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【中編ホラー小説】その音還る


あらすじ:

 古びたマンションで一人暮らしをしながら、深夜まで翻訳の仕事を続ける「僕」は、隣室から毎晩聞こえてくる奇妙な呻き声と、どこからともなく混じる機械的な音に悩まされていた。寝不足のせいだと思い込もうとするものの、電話のノイズ、換気扇の奥の気配、鏡に映るわずかな違和感、そして踏切の音に似た不穏な響きが、少しずつ日常を侵食していく。やがて彼は、夢とも現実ともつかない光景の中で、忘れていたはずの誰かの面影に触れ始める。都会の孤独と未練が、静かな恐怖へと変わっていく、幻想ホラー。

本文:

 草木も眠る丑三つ時、と昔の人は言ったらしい。
 現代では、そんな時刻でも、窓の外には、赤や青の小さな光が絶えない。遠くの幹線道路を走るトラックのランプ、点滅する航空障害灯、向かいのマンションの廊下灯、眠れない誰かの部屋のテレビの反射――夜はもう真っ黒ではなく、淡い電気の皮膜に包まれている。
 その膜の内側で、僕は一人、大手メーカー製の古いデスクトップパソコンに向かっていた。
 ワンルームの部屋は、狭い。狭いくせに、夜になると妙に奥行きを感じられる。昼間には、ただの白い壁でしかない面が、夜には少し遠くへ退いたと思ったら、少しこちらへ迫ってきて、物の輪郭を曖昧にする。本棚の角は、ひどく鋭く見えるのに、隅の暗がりはまるで湿った綿の塊のように、柔らかく見えた。いや、もうすぐ掃除しないと……。
 そんなことを思いつつ、キーボードを叩く音だけが、乾いた小雨のように続いた。
「へいへい、二章まで仕上がりました。残りは明日送ります、と」
 僕は、独り言を言いながら、クライアントへのメールの文面を確認した。
 送信ボタンを押し、椅子の背にもたれて、首をゆっくり回した。骨が小さく鳴った。肩は、石みたいに重かった。
 個人事業主の翻訳業と言えば聞こえはいいが、実際には、毎日パソコンの前に座り、三食のうち二食はコンビニかレトルトで済ませ、人と話す相手もほとんどいない生活だ。
 僕は、元来、陽気な方ではないけれど、それでも一週間のうち、何日も誰とも会話しないでいると、舌がひどく鈍くなったような気がする。
 そうなると、無理矢理にでも舌を動かすべく本能が働くのか、言葉が、勝手に独り言として漏れていく。
「いやはや、文化的な生活だねえ」
 誰もいない部屋で、そう言って、少し笑った。
 じっと壁を見る。
 僕が住んでいるのは、築年数の古い賃貸マンションの一室だ。入居のとき、リフォームしない代わりに敷金を安くしてもらったので、壁紙には前の住人の痕跡がところどころ残っている――煙草の黄ばみ、何かをぶつけたような窪み、薄い染みが確認できる。白いはずの壁には、複数の時間が重なっていた。
 小さな染みが、遠目には花弁のように見える。あるいは、指先の跡のようにも見える。見つめていると、染みは一つずつ浮かび上がり、互いに関係を持ち始める。鼻筋や眉の線のようなものが見えてきて、顔になりそうでならない。その顔になりそこないのオブジェクトが、まるで泡のようにお互いを押しのけて、壁紙の中から浮かんでくる。
 僕は、頭を振って視線を外した。
 そのときだった。
 壁の向こうから、また、あの音が聞こえてきた。
 低く、息を詰めるような、押し殺しているのに漏れてしまう声だった。
 そこへ、軋むような規則的な音が重なった。
 はじめて聞いたとき、僕は、それを単純に、隣人のアレの声だと思った。古いマンションだし、防音が悪いのだろう。若い女が住んでいるらしいことは大家から聞いていた。夜遅く帰ってきて、しばらくすると壁の向こうで呻く。最初の数日は、まあ、そういうこともあるだろう、と受け流していた。
 しかし、それが何日も、何日も続くと、さすがに神経に障ってくる。
 さらに、妙なのは、その声が、だんだん人間の声に聞こえなくなってきたことだった。
 ときどき、そこに金属を爪で叩くような細かなタップ音が混じった。あるいは、遠い踏切の警報機のような、規則的で乾いた響きが紛れ込んだ。
 やがて、声と機械音が交じり合い、区別がつかなくなる。僕は、それでも、自分の苛立ちを正当化するために、隣人がお盛んなのだという解釈にしがみ付いていた。
「まただよ。ここんとこ毎晩だぜ。お盛んすぎるっての!」
 ベッドの上に上がって、硬い枕を壁に投げつける。ぼすっ、と鈍い音がした。しかし効果はなく、むしろ向こうの音は少し強くなったように感じられた。
 僕は、ベッドに倒れ込み、耳を塞いだ。
 ここのところ寝不足がひどい。昼間、画面の英字が急に二重に見えたり、コンビニでつり銭を受け取るときに自分の指先の位置が曖昧になったりすることがあった。
 睡眠不足は人間を駄目にする。昔から、そういうことはよく知っている。だから僕は、これはすべて寝不足のせいなのだと思うようにしていた。
 毛布を頭から被った。
 布団の内側の暗がりは、少し湿った匂いがした。洗濯はしているが、夜の布団には、人ひとりの体温と孤独が染みついている。
「ちくしょー、見せつけやがって。いや、聞かせつけか……」
 口の中で呟いた。
 そのうち、音の輪郭がぼやけてくる。向こうの呻き声と、僕の呼吸と、パソコンの冷却ファンの音が溶け合って、ひとつの長い波みたいになる。
 そこに、どこか遠くで、カン、カン、と踏切の音が混ざった。
 僕は、夢を見た。

