇
翌日の昼休み。
藤堂にも話すと、同じような答えが返ってきた。
「水原さんが一番自然だと思うッス」
「お前もか」
「冬山さん、自分から来たんでしょ?」
「ああ」
「なら、本当は誰かと話したいんスよ」
藤堂が眼鏡を押し上げる。
「それに、“可哀想な被害者”として扱うより、普通の学生として接した方がいいと思います」
「普通に?」
「噂の女でも、神谷の被害者でもなく。ただの冬山ちなつとして」
なるほどな。
◇
午後。
優を人の少ない階段の踊り場へ呼んだ。
「冬山さんのこと?」
「何で分かった」
「昨日、話しかけに来てたでしょ」
「見てたのか」
「見えてたし」
優は手すりへ背を預ける。
「オレじゃなく、お前に話してほしい」
「……わたし?」
「冬山は男と話すのがきついらしい」
「何を話せばいいの?」
「普通に」
優の眉間にしわが寄る。
「それ、一番難しいんだけど」
「授業とか飯とかでいいだろ」
「適当だね」
「嫌なら断っていいぞ」
優は少し考えた。
「冬山さん、わたしのこと嫌いかな」
「分からねぇ。本人に聞くしかない」
「……そっか」
やがて顔を上げる。
「やる」
「いいのか?」
「昨日、自分から来たんでしょ?」
「ああ」
「だったら、誰かと話したいんだと思う」
優は一度息を吐いた。
「ただし、ホーと藤堂くんは離れてて」
「分かった」
「何かあっても、すぐ飛んでこないで」
「……分かったよ」
「今、間があった」
「気のせいだ」
優が小さく笑った。
「じゃあ、普通に話してみる」
◇
講義終わり。
ちなつは廊下の壁際に一人で立っていた。
オレと藤堂は離れた場所にいる。
優が歩いていった。
「冬山さん」
「……何?」
「次の講義ある?」
「ないけど」
「わたしもない。少し話さない?」
ちなつはすぐにこちらを見た。
「ホーくんに言われたの?」
「うん」
優は誤魔化さなかった。
「可哀想だから相手してあげてって?」
「違うよ。普通に話せって」
「……何それ」
「わたしもそう思った」
ちなつの表情が少しだけ崩れる。
優は隣へ行かず、距離を空けて壁へ寄った。
「今日の講義、長かったね」
「今その話するの?」
「普通の話ってこういうのでしょ」
「知らない」
「わたしも知らない」
ちなつが呆れたように見る。
「食堂のカレーも薄かったし」
「それ、いつもじゃない?」
「やっぱり?」
「わたし食べないけど」
「何食べるの?」
「……うどん」
「普通だね」
「普通で悪い?」
「悪くないよ」
その時だった。
廊下の向こうで、男子学生が友人の肩を強く叩いた。
乾いた音が響く。
ちなつの身体が跳ねた。
「冬山さん?」
呼吸が浅くなる。
腕へ爪が食い込んでいた。
優が一歩動く。
「触らないで!」
鋭い声が響いた。
オレも反射的に動きかける。
「ホー」
藤堂が止めた。
「今は行かない方がいいッス」
足を止める。
優もそれ以上近づかなかった。
「分かった。触らない」
少し距離を取る。
「ここにいるだけにする」
ちなつは荒い呼吸を繰り返している。
「大丈夫とも言わない。今、大丈夫じゃないと思うから」
優は静かに続けた。
「ここは大学の廊下。今、誰も冬山さんに触ってない」
「……」
「わたしも触らない」
少しずつ、ちなつの指から力が抜ける。
「……見ないで」
「分かった」
優は窓の方を向いた。
しばらくして、ちなつの呼吸が落ち着く。
「座る?」
「……うん」
二人は廊下の端の長椅子へ移動した。
◇
「優ちゃん」
ちなつが小さく呼んだ。
「何?」
「わたし、大学にいると誰かに見られてる気がする時がある」
「うん」
「男の人と話したら、また何か言われるんじゃないかって」
