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ありがとうと言って欲しいだけ

私は、ありがとうと言ってほしいだけ。
介護をしながら、私の黒歴史を振り返る。
〈序章〉

介護をしていると、ときどき思う。
私は、どうしておばあちゃんに優しくできないんだろう。
暴力を振るわれたわけじゃない。
何かひどいことを言われたわけでもない。
……いや。
正確に言えば、今の祖母からではない。
何かをしてあげると、祖母はよく「すみません」と言う。
「すみません」じゃなくて、
「ありがとう」でいいんだけどな。
そう思う。
「ありがとう」と言われたことがほとんどないから、その一言で本当に救われるのかどうか、私には分からない。
ただ、欲しい。
ありがとうって言ってほしい。
それだけなのだ。
最近、親の介護について話している中で、
「幼い頃に親から優しくしてもらった記憶がないと、親に優しくできないことがある」
というような話を耳にした。
それを聞いて、私は少し考えた。
もしかして、私が祖母に優しくできないのは、私の性格が悪いからだと思っていたが、祖母に優しくしてもらった記憶がないからか??
いや。
ちょっと待て。
そもそも、私が育った家って――
健全ではなかった!!笑

そう思ったら、子どもの頃の記憶が、次から次へと出てきた。
私の「おじいちゃん、おばあちゃん」のイメージは、本来なら、遠くに住んでいる優しい人たちだった。
盆休みに遊びに行けば、ご馳走を作ってくれる。
帰るときには寂しくなって、また来てねと言ってくれる。
クリスマスにはプレゼントが届く。
私が思い描いていた「おじいちゃん、おばあちゃん」は、そんな存在だった。
でも、私のおじいちゃんとおばあちゃんは、そうではなかった。
祖父は、酒を飲み、暴れ、借金をし、仕事も長続きしなかった。
そして、そんな祖父を中心に、家族は動いていた。
父もまた、その影響を受けていた。
怒鳴る。
物を壊す。
私の行動を決める。
そして長女である私。
父親の歪んだ期待は、ほとんど全部、私に向けられた。
私は21歳で結婚した。
こんな家から出たかった。
ところが、人生というものは、なかなか思い通りにはいかない。
家を出たはずの私のところへ、今度は父親が「娘婿に家に入ってほしい」と頼み、私の知らないところで、元夫は了承していた。
……逃げたはずなのに、まだ、今までの家族に囲まれている。

そして今。
あの頃から何十年も経って、私は98歳になった祖母を介護している。
祖父は74歳で亡くなった。
三男がお腹の中にいた。
祖父が亡くなってから、24年。
祖父と同じ年の祖母は、98歳になった。
そして祖母は今でも言う。
「お父さんのお陰で、ここまで生きてこられた。」
「年金があるのも、お父さんのお陰。」
……。
ちょっと待って。
あなたが今、生きていられるのは、私と母のお陰じゃないのか?
私は心の中で、何度も叫ぶ。
そして、もうひとつ。

私は、あなたに「ありがとう」と言ってほしいだけなんだよ。
そんなことを考えながら、私は自分の家族の歴史を、少しずつ思い出している。
これは、私の赤裸々な黒歴史。
そしてたぶん、
「どうして私は、こんなに家族に対して複雑な気持ちを持っているんだろう」を
53歳になった今、初めてちゃんと振り返る話だ。