*	*	*

 気がつくと、僕はどこか異国の町を歩いていた。
 異国、と言っても、観光パンフレットに載っているような鮮やかな異国では、なかった。
 和風と中国風が曖昧に混じり、どちらにも属しきらない町だ。屋根の端は少し反り、提灯のような灯が低く垂れ、石畳は濡れているように光っていた。湿った夜気の中で、女たちが長い棒をくるくる回しながら進んでいた。消防の登りのようでもあり、祭礼のぼんぼりのようでもあった。その先端には、小さな明かりがついていた。
 どん、どん、どろどろ、と太鼓にも似た低い音が鳴る。
 だが、その音は、どこかで聞いた踏切の警報機ともよく似ていた。一定の間隔で打たれる響きが、祝祭と警告の境を曖昧にする。
 町の道には、行列ができていた。
 皆、同じ方向へ歩いている。
 急いでいるわけではなく、ただ静かに、前へ、前へと進んでいた。白い顔もあれば、黒く沈んだ顔もある。若者も老人もいるはずなのに、誰の表情もはっきりしなかった。彼らは、話さない。足音も、ほとんどしなかった。ただ、乾いた空気の中で、衣擦れのような音だけが聞こえた。
 僕は、なぜだか、その列に入ってはいけない、と思った。
 強く、身体の奥からそう思った。もし一歩でも、あの流れに交じってしまえば、もう戻れない――そんな確信があった。
 列の彼方に、『女』が見えた。
 彼女は、何か言っているようだった。いや、叫んでいるのかもしれない。しかし、音は届かない。無声映画のように、口だけが動いていた。笑っているようにも、怒っているようにも見えた。悲鳴にも微笑にも見えるその顔が、正面から、左から、右から、フラッシュのように切り替わった。
 ひどく、懐かしい気がした。
 それなのに、名前が出てこない。
 僕は、『女』に近づこうとしたが、足元の石畳が水面みたいにたわんで、一歩も進めなかった。
 そのとき、鐘の音のようなものが鳴った。
 いや、違う。
 それは、踏切だ。
 町のどこにも線路など見えないのに、カン、カン、カン、と乾いた音が祭り囃子に重なっていた。
 女の顔が白く飛び、視界がフェードアウトした。

