あなたにとって不快な他者ですみません

わたしは引きこもりのクズで、人の気持ちなどを考えるのが非常に苦手だったのですが、最近思うのは「近づいてはいけない人」がいるのだなということです。自分に自分の領分があるように、他人にも他人の領分がある。不躾に相手に踏み込んではいけない、という基本的なことが22にもなって初めて理解できてきました。
といっても、何か外に出て人と会話して学んだわけではなく、ブルースカイやツイッターなどの投稿を読んで、そこにいる人々のバックグラウンドを想像したり、自分という人間が取るべき立場を考えているうちに、自分とその人々の人生が交わることは一生ないのだと思ったのです。

わたしは最近よく自分の「身の丈」について考えます。どんな社会階層の家に生まれ、どんな教育を受けて、どんな資本を投下され、どんな行動を取ってきたのか。その結果、自分がどんな人間になったのかを考えています。
わたしは中高生の頃から全く他人と接してこなかったので、それが感覚的に理解できていませんでした。自分がどんな人間か知らないまま大人になりました。どんなタイプの他人と関係を築くべきか、どんなコミュニケーションが好きなのか、何が得意で何が苦手なのか。わたしは何も知りません。そういう人間がわたしなのだと最近ようやく理解しました。

これまでの人生で、わたしがやってきたことは誰ともコミュニケーションを取らず、ROM専のネットを通じて趣味を見つけるということです。今思うにわたしは音楽や漫画についてクラスで三番目に詳しいくらいの人間でした。しかし、ライブを聴きに行ったり、人と感想を話したりするわけでもなかったので、とても頭でっかちで、むやみに知識として鼻にかけているようなタイプの人間でした。
そういうミーハーを見ると不快に思う人がいる、ということを最近ようやく理解しました。自分が関わって友達になりたいと思うような、音楽好きや絵を描くのが得意な人々にとって、わたしは不快な他者だったのでした。
こんな文章を書いているのは、その断絶に対する嫉妬が原因です。それくらい、自分にとってクリティカルで大きな苦しみでした。

すこし前に「絵師は絵師としか仲良くしない」的な、絵師の選民思想を糾弾するかのような内容のツイートが話題になっていましたが、あれを書いたのは、わたしと同種の人間のような気がします。あの人も空っぽなのだと思います。なんらかの趣味嗜好を持つということは、スマホを眺めているだけでは足りないのです。世界の現実は、もっと人間的で事実に即したものなのだと学んでいかなくてはいけません。とはいえ、あの人の気持ちが僕には良くわかるような気がします。
わたしのような人間が他者に危害を加えないままで気分良くいられる居場所は少ないです。どこかに見つけることはできると思いますが、とても難しいことだと感じます。

結局、なにが言いたいかというと、引きこもりやコミュ障を名乗る人たちの中にもいろいろあるということです。現実に居場所がなかったとしても、ネットを介して他人とコミュニケーションをとり、居場所を作っている人は偉大だと思います。
わたしのような人間の孤独は常に不可視化されている、と感じます。
誰も声を上げないので、誰も気付かないのです。そういう人が声を上げたとしても「不快な他者」としてしか処理されないことが多いのだと思いますし、それは恐らく当然の帰結です。

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