第一章 私のおじいちゃん、おばあちゃん

私が子どもの頃に思い描いていた「おじいちゃん、おばあちゃん」は、テレビや友達から聞く話の中にいるような人たちだった。

遠くに住んでいて、盆休みになると遊びに行く。

「よく来たね」と迎えてくれて、ご馳走をたくさん作ってくれる。

帰るときには、「またおいで」と言ってくれる。

そして、クリスマスになるとプレゼントが届く。

そんな、優しいおじいちゃんとおばあちゃん。

……残念ながら、私の現実は違った。

私の父方の祖父は、九州の炭鉱で働いていた。

ところが炭鉱が閉山し、職を失った。

父がまだ小学生の頃、祖父は仕事を求めて、家族を連れて今住んでいる町へ引っ越してきた。

ここまでは、よくある家族の苦労話だと思う。

問題は、その後だ。

祖父は、とにかく仕事が続かなかった。

せっかく仕事に就いても、気に入らないことがあると職場の人と喧嘩をして、辞めてくる。

そして家で、昼間から酒を飲む。

ギャンブルをする。

借金をする。

家計を支えていたのは祖母だった。

祖母は、屋台を引いておでんを売っていたという。

今思えば、祖母も相当大変だったのだと思う。

ただ、子どもの私には、そんな事情なんて分からない。

ただ、気がついたら

「怖いおじいちゃんがいる家」

だった。

父も、その環境の中で育った。

方言のある父は、学校でかなりからかわれたらしい。

生活も決して楽ではなかった。

父は中学を卒業すると進学せず、すぐに働いた。

そして18歳で母と結婚した。

ほどなくして、私が生まれた。

最初は父、母、私の3人で社宅に暮らしていた。

ところが、祖母が父を頼ってきた。

「一緒に住みたい」と。

父は家族を受け入れ、社宅を出た。

そして私たちは、狭い長屋で暮らすことになった。

父、母、私、妹、祖父、祖母。

6人家族。

私にとっては、ここからが本当の意味での「家族」の記憶になる。

祖父は、昼間から酒を飲んでいた。

そして、酔うと暴れた。

怒鳴る。

大声を出す。

家の中の空気が、祖父の機嫌ひとつで変わる。

近所の子どもから、

「れいちゃんのおじいちゃんって怖いね」

「いつも大きな声出してるね」

と言われることも、よくあった。

子どもにとって、「家」は本来、安心できる場所なんじゃないだろうか。

でも、私にとっては違った。

家に帰れば、祖父がいる。

今日は機嫌がいいだろうか。

また怒鳴っているだろうか。

そんなことを、子どもなりに感じながら暮らしていた。

今でも覚えていることがある。

あるとき、友達が我が家に泊まりに来たいと言った。

私は嬉しくて、母に何度もお願いした。

「あゆみちゃんが泊まりたいと言っている」

「お願い」

と、だだをこねた。

母は渋々、了承してくれた。

そして、普段の我が家からは考えられないくらい、母がたくさん料理を作ってくれた。

子どもの私にとっては、特別な夜になるはずだった。

ところが。

友達は、

「おじいちゃんが怖いから、やっぱり行くのやめた」

と言った。

……。

子どもだった私は、どう思ったんだろう。

悲しかったと思う。

恥ずかしかったと思う。

母が一生懸命作ってくれた料理を見て、申し訳なかったとも思ったかもしれない。

でも、何より、

「やっぱり、うちのおじいちゃんって怖いんだ」

と、改めて思ったのだと思う。

私にとっての「おじいちゃん、おばあちゃん」は、盆休みに会いに行く優しい人たちではなかった。

同じ家にいて、毎日の生活を一緒にする人たちだった。

そして、その家では、男の人の機嫌が、家族全員の生活を左右していた。

祖父の次は、父だった。

私はまだ知らなかった。

この家で見ていたものを、今度は自分自身が受けることになるなんて。

そして、その影響が、何十年も経った今の私の「介護」にまで続いているなんて。

あの頃の私は、ただ家から逃げたかった。

でも、家族というものからは、そう簡単には逃げられなかった。


第二章 父親という存在

祖父が怖かった。
子どもの私にとって、もっと身近で、もっと長く影響を与えたのは父だった。
父は、祖父のように酒を飲んで毎晩暴れる人ではなかった。
でも、気に入らないことがあると怒鳴る。
物を壊す。
そして、私の行動を決める。
進学先や就職先。
5時まで帰ることを約束させる。
私がどう生きるのか。
今思えば、私の人生は、かなり早い段階から「自分で決める」ということを許されていなかった。
そして、その期待は、長女だった私に集中した。
父親からの歪んだ期待。
「長女なんだから」
「こうしなさい」
「こうあるべきだ」
そんなものを、私はずっと背負っていた。
殴られることはなかった。
ただ、箸で頭を叩かれることは、よくあった。
これがね。
かなり痛い。
今なら笑って話せるけれど、当時はもちろん笑えない。
そして、今になって思う。
たぶん、箸って便利だったんだと思う。
自分の手は痛くならないから。
……いや、そんなことを分析している場合ではない。

でも、子どもというのは不思議なもので、そんな環境でも毎日を生きていく。
学校へ行って、友達と遊んで、宿題をして、ご飯を食べて、寝る。
「うちはちょっと変かもしれない」
と思っていても、それが自分にとっての日常なら、それなりに適応してしまう。
ただ、私はずっと家に縛られていた。
社会人になって、自分で生活費を稼ぐようになっても、門限があった。
大人になったからといって、父親の支配がなくなるわけではなかった。
今でいうなら、
モラハラとか、毒親とか。
そんな言葉が当てはまる家庭だったのだと思う。
当時は、そんな言葉なんて知らなかった。
「親だから仕方ない」
「うちの父親はこういう人」
そう思うしかなかった。
でも、心の中ではずっと思っていた。
この家から出たい。