*	*	*

 瞼を開けると、パソコンの画面が見えた。
 あれ、ベッドで寝ていたはずなのに、と最初に思った。
 ディスプレイには英語の文章が並び、スクロールしていた。
 僕は、その光景を、なぜか自分の背後から見ていた。椅子に座っている『僕』の背中を、少し離れたところから眺めているのだ。
 奇妙だ、と思った瞬間、視界がずれ、僕は、また自分の視線位置に戻っていた。
 どうも、睡眠不足が極まって、瞬間的に寝てしまったのだろうか、と思った。
 キーボードを叩いているのは、確かに、僕の手だった。
「うーん、この単語の意味は何だっけな。まあ、文脈でいけるか。サジェストは、出るかな、と」
 僕は、呟いた。
 夢の記憶は、水に落としたインクみたいに、すぐ薄くなっていく。
 そう夢だった、という輪郭だけが残り、中身は流れ去った。人はそういうものなのだ。僕は、そう自分に言い聞かせ、翻訳作業に戻った。
 しかし、しばらくすると、また隣室の音が聞こえてきた。
 今度は、呻き声の奥に、明確なタップ音がある。カチ、カチ、カチ、という乾いた音だ。本当にモールス信号みたいだ、と僕は思った。意味を持っていそうなのに、解けない。
「無視だ、無視なんだよ」
 わざと、声に出した。
 集中しようと英日対訳の画面を睨む。原文は、事故死した男の話だった。たしかそんな小説だ。あるいは、悲劇的な事件の後に残された女の話だったかもしれない。細部は、頭に入っているはずなのに、いまいち掴みきれない。
 効果音のような隣室の音は、どんどん大きくなる。
 僕は、叫びそうになりながら、エンターキーを強く叩いた。
 次の瞬間、画面が固まった。
「ん? あれ?」
 マウスを動かしても反応がない。キーボードも効かない。背景がぶるりと震え、青い画面に意味不明の白文字が並んだかと思うと、画面はぷつんと消えた。
「ふざけんなよ……」
 喉の奥から、怒りとも悲鳴ともつかない声が漏れる。
 一日の仕事が飛んだのかもしれない。その喪失感は、ただのデータ消失以上に大きかった。自分の今日という日が、まるごと崩れ落ちたような感覚があった。
 それでも壁の向こうでは、音が続いている。
 僕は、立ち上がり、部屋の隅の電話へ向かった。
 隣人の電話番号は、以前、こっそり大家の部屋に忍び込んだときに見てしまった。
 今、思えば、かなり最低な行為だ。しかし、寝不足と苛立ちは人を妙な方向へ追い詰める。
 僕は、メモ帳の切れ端に書き取っておいた番号を見ながら、受話器を持ち上げた。
 プッシュ音が、やけに冷たく響いた。
 自分の指先の毛細血管が浮いて見える。関節の皺までやけにはっきりしている。こんな風に自分の手をまじまじ見ることなんて、普段はない。妙なことに気づきながらも、僕は番号を押し終えた。
 トゥルルルル。
 コール音。
 それから、受話器が取られる気配。
「あ、もしもし。おたく、ちょっと五月蠅いんですけど」
 返ってきたのは、ざあっ、というノイズだった。
 海鳴りみたいな音に混じって、カチ、カチ、とあのモールスのようなタップが聞こえた。
「もしもし? つながってるんですか?」
 返事は、なかった。
 ノイズだけが続いた。
 その奥に、微かに女のすすり泣きのようなものが混ざった気がした。
「あの、隣の者なんですが――」
 その瞬間、受話器の向こうで、声がした。
 女でも男でもなく、年老いた誰かの、乾いた声だった。
「お前は、大事な音を忘れている」
 ぞっとして、僕は受話器を取り落とした。床に落ちた受話器が、ぐらりと揺れる。コードが蛇みたいに見えた。
 心臓が暴れている、ような気がした。
 胸を押さえる。鼓動があるかどうか確かめたくて押さえたのに、なぜだかよく分からない。速いような、遠いような、そんな感じしかしない……。
 恐る恐る受話器を拾い上げると、今度はツー、ツー、という切断音だけが響いていた。
「何なんだよ……番号、間違えたのか?」
 僕は、受話器を戻した。
 背伸びをした拍子に、部屋の隅のスタンドミラーが目に入る。
 鏡の中の僕は、少し笑っているようで、少し泣きそうでもある変な顔をしていた。
「いかん、魂が離れそうだ」
 そんな意味不明のことを口走って、僕は自分で苦笑する。
 だが、鏡の中の僕は、僕が笑うより一瞬遅れて口元を歪めたように見えた。
 僕は、瞬きをした。
 次に見たときには、鏡はただの鏡だった。
 気づくと、隣室の『効果音』は、止んでいた。
 部屋にはパソコンが落ちたあとの静けさが満ちている。その静けさの底で、かすかに、踏切の音だけが続いている気がした。
「寝るか……」
 そう呟いてベッドへ倒れ込む。
 ふと思い出して、デスクの引き出しから耳栓を取り出した。ソフトタイプの安物で、ドラッグストアで買ったものだ。
 耳にねじ込んで横になる。
 すると、外界の音が弱まるかわりに、頭の中の音が強くなった。
 血液の流れのようなざあっという音がした。その奥に、カチ、カチ、というタップが聞こえた。耳栓をしたのに、むしろ音は近づいてくる。
「なんか、余計うるさく聞こえるな……」
 呟いて、毛布を引き上げる。
 意識が、また薄れていく。

*	*	*

 深夜のコンビニの前に、僕は立っていた。
 店の中は白く明るく、人工的な幸福に満ちていた。
 弁当のパック、飲料の列、立ち読みの雑誌、レジ脇の揚げ物――どれも現実より少しだけ色が濃く、少しだけ奥行きがないように見えた。
「これは、夢なんだ」
 僕は、そう呟いた。
 夢だと分かっている夢の中では、人は妙に饒舌になる。僕も、そうだった。
「なんて明るいんだ。都会生活者のオアシスだな!」
 すると背後で、カン、カン、カン、と踏切が鳴りだした。
 振り返る。
 夜道の向こうから、三次元グラフィックで作ったみたいな踏切が迫ってくる。輪郭が不自然に滑らかで、現実感が足りない。だが警報音だけは、ひどく生々しい。
 そして、その音に混じって、誰かの声になり損ねたような『効果音』が流れた。
 はっ、はっ、あっ、じょ……、というふうに、喉が千切れた録音みたいな断片だ。
 僕は、後ずさった。
 コンビニのガラスに映る自分の姿が、なぜかひどく薄かった。