膝の上で手を握る。
「みんな普通にできてるのに」
「わたしだって、普通じゃない時あるよ」
「でも笑ってる」
「笑う時もあるから」
「ホーくんがいるから?」
「それもある」
優は誤魔化さなかった。
「……いいよね」
「うん」
「そこ否定しないんだ」
「ホーがいてよかったと思ってるから」
「そういうところ、嫌い」
「そっか」
「怒らないの?」
「ちょっとは腹立つ」
「ちょっとなんだ」
「でも、嫌いって言われただけで何かするわけじゃないし」
ちなつは少し俯いた。
「わたし、優ちゃん見ると腹立つ時ある」
「うん」
「何で助けてくれる人がいるのって」
「……うん」
「何で、わたしにはいなかったのって」
優はすぐには答えなかった。
「それは、わたしには分からない」
「分かってる」
「でも」
優はちなつを見る。
「冬山さんがわたしを嫌いでも、話くらいできるよ」
「嫌いなのに?」
「うどんの話くらいなら」
「またうどん?」
「他に普通の話が思いつかないんだもん」
ちなつの口元が、ほんの少し緩んだ。
◇
その日は、二人で駅まで帰った。
それから数日。
優は毎日、ちなつへ声をかけた。
「ちなつ、お昼どうする?」
「食堂」
「今日もうどん?」
「毎日うどん食べてると思ってる?」
「違うの?」
「違うよ」
特別なことはしなかった。
神谷のことも聞かない。
噂についても、自分から触れない。
講義の話をする。
昼飯を食べる。
くだらないことで笑う。
ただ、それだけだった。
最初の頃、ちなつは食堂でも人の少ない端の席ばかり探した。
「……あっちがいい」
「空いてないよ」
「じゃあ、あとで食べる」
「何で?」
「見られてる気がする」
「そっか」
優は否定しなかった。
代わりに、空いている中央の席へ自分のトレーを置いた。
「じゃあ、わたしここで食べる」
「え?」
「ちなつは嫌なら無理しなくていいよ」
優は本当に食べ始める。
ちなつはしばらく立ったままだった。
周囲を何度も見る。
それでも。
「……詰めて」
「ん?」
「座るから」
優が横へずれた。
ちなつは隣へ座る。
「やっぱり見られてる気がする」
「じゃあ、ご飯見てれば?」
「意味分かんない」
「伸びるよ、うどん」
「今日定食なんだけど」
「あ、本当だ」
「何見てたの?」
ちなつが思わず笑った。
◇
別の日。
二人で教室を出た時だった。
前を歩く女子学生の声が聞こえる。
「ねえ、あの子って……」
「神谷くんの――」
ちなつの足が止まった。
「……帰る」
「何で?」
「やっぱり無理」
逃げるように向きを変える。
だが優は腕を掴まなかった。
「ちなつ」
「何」
「今日コンビニ寄るんでしょ?」
「今それどうでもいい」
「プリン買うって言ってたじゃん」
「優ちゃん、聞こえなかったの?」
「聞こえたよ」
「じゃあ――」
「でも」
優がちなつを見る。
「噂してる人がいるたびに、ちなつが行きたい場所変えるの?」
「……」
「それ、ずっとやるの?」
ちなつは答えなかった。
「わたしだったら嫌」
優はそれ以上何も言わず、少し先へ歩いた。
無理に引っ張らない。
ただ待つ。
やがて。
「……プリン」
「ん?」
「最後の一個だったら、わたしが取るから」
「それずるくない?」
「早い者勝ち」
ちなつが歩き出した。
二人はそのまま、噂していた学生たちの横を通り過ぎる。
顔は少し硬かった。
それでも、ちなつは下を向かなかった。
◇
少しずつ。
本当に少しずつだった。
ちなつは食堂の端ばかり選ばなくなった。
講義が終わっても、人が減るまで教室へ残ることがなくなった。