そして私は、21歳で結婚した。
もちろん、純粋に「この人と人生を歩みたい」という気持ちもあった。
でも、それと同じくらい、
「この家から出られる」
という気持ちがあったことは、今なら認められる。
ところが。
人生って、本当に何が起こるか分からない。
家を出られると思っていた私を待っていたのは、まさかの展開だった。
父が、私の結婚相手になる人に、
「この家に入ってほしい」
と懇願したのだ。
しかも、私がいないところで。
そして、元夫は了承した。
……。
え?
私、家を出るんじゃなかったっけ?
こうして、私は結婚した。
でも、実家から完全に離れることはできなかった。
一時期は、妹も含めて7人家族。
ただ、私が結婚すると妹はほどなくして家を出た。
それでも私は、また家族の中にいた。
「この家から出たい」と思って結婚したのに。
結婚しても、家族の事情に巻き込まれる。
今振り返ると、私は本当に、
祖父と父に振り回されてきた人生だった。
そして、もう一人。
この家で、ずっと黙っている人がいた。
私の母だ。
私は後になって、母にも言いたいことがたくさん出てくる。
でも、それはまた別の話。

第三章 黙っていた母

私の母は、父に逆らわなかった。
父が怒鳴っても。
物を壊しても。
家の中の空気が、父の機嫌ひとつで変わっても。
母は、黙って見ていた。
そして、私の祖母もそうだった。
祖父が酒を飲んで暴れても、借金をしても、家族を振り回しても、祖母は耐えていた。
我が家では、ずっとそうだった。

男の存在が、家の中を牛耳っていた。

私は子どもだったから、それが普通なのだと思っていた。
父親には逆らわない。
怒らせない。
機嫌を損ねない。
そうやって家族が回っていく。
でも、大人になってから、私は少しずつ疑問に思うようになった。
そして、今になって母に言ったことがある。
「私たちがいたから、家を出られなかったって言うけど、それは違うだろ」
母は、ときどき言う。

「あなたたちがいたから、家を出られなかった」
私と妹がいたから。

子どもを抱えて、父から離れることができなかった。
そういう意味なのだと思う。
でも私は、それを聞くたびに腹が立つ。
私たちの責任にするんじゃねぇ!!
……と思う。
だって、私たちは子どもだった。
父と母のどちらと暮らすのか。
家を出るのか。
この家に残るのか。
そんなことを決められる年齢ではなかった。
それなのに、大人になった今、
「あなたたちがいたから」
と言われると、
「じゃあ、私たちがいなかったら、お母さんは家を出ていたの?」
と思ってしまう。
たぶん、違う。
母自身が、怖かったのだと思う。
生活のこと。
お金のこと。
子どもたちのこと。
これからのこと。
いろんなことを考えて、家を出る勇気が持てなかった。
それは、母の人生だ。
母が決めたことだ。
だから私は、こう言った。

「自分が勇気がなかったんだよ。」

「私や妹の責任にして、家を出なかったことを正当化しないでほしい」
と。
妹がどう思っているかは、私は知らない。
でも、少なくとも私は、
どんなに貧乏でも、怯えて暮らすより、母と子どもだけで仲良く暮らしたかった。
豪華な家なんていらなかった。
お金持ちじゃなくてもよかった。
父親の機嫌をうかがわなくてもいい家。
怒鳴り声に怯えなくてもいい家。
物が壊れる音を聞かなくていい家。
ただ、それだけでよかった。
だから、私は今でも母に言ってしまう。
少し強い言葉になる。
でも、言った後は不思議とスッキリする。
たぶん私は、母を責めたいだけじゃない。
あの頃の自分に、
「あなたのせいじゃないよ」
と言ってあげたいのだと思う。
子どもだった私には、家族を変える力なんてなかった。
家を出ることもできなかった。
父に立ち向かうこともできなかった。
ただ、その家で生きていくしかなかった。

そして、そんな家で育った私が、今、98歳の祖母を介護している。
祖母は、私の母と同じように、あの家で黙って耐えていた人だ。
だから私は、祖母に対して単純な「かわいそう」だけでは終われない。
むしろ、ずっと心の中に残っている。