*	*	*

 目が覚めた。
 電灯は消えていて、部屋は真っ暗だった。
 手探りでライトを点け、窓辺まで歩いてカーテンを開ける。外も暗い。雨は降っていないようだが、風が強いらしく、どこかで何かが揺れている音がする。
 そのとき、台所の方からガタガタという大きな音が聞こえた。
「なんだ……?」
 景気づけみたいに声を出す。
 しかし次の瞬間、明らかに何か大きなものが動いた音がして、僕は黙った。
 泥棒、という言葉が頭に浮かぶ。
 クローゼットの奥から、昔買った木製バットを取り出した。たいした武器になるとは思えないが、何も持たないよりはましだ。
 足音を忍ばせて台所へ向かう。ワンルームだから距離はない。引き戸を開けると、そこは狭い流しと換気扇のある台所だった。
 電気を点けた。
 換気扇のカバーが外れかけて、ぶらぶら揺れていた。
 風のせいだろう、と思った。いや、そう思いたかった。
 近づくと、換気扇の奥から、ひゅう、ひゅう、という風の音がした。その奥に、カチ、カチ、カチ、と、またあのタップが混じる。
 耳を澄ました瞬間、奥に、人の顔が見えた。
 暗がりに浮かぶ顔が見えた。
 濡れているのか、涙を流しているのか、判然としない。だが確かに、こちらを見て泣いていた。
 僕は、凍りついた。
 次の瞬間、その暗がりから手が伸びてきた。
 細くて白い手だった。指先だけが異様に長く見えた。その手が、換気扇の枠を掴み、何かが内側から這い出てこようとする。
 僕は、叫びもせず、反射的にカバーを思いきり押し込んでいた。
 ばん、と大きな音がした。内側から叩くような衝撃があった。プラスチックが震える。
「なんだよ、なんなんだ……」
 膝が抜けて、その場に座り込む。
 ひどく汗をかいた気がするのに、肌は妙に冷たかった。
 風呂場へ行こう、と思った。
 冷たい水を浴びれば落ち着くかもしれない。そう考えたところで、視界が一瞬だけ途切れた。

*	*	*

 次の瞬間、僕は、全裸で風呂場に立っていた。
 どうやって服を脱いだのか、記憶がない。
 シャワーが出しっぱなしで、水が足元に流れていた。排水口へ向かう水の色が、暗い赤に見える。白いタイルの上をゆっくり流れるそれは、赤ワインを薄めたようでもあり、生肉の血をたくさんの水で洗い流した後の色にも見えた。
 頭の奥で、爆発音みたいなものが鳴った。
 自分が大きな力で引き裂かれ、散り散りに飛び散る映像が、唐突に浮かんだ。
 肉や骨というより、音そのものが砕ける感じだ――僕という輪郭が砕けて、空間に散った。
 気持ちが悪い。
 吐きそうになって壁に手をつく。
 タイルは濡れているはずなのに、妙にざらざらしていた。

*	*	*

 起き上がると、また部屋にいた。
 パソコンの電源が入っている。消したはずなのに。
 引き出しの中の耳栓が、コマ送りみたいに、ぴくぴく動いて見えた。もちろん、そんなはずはない。
 眠りが浅いのだ。夢をまだ引きずっているだけだ。
 ひょっとして、飲んでいる睡眠薬のせいだろうか? 市販薬を目一杯飲んでいるが、もう効かなくなってきたのかもしれない。病院に行くべきだろうか――。
 台所の方から、また音がした。
 その瞬間、僕は部屋を飛び出していた。
 ドアを開け、廊下に出る。階段を駆け下りる。なぜだか、足音がしなかった。息もあまり上がらない。ただ周囲の景色だけが、妙に速く流れていく。
 気づくと、コンビニの前に立っていた。
 そして、カン、カン、と踏切の音がした。
 そうだ、このコンビニは、踏切のすぐ近くに建っている。
 コンビニの店員の顔は毎回少し違っているようなのに、レジの前の広告ポスターだけは何日経っても変わらない。

*	*	*

 また目が覚める。
 今度こそ本当に目が覚めたのだ、と僕は思った。
 ベッドから起き上がり、灯りを点ける。パジャマが寝汗で、ぐっしょり湿っていた。
 いや、濡れているのは布地ではなく、肌の内側なのかもしれない。そんな変な感じがした。
 とにかく、もう寝直す気にはなれなかった。じっと眺めると、部屋の暗がりは、眠る人間をどこか別の場所へ連れて行く穴みたいに見えた。
 パソコンを起動した。仕事をしていれば、現実に繋がっていられる気がした。
 そのとき、部屋の隅に、半透明の女の影が見えた。
 思わず振り返った。
 白っぽいワンピースのようなものを着た、若い女の子だった。髪が肩の辺りで揺れている。こちらを見ているのに、目鼻立ちは、はっきりしない。
「……誰?」
 口に出したが、相手は答えなかった。
 瞬きをしたら、その姿は消えた。
「寝不足、寝不足だ……」
 自分に言い聞かせる。
 パソコンは黒い画面のまま起動しなかった。
 電源ボタンを長押しして落とし、もう一度入れる。すると黒一色の画面に、赤い文字が大きく浮かんだ。
『その音を忘れるな』
 パソコンの字体ではなかった。
 毛筆で書いた血文字みたいな、不格好で生々しい字だ。
「うわっ!」
 僕は反射的にリセットボタンを押した。
 ピポッ、という電子音が鳴り、今度は普通にBIOS画面が出た。
 やはり、見間違いだったのだろう。
 寝不足の脳が、妙な幻視を見せたに違いない。
 ところが、OSのロゴが出る手前で、画面がまた止まった。
 カーソルだけが、ちかちか点滅している。その点滅が、踏切の赤ランプみたいに見えた。
「な、なんなんだよ……」
 もう一度リセットしようか迷っているうちに、ようやく起動した。
 僕は、ワープロを開き、翻訳ソフトを起動した。
 仕事だ、仕事だ。人間は、仕事をしている限り、そこに存在している気がする。そういうふうに自分を繋ぎ止めた。
 しばらく作業していたが、ふと、辞書ソフトのアイコンが見当たらないことに気づいた。
「あれ、どこだっけな」
 画面の前から立ち上がる。
 その瞬間、僕は、なぜか部屋の外にいた。
 廊下ではない。あの夢の町の端、石畳の上に立っていた。光の列が、前へ、前へと流れていた。
 心臓が止まりそうになる。
 いや、心臓などもともと――と考えかけて、思考が途切れた。
 次に見たとき、視界いっぱいにパソコンの画面があった。デスクトップはちゃんと表示されている。僕は椅子の前に立っていた。
「……また、寝てたのか?」
 独り言が、掠れた。
 自分の行動が、ところどころ抜け落ちる。疲れているときには、そういうこともある。そう思うしかなかった。
 いや、何か精神か脳の方に異常があるのだろうと思った。
 この仕事が終わったら、病院に行かねば、とも思った。

