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【受験生応援】孤独のリレー

二月。受験生にとって、この月はカレンダーから日付が剥がれ落ちるスピードが異常に速い。

深夜。翔太の自室を支配しているのは、エアコンの低い動作音と、加湿器が吐き出す細い蒸気の音だけだ。手元のデスクライトの光が、参考書の文字を青白く浮き上がらせている。

翔太がその国立大学を志望したのは、高校二年の夏、学校の行事で訪れたオープンキャンパスがきっかけだった。歴史を感じさせる重厚な講堂。その裏手にある、蔦の絡まる古い校舎。廊下ですれ違った学生たちが、何やら難しそうな本を片手に、自分には想像もつかないような議論をしながら笑っていた。

「いつか、自分もああいう風に笑える場所に行きたい」

その、言葉にすれば少し気恥ずかしいくらいの憧れだけが、半年以上も続く監獄のような勉強生活の支えだった。

しかし、現在の翔太はその「憧れ」の正体に怯えていた。 模試の判定は、常に境界線上にあった。受かるかもしれないし、落ちるかもしれない。その「かもしれない」という曖昧さが、夜な夜な彼の神経を薄く削り取る。

彼は、マグカップの中に残った冷めたコーヒーを飲み干し、ペンを置いた。数学の過去問、大問四。複素数平面の問題。一時間前から、彼の思考はこの迷路の入り口で立ち往生している。

現実逃避に近い心地で、彼は机の端に積まれた「赤本」の山に手を伸ばした。数日前、演習量を増やすために古本屋のワゴンセールで拾い上げた、十年前の過去問集だ。今の自分とは全く接点のない、どこかの誰かが使い古した一冊。

ページをめくると、紙質は今のものより少し厚く、独特の古びた匂いがした。めくっていくうちに、翔太の指が止まる。 それは、まさに今自分が解けずに悶絶している、その問題のページだった。

余白に、薄く鉛筆で描かれた図形がある。 それは解答解説に載っている整った図ではない。誰かが、必死に思考を形にしようとして、何度も消しゴムで消し、その上からなぞった跡だ。 円と直線が複雑に交差するその図の隅には、乱暴な筆跡でこう記されていた。

『(3)計算合わない。条件の読み落とし?』

翔太の目が見開かれる。 その短い呟きは、彼がまさに今陥っていた陥穽(かんせい)を言い当てていた。翔太は自分のノートを見返した。確かに、特定の条件を無視したまま立式していたことに気づく。

見知らぬ誰かが、十年前、どこかの街のどこかの部屋で、この同じ問題に頭を抱えていた。その人物は、今の翔太と同じように、憧れと不安の間で揺れ動きながら、この小さな「躓き」にたどり着いたのだ。

翔太は再びペンを握った。
「……そうか。ここが、こうなるなら」

絡まっていた糸が、するりと解ける感覚があった。十年前の誰かが残した、消し忘れのようなその一言が、時を超えて翔太の思考をガイドしていく。

不思議な感覚だった。 受験は、徹底的に孤独な戦いだ。試験場に入れば、隣の受験生は全員が敵に見える。自分一人だけが取り残され、正解という出口を探して暗闇を這っているような、そんな錯覚に陥る。

けれど、この古い紙に残された筆圧は、翔太にそうではないと告げていた。 この暗闇を歩いたのは、自分だけではない。何万人、何十万人という人間が、同じように吐き気がするほどの緊張と戦い、この余白に足掻きを残していったのだ。それは、姿の見えない巨大なリレーのようにも思えた。


それから二週間。
試験当日、翔太は冷たい空気の中、大学の正門をくぐった。

最寄り駅からの道、誰一人として喋る者はいない。聞こえるのは、凍った地面を叩く靴音と、防寒着が擦れる乾いた音。全員が、自分だけの世界に閉じこもっている。 試験会場の教室は、独特の重い静寂に包まれていた。

試験開始のチャイムが鳴り、一斉に問題用紙をめくる音が波のように響く。 数学の大問二。目の前に現れたのは、見たこともない初見の難問だった。予想を遥かに超える計算量。教室内から、数人の受験生が絶望に息を呑む気配が伝わってくる。翔太の心臓も、早鐘を打った。

(落ち着け)

彼は一度ペンを置き、深く息を吐いた。 この問題は誰も見たことがない。けれど、この「解けない」という絶望感自体は、数えきれないほどの受験生が味わってきたものだ。

(完璧に解こうとするな。もがくのは自分だけじゃない)

周囲のカリカリという筆記音が、自分を追い立てるノイズではなく、共に戦う者たちの鼓動のように聞こえてきた。 彼は再びペンを握った。一歩ずつ、自分が今できる立式を積み上げていく。初見の壁に穴を開けるように、泥臭くペンを動かし続けた。

昼休み。 翔太は、校舎の裏にある古いベンチに座り、冷え切ったおにぎりを口に運んでいた。 憧れていた校舎が目の前にある。 受かるかどうかは、まだ分からない。解答に自信がない箇所もいくつかある。

けれど、試験を半分終えた今、彼の心には不思議な静けさが宿っていた。 かつてこの場所で、同じようにおにぎりを食べ、空を見上げ、不安に押しつぶされそうになりながら午後を待っていた人間が、数えきれないほどいたはずだ。

その中には、合格して笑った者もいれば、番号がなく、静かに去っていった者もいるだろう。 けれど、そのどちらもが、この二月に、全力を尽くして足掻いたという一点において、等しく「戦友」なのだと思えた。

午後の英語の試験。 翔太は、最後の一分までペンを止めなかった。 「やめなさい」という監督官の声が響いた瞬間、彼は全身の力が抜けるのを感じた。

校門を出る時、翔太は一度だけ振り返った。 夕闇に包まれ始めた校舎が、街灯に照らされて、あの日夢見た通りに美しく浮かび上がっている。

「……おつかれ。」

誰に向けてか分からない言葉が、小さく漏れた。 それは、この苦しい二月を耐え抜いた自分自身と、そしてかつてこの道を歩いたすべての「戦友」たちへの労いだった。

翔太は駅へ向かって歩き出した。 結果が出るのは、十日後。 けれど、彼の中では、一つの季節が確実に終わろうとしていた。

二月の風はまだ冷たいが、その中には微かに、春を待つ土の匂いと、確かな希望が混じっていた。


今回は「受験」をテーマに物語を綴りました。

私自身、数年前に大学受験を経験しています。
当時は思い出すのも苦しいほど、行き場のない思いを抱えた時期もありました。(長くなるので詳細は伏せますが。。。)

よく「受験は団体戦」と言われます。けれど、試験日が近づくにつれて増していく、あの精神的に追い詰められるような感覚……あれだけは、やはり本人たちにしか分からない孤独な戦いだと思います。

まだまだ若い受験生にとって、「この結果で人生のすべてが決まってしまう」という重圧は、計り知れないほど大きいでしょう。大人になれば「決してそんなことはない」と分かっていても、あの頃の私は、本気で絶望と隣り合わせで生きていました。

もし、かつての自分や今の受験生たちが、翔太のように自分の孤独を少しでも客観視することができ、この苦しみは自分一人だけのものではないと気付けたら、心はいくらか軽くなるのではないでしょうか。

この物語が、本番を控えた受験生の皆さんに届き、少しでも肩の力を抜いて「今の自分の精一杯」を出し切る助けになることを願っています。

すべての受験生に、幸あれ。

それでは、また。

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