「あのとき、なぜ私たちを守ってくれなかったの?」
という気持ちが。

それは、祖母にも。
母にも。
そして、もしかしたら自分自身にも。
私は、まだ答えを出せていない。

最終章 私は、同じ生き方をしない

祖父は74歳で亡くなった。
その頃、私はもう大人だった。
なんなら、三男がお腹の中にいた。🤣
祖父が寝たきりになったのは、亡くなる2年前。
歩けなくなったからだ。
それまでは、酒を飲み、借金を続け、暴れることもあった。
でも、歩けなくなってからは、それもできなくなった。
デイサービスにも行かなかった。
いや、正確には、行っても問題を起こすから断られた。🤣
ショートステイに行ったこともある。
でも、ナースコールを1分おきに鳴らす。
当然、こちらもお断りされた。👎
結局、祖母が家で面倒を見ることになった。
「おい!!」
返事しないと、「聞こえんのか⁉️おい‼️」
おちおちトイレにも行けない。
「足が痒い」
「背中をさすれ‼️」
「枕、なおせ‼️」
「トイレ」
全て命令形で
ひっきりなしに祖母を呼ぶ。
それを毎日見ていると、さすがに祖母が可哀想だと思った。
あれだけ好き勝手に生きてきた祖父を、最後は祖母が介護していた。
そして、寝たきりになって2年。
祖父は、自宅であっさり亡くなった。
それから24年。
祖父と同じ歳になった祖母は、98歳になった。
そして今度は、私と母が祖母を支えている。
祖母は言う。
「ここまで生きてこられたのも、お父さんのお陰」
「年金があるのも、お父さんのお陰」
……。
ここで私は、声を大にして言いたい。
違うだろ!!!
今あなたが生きていられるのは、
私と母のお陰だろ!!!
もちろん、祖父が家族のために働いた時期があったことは否定しない。
祖父にも祖父の人生があった。
祖母にも祖母の人生があった。
でも、私は私の人生を生きてきた。
その中で、家族に振り回されてきた記憶も、確かにある。
祖父に。
父に。
そして、家族そのものに。
だから私は、祖母に「かわいそうだから」と優しくすることができないときがある。
そんな自分を、以前は少し責めていた。
でも、今は違う。
私は、祖母を憎んでいるだけではない。
祖母にも大変な人生があったことは分かっている。
ただ、
私にも私の人生があった。
そして、その人生の中には、子どもの頃に欲しかったものが、たくさん欠けていた。
優しいおじいちゃん。
優しいおばあちゃん。
安心できる家。
怒鳴り声のない家。
誰かの機嫌を気にしなくていい毎日。
私は、そんなものを知らずに育った。
だから、今さら「家族なんだから、優しくしてあげなさい」と言われても、できないものはできない。
介護をしているからといって、過去まで帳消しになるわけではない。
そして私は、もう決めている。
息子家族とは、絶対に同じ屋根の下に住まない。
息子には息子の人生がある。
私には私の人生がある。
私は、誰かに依存する生き方をしたくない。
私の家の年寄り軍団は、いつも誰かに依存してきた。
祖父は祖母に。
祖母は息子に。
母もまた、家族の中で耐えることで生きてきた。
私は、それを繰り返したくない。
たとえ最後に一人になったとしても。
たとえ、それが孤独死という形になったとしても。
私は、自分で選んだこの家で、自分の人生を終えたい。
息子たちに、
「私のために人生を変えて」
とは言いたくない。
それが私なりの、子どもたちへの愛情だと思っている。
そして、98歳の祖母を介護しながら、私はひとつだけ思う。
私は、別に大げさなことをしてほしいわけじゃない。
何かを買ってほしいわけでもない。
褒めてほしいわけでもない。
ただ、
「ありがとう」
と言ってほしい。
祖母は、何かをしてもらうと、
「すみません」
と言う。
何をしても、
「すみません」
と言う。
でも私は、
「すみません」じゃなくて、
「ありがとう」
が聞きたい。
それだけ。
もしかしたら私は、子どもの頃からずっと、
「あなたがいてくれて、ありがとう」
と言ってもらいたかったのかもしれない。
そして今、私は思う。
私が息子たちに残したいのは、
「親なんだから面倒を見て当然」という人生ではない。
「あなたはあなたの人生を生きていい」
ということ。
私は、家族に依存しない。
自分の人生は、自分で引き受ける。
それが、私がこの家族から学んだこと。
……なんだかんだ、黒歴史だらけの人生だけど。
53歳。
まだ終わってない。
ここからは、
私の人生を、私が生きる。
それでいい。
そして、できれば祖母には最後に一度くらい、
「ありがとう」
と言ってもらえたら嬉しい。
……まあ、98歳。
そこはもう、
期待しすぎないでおこう。🤣

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