*	*	*

 それから何日か、あるいは何時間か、時間の感覚が曖昧なまま過ぎた。
 僕は仕事をし、眠り、起き、また仕事をした。その合間に、ずっと、音があった。
 壁の向こうの呻き声――換気扇の奥のタップ音――電話線のノイズ。
 そして、スクリーンセーバーに踏切の警報が紛れ込んだ。
 鏡の中で一瞬遅れて動く自分。
 そして、ときどき部屋の隅に立つ半透明の女。
 女は何も言わない。ただこちらを見ている。
 その視線は責めてもいなければ慰めてもいない。
 こちらが気づくのを、辛抱強く待っているような目だった。
 パソコンの時計は進んだり戻ったりし、ときどき午前三時十四分で止まった。
 冷蔵庫の中の卵はいつまでも割れず、牛乳パックは口が開いているのに減らない。
 水道の蛇口から流れる水は、手ですくうと冷たさだけがあり、濡れたという感覚が残らなかった。
 それら一つ一つは、うっかり見逃してしまえる程度の狂いだった。
 だが、積み重なると、世界そのものが薄い膜の裏側へ回り込んでしまったように感じられる。

*	*	*

 ある夜、ふいに彼女のことを思い出した。
 彼女、と自然に頭に浮かんだのに、名前がすぐには出てこなかった。
 駅前で待ち合わせをした夕暮れの記憶がある。夏の終わりだったか、秋のはじめだったか。コンビニの袋をぶら下げた彼女が、踏切の向こうからこちらへ歩いてくる。
 髪を耳にかける癖があった。笑うと少しだけ左の口元が先に上がる。
「また、夜更かししたでしょう」
 彼女がそう言う。
「仕事だもん」
 僕が、応えた。
「仕事仕事って、あなた、それで死んじゃうよ!」
 彼女が、冗談めかして言う。
 僕は、笑って受け流す。
 そのとき、踏切が鳴った。
 彼女は小さく肩を揺らし、耳を塞ぎはしなかったけれど、少しだけ顔をしかめた。あの音、苦手なんだよね、と言った気がする。
 その先が思い出せない。
 記憶はそこで途切れた。
 僕は、デスクに座ったまま、しばらくキーボードの上に手を置いて動けなかった。
「別れた、んだっけ……?」
 口に出してみる。
 だが、その言葉は、ひどく空虚だった。別れた恋人を思い出している人間の声音ではなかった。
 もっと違う、根本的な欠落の前で呟く声だった。

*	*	*

 その日の夕方、僕は鏡を長く見た。
 スタンドミラーをベッドの近くへ引き寄せ、正面に座る。顔色は悪い。頬は少しこけているように見える。目の下に隈がある。仕事と寝不足でやつれた顔だ、と最初は思った。
 だが見ているうちに、顔の印象が微妙に変わっていく。
 生きた人間の顔ではなくなるのだ。
 目が少しだけ深く窪み、皮膚が紙みたいに薄く見え、唇の色が失われる。髪も、いつの間にか濡れたように額に張りついている。
 僕は、眉をしかめた。
 鏡の中の僕は、少し遅れて眉をしかめた。
 右手を上げる。
 鏡の中の僕は、半拍遅れて右手を上げた。
 心臓が縮んだ。
 僕は、立ち上がろうとしたが、鏡の中の僕はまだ座っていた。ほんの一瞬だけ、椅子に座ったまま、こちらをじっと見ている。
 目が合った。
 それは、僕の顔をしていたが、表情は僕のものではなかった。
 ひどく疲れ切って、諦め切って、それでもまだ何かを待っている顔だった。
「……お前は誰だ」
 思わず口に出る。
 すると、鏡の中の僕も、同じ口の動きをした。だが声音だけは、少し遅れて、別のところから聞こえた。
「お前が誰なんだ」
 自分の声なのに、自分ではない声だった。
 僕は、鏡を倒した。大きな音を立てて鏡が床に横たわる。割れはしなかったが、映る天井の形がひどく歪んだ。