誰かと目が合うたびに俯くことも減った。
「冬山さん」
ある日、同じ講義を受けている女子学生から声をかけられた。
ちなつの身体が一瞬だけ固まる。
「……何?」
「今日のレポートって、最後に出せばいいんだよね?」
「……うん」
「ありがと」
女子学生はそれだけ言って去っていった。
ちなつは、その背中をしばらく見つめる。
「優ちゃん」
「何?」
「今の人……普通に話した」
「そりゃ話すでしょ」
「でも」
「同じ講義なんだから」
「……そっか」
ちなつの顔が、ゆっくりと緩んだ。
大学にいる全員が、自分の噂を気にしているわけではない。
噂を知っている人間だって、それだけで自分を決めつけるとは限らない。
そんな当たり前を、少しずつ思い出しているようだった。
◇
さらに数日後。
食堂へ向かう二人の後ろから、小さな声が聞こえた。
「あれ、冬山じゃない?」
ちなつの足が、一瞬止まりかける。
「ちなつ、早く」
優が振り返った。
「席なくなるよ」
「……うん」
ちなつは振り返らなかった。
誰が言ったのかも確認しない。
優の隣へ並ぶ。
「今、聞こえた?」
「何が?」
「……いや、いい」
「変なの」
「今日、わたしカレーにする」
「え?」
「何」
「うどんじゃない」
「まだ言ってるの?」
「大事件じゃん」
「うるさい」
二人の笑い声が、人の多い食堂へ混ざっていった。
◇
優は、隣を歩くちなつを見た。
まだ男の人が近くを通れば、身体が強ばる時がある。
大きな声や急な物音がすれば、驚くこともある。
誰かの視線を気にして、足が止まりそうになる日だってあった。
きっと、すぐには全部なくならない。
それでも。
優は、いつか少しずつ変わっていけると思っていた。
男の人とも何も気にせず話せる日が来るかもしれない。
来るのがずっと先でもいい。
もしかしたら、苦手なものはこれからも残るかもしれない。
それでもいい。
誰とでも話せること。
人の多い場所を怖がらないこと。
噂を気にしないこと。
それだけが“普通”ではない。
普通なんて、人それぞれ違う。
神谷に傷つけられる前のちなつへ、無理に戻る必要だってない。
今のちなつが、自分で行きたい場所へ行き、食べたいものを選び、誰かと話し、笑える。
そこから、自分にとっての普通をもう一度作っていけばいい。
「優ちゃん?」
「ん?」
「何でこっち見てるの?」
「別に」
「変なの」
「ちなつに言われたくない」
「何それ」
二人で笑う。
人は変われる。
傷つく前と同じ自分へ戻るという意味ではない。
傷ついたあとからでも、また違う自分になっていける。
誰かが決めた普通へ戻る必要なんてない。
ちなつ自身がこれから見つけていくもの。
それが、ちなつにとっての普通なら、それでいい。
◇
少し離れた場所から、オレと藤堂は二人を見ていた。
「前より自然になりましたね」
「ああ」
「もう大丈夫そうッスか?」
「全部じゃねぇだろ」
「でしょうね」
傷が消えたわけじゃない。
それでも。
講義へ行く。
飯を食う。
誰かと話す。
笑う。
神谷と噂に奪われたものを、ちなつは少しずつ取り戻していた。
「優ちゃん」
少し先で、ちなつが笑いながら優を呼んだ。
その様子を、さらに離れた場所から見ている人物がいた。
秋川凛。
いつものように静かに立っている。
柔らかな表情。
優しそうな目。
だが。
「優ちゃん」
ちなつがもう一度その名前を呼んだ瞬間。
凛の口元から、笑みが消えた。
優しすぎるほど静かだった瞳から、ゆっくりと温度が失われていく。
握られた指先へ、強く力が入った。
ほんの一瞬。
そこにいたのは、今まで見ていた秋川凛とは違う誰かのようだった。