 その夜、部屋の隅に立つ彼女の影は、いつもより近くにいた。
 まるで大丈夫だと言いたいように、しかし僕には触れられない距離で、ただ立っていた。
 僕は、彼女の名前を思い出そうとした。
 付き合っていた期間のこと、喧嘩したこと、どこへ行ったか、何を食べたか、何を約束したか。具体的な記憶は、なぜかところどころ穴が開いている。けれど感情だけは残っていた。
 冬の帰り道、彼女がポケットの中で僕の手を探してきたこと。
 雨の日、彼女が僕の部屋のタオルの柔軟剤の匂いを好きだと言ったこと。
 彼女は、僕が作るインスタントラーメンを馬鹿にしながら結局半分食べてしまう人だった。
 文章を書く前にコーヒーを入れすぎる癖を、何度も注意してきた。
 踏切の音が鳴ると、一瞬だけ会話を止めて、音が過ぎるのを待つ人だった。
 そういう小さな断片はたくさんある。
 なのに名前だけが出てこない。
 名前は、人を呼び戻すための最も強い音なのかもしれない。だから僕は、そこだけ思い出せないのだ、と妙に納得してしまった。

*	*	*

 次の日、あるいはその次の夜、僕は昼間に外へ出ようとした。
 コンビニでコーヒーを買おうと思ったのだ。
 冷蔵庫の中身がどうも減らない。いや、減っているのかもしれないが、自分で使った覚えがあまりない。
 ペットボトルの水が一本だけやけに冷たく、ラベルの賞味期限の数字が滲んで読めなかった。気持ちが悪くなって、外の空気を吸いたくなった。
 玄関を出て、階段を下りる。
 ある昼、僕は郵便受けの前で、大家と鉢合わせした。
 鉢合わせした、と思ったのは僕だけで、大家は、僕の前を普通に通り過ぎた。灰色のカーディガンを着た、背の低い老婆だった。入居のとき、敷金の話をしたあの人に違いない。
「こんにちは」
 僕は、はっきり声をかけた。
 大家は立ち止まらない。
「大家さん」
 もう一度言う。
 彼女は、郵便受けを一つ開け、何か紙を抜き取り、それから僕の部屋の番号の前で少しだけ手を止めた。
 僕は息を呑んだ。
 そこには、白い細長い紙が貼られていた。まるで誰かが小さな札を斜めに留めたように。
 大家はその札を外し、無言で折り畳んでポケットへ入れた。
「ちょっと」
 僕は、手を伸ばした。
 しかし、指先は、彼女の肩に触れる寸前で、冷たい空気を掴んだだけだった。
 大家は振り返りもせず、ゆっくりと管理人室の方へ去っていった。
 僕は、呆然とその場に立ち尽くした。
 郵便受けの列はどれも古びているのに、僕の部屋の番号だけ、妙に新しく見えた。新しいというより、最近貼り替えられた跡があるようだった。表札が剥がされて、もう一度つけ直されたような、不自然な白さがそこだけ残っている。
 僕は、ポストの蓋を開けた。
 中には何もない。
 暗いだけだ。
 だがその暗がりの奥で、かすかに、カン、カン、という音が反響している気がした。

*	*	*

 またある晩、僕は机の引き出しの奥から、古い携帯電話を見つけた。
 いま使っている記憶のあるスマートフォンではなく、それより前に使っていた折り畳み式のものだった。
 なぜ、そんなものが入っているのか不思議だったが、電源ボタンを長押しすると、意外にも画面が点いた。
 日付表示はひどく曖昧で、数字が二重三重に重なっていた。
 受信フォルダにはいくつかメッセージが残っていた。差出人名は文字化けしているのに、文面の一部だけが読める。
『今どこ?』
『踏切、鳴ってるから』
『無理しないで』
『電話、切って』
『返事して』
 僕は、息を止めた。
 指が震えるような気がした。
 最後の一通だけ、差出人名が見えた気がする。三文字か四文字の短い名前で、柔らかいひらがなが並んでいた。読み取ろうとした瞬間、画面が砂嵐のようになって消えた。
 そのざあっ、というノイズの奥で、彼女の声が聞こえた。
「だから言ったのに」
 責める声ではなかった。
 悲しくて、弱くて、どうしようもなく置き去りにされた人の声だった。

*	*	*

 コンビニの前まで行く。
 自動ドアが開かなかった。
 僕は、立ち位置をずらした。少し前へ出る。しかし、ドアは閉じたままだった。
「故障かよ」
 独り言を言う。
 中では、店員がレジを打っているし、客も出入りしている。
 なのに、僕の前だけ、ドアが開かない。
 仕方なく手で押そうとして、ガラスに自分の姿が映っていないことに気づいた。
 いや、映っている。映っているような気もする。ただ、街路樹や電柱や店内の光に比べて、僕の輪郭だけが、ひどく薄かった。
 そのとき、背後でカン、カン、と踏切が鳴った。
 振り向くと、道の向こうで列車が通るわけでもないのに、遮断機が下りているように見えた。
 次の瞬間には何もなかった。
 僕は、額に手を当てた。
 熱があるのかもしれない。睡眠不足で自律神経でもおかしくなっているのだろう。そう考えて部屋へ戻ろうとしたが、玄関の鍵をどうやって開けたのか、あとでまったく思い出せなかった。
 その夜、ポストに一枚の紙が挟まっているのを見つけた。
 花屋のレシートみたいな細長い紙で、薄く濡れていた。弔花、白菊、供花用、そんな文字が見えた気がする。
 僕は、首を傾げた。
 隣人のものだろうか。そう思って捨てようとしたが、指先で触れた途端、その紙はふっと軽くなって、白い蛾みたいにどこかへ飛んだ。
 探しても見つからなかった。
 壁の向こうの音は、ますますはっきり聞こえるようになった。
 だが、その性質は最初に僕が思っていたものとは全然違ってきていた。
 若い女が男と何かしている声、ではない。
 誰かが泣いているのだ。
 いや、泣くのを必死で堪えている。ときどき荒い息遣いが混じるのは、嗚咽を抑えようとしているからだ。
 そこに、何かの再生機器のノイズが重なった。巻き戻し、停止、再生のボタンを繰り返し押しているような、短い機械音だ。
 僕は、壁に耳を当てた。
 古い壁紙の裏はひどく冷たかった。
 向こうで、女の声がした。
「……もう一度、聞かせて」
 それから、ざあっ、というノイズ。
 カン、カン、カン、という遠い踏切。
 そして、男の途切れた声。
 何かを言いかけて切れる、かすれた声。
 僕は、ぞっとした。
 その声には、聞き覚えがあった。
「まさか……」
 壁を離れる。
 そのとき、半透明の女が、僕のすぐ後ろに立っていた。
 今度は、前よりはっきり見えた。
 彼女だった。
 名前はまだ出てこないのに、彼女であることだけは分かった。
 淡い色のカーディガンを羽織っていた。少し疲れた顔をしている。僕が好きだった横顔だ。
「きみ……」
 呼びかけると、彼女は悲しそうに首を振った。
 それから、壁の方を見た。
 向こう側を見ろ、というように。
 僕は、ふらつきながら玄関へ向かって、外に出た。隣室のドアを叩くつもりだった。
 廊下は、妙に長かった。
 いつもの倍もあるみたいに続いている。LED照明の青っぽい光がところどころで途切れ、そのたびに、床の模様が水面みたいに揺れた。
 ようやく隣室の前に着く。
 ノックする。
 返事はない。
 もう一度叩く。
 すると、内側で何かが止まった気配がした。すすり泣きが途切れる。
「すみません。隣の者です」
 声をかける。
 沈黙。
 それから、女の細い声。
「……入って」
 鍵は、掛かっていなかった。
 ドアを開ける。
 部屋の中は、僕の部屋とよく似た間取りだった。
 ただ、生活の色が少し違う。机の上に化粧品、ハンガーに掛けたブラウス、床に丸めたティッシュ、壁に立てかけられた花束の包み紙があった。
 テレビの代わりに、小型の音楽再生機器が置かれていた。
 その前に、若い女が座っていた。
 スーツのスカートのまま、膝を抱えるようにしている。顔はやつれ、目が赤く腫れていた。
 彼女は、僕を見ていない。
 僕は、部屋へ入ったはずなのに、女の視線は僕を素通りして、もっと奥の暗がりを見ていた。
「聞こえてるんですよ。毎晩……」
 僕は、そう告げた。
 自分の声が少し遠かった。
 女は、返事をしない。
 再生機器のボタンを押す。
 ざあっ、というノイズのあとに、踏切の音が流れた。
 カン、カン、カン。
 その向こうで、男の声がする。
「……いま、そっち……行く」
 僕は、凍りついた。
 それは僕の声だった。
 だが、ひどく歪んで、遠く、水の中から聞こえるみたいな音色だった。
 女は、再生を止め、両手で顔を覆った。
「どうして……どうして、電話なんかしながら」
 そう呟く。
 電話。
 頭のどこかが、ぎしっと軋んだ。
 彼女は、僕の彼女だった。
 隣室の女などではなく、事故のあと、なぜか僕の部屋の隣へ越してきたか、あるいは僕の部屋の気配を感じる場所に通ってきていたのだろう。
 いや、そうではないのかもしれない。このマンションの部屋番号も、配置も、もうよく分からない。
 重要なのは、彼女が毎夜、僕の残した音を聞き返していたということだった。
「電話……したっけ?」
 僕は、呟く。
 彼女は、反応しない。
 僕の存在に気づいていない。
 僕は、部屋の隅の鏡を見た。そこにも、僕は、ほとんど映っていなかった。
 そこから先、記憶は一気に戻ったわけではない。
 むしろ、断片が増えた。
 彼女からの着信。
 締切に追われていた夜。
 パソコンの前で、もう少しで終わる、と思っていたこと。
 彼女が珍しく駅まで迎えに来ると言ったこと。
 あるいは、僕が彼女を迎えに行くと言ったのかもしれない。
 電話を耳に当てたまま、マンションを出る。
 コンビニの前。
 踏切。
 赤い警報灯。
 遮断機が下りかけているのに、いける、と思った。
 そのあとが抜けている。
 だが、音だけはある。
 カン、カン、カン。
 ざあっ。
 金属がぶつかるひどい音。
 彼女の悲鳴。
 切れた通話。
 僕は、自室へ戻った。
 戻れた、というより、気がついたら部屋の中にいた。
 パソコンは立ち上がっていた。スクリーンセーバーが動いている。
 踏切のアニメーションだった。
 赤いランプが点滅し、線画の男が踏切の前に立っている。
 どこから入ったのか分からないスクリーンセーバーだ。ワイヤーフレームの男は、カクカクした動きで遮断機をくぐる。遠くから列車が来る。男は振り返る。画面の前で、僕は身動きが取れない。
 列車が男にぶつかった。
 画面が大きく揺れた。

*	*	*

 その結末へたどり着くまでに、僕はもう少し長く、この部屋に留まり続けていた。
 真相の輪郭が見え始めてからも、人は、すぐには納得できない。
 たとえ自分自身のことでも同じだった。
 僕は、隣室で再生される録音を聞き、彼女の泣き声を聞き、自分の声の断片まで耳にした。にもかかわらず、なお心のどこかで、これは長い悪夢にすぎない、ひどい疲労が見せている幻覚に違いない、と考えていた。
 次の日、エントランスで、管理人らしい男とすれ違った。
 僕は「どうも」と声をかけたが、男は顔を上げなかった。
 聞こえなかったのかもしれない。もう一度、言おうとして、やめた。
 死んだ、という事実は、もっと断定的な形でやって来ると思っていたのだ。
 医者に告げられるとか、白い光を見るとか、三途の川を渡るとか、そういう分かりやすい区切りがあるのだと思っていた。
 けれど実際には、死は、生活の継ぎ目からひどくゆっくり染み出してくるものだった。
 朝だと思ってカーテンを開けても、窓の外はいつも薄い夜明け前か、薄い夕方だった。

*	*	*

 そのころから、僕はときどき自分の部屋を出て、町を歩くようになった。
 歩くと言っても、あてがあるわけではない。線路沿いの道、コンビニ、古い公園、コインランドリー、信号のある大きな交差点。どこも見覚えがあるはずなのに、少しずつ配置が違う。看板の色が薄かったり、建物の高さが不自然だったり、遠くにあるはずの駅が見えなかったりする。
 人はいる。
 だが、皆どこか急いでいて、僕の存在を避けるようにすり抜けていく。
 あるいは、もっと正確に言えば、僕のいる空間そのものが、他人の動線の外へずれている。
 公園のベンチに座っていると、散歩中の犬が真横を通り過ぎる。鼻先が僕の膝に触れるかと思う距離まで来ても、犬は何も感じない。飼い主の若い母親も、僕の方を見ない。
 コインランドリーのガラスに映る夜景には、洗濯機の回転は見えるのに、僕の姿は映らない。
 交差点で青信号を待っていても、車のヘッドライトは僕を照らさない。光だけが身体を透過して、アスファルトを白く塗る。
 そんなふうに歩いていると、しばしばどこかから、あの行列に出くわす。
 夢の町そのものではない。ただ、夕暮れの駅前や、閉店した商店街のアーケードや、夜中の住宅地の角を曲がった先で、遠くに灯が揺れているのが見える。
 足音のない人々が、ゆるやかに同じ方向へ進んでいる。
 僕は、まだ、その列に近づけなかった。
 彼女のことが気になっていたからだ。
 名前の思い出せない彼女が、どこかでまだ、僕の音を聞いている。その気配がある限り、僕は、自分の最後を認め切れないでいた。
 彼女の方のことも、少しずつ見えるようになった。
 夢とも現実ともつかない場面の中で、僕は、彼女を何度も見た。
 会社のデスクで、無表情のままパソコンを見つめている彼女――。
 電車の窓に映る自分の顔をぼんやり見ている彼女――。
 スーパーで二人分ではなく一人分の惣菜を買い、レジ袋の軽さに少しだけうろたえる彼女――。
 休日に、僕の好きだった菓子パンの新商品を棚の前で見つけ、手に取ってから、しばらく考えて戻してしまう彼女――。
 そういう何でもない場面の方が、葬儀や涙より、よほどつらかった。
 悲しみは、大きな出来事のときよりも、生活の端々でふいに口を開ける。
 彼女はたぶん、そのたびに僕の不在へ落ちそうになり、そのたびに持ち直していたのだろう。
 だから夜だけ、録音を再生した。
 最後の通話、踏切、切れた声、ノイズ。
 そこに僕がいる気がしてしまうから。
 そのことが分かると、僕は自分の未練が彼女の傷を長引かせているような気がして、居たたまれなくなった。
 それでも、彼女との幸福な記憶は、まだところどころで僕を引き留めた。

*	*	*

 ある夜、僕は、部屋の電気もつけずにベッドへ横になった。
 眠る必要があるのかないのか、もう分からない。しかし、横になると、少しだけ意識が沈み、記憶が浮かびやすくなる。

 僕は、春先の川沿いを歩いていた。
 桜がまだ三分咲きで、風が少し冷たい。彼女は白いスニーカーを履き、珍しくスカートではなくジーンズを穿いていた。僕が「似合わない」と冗談を言うと、彼女は「こういうときだけ昔の男尊女卑が出る」と笑った。
 コンビニで買った紙コップのコーヒーを持ち、橋の上で立ち止まる。遠くに線路があり、ちょうど電車が通る。ガタン、ゴトン、ではなく、ここからはただ、細い金属音として聞こえるだけだった。
「音って、記憶になるね」
 彼女が、言った。
「匂いじゃなくて?」
「匂いもだけどさ。私は、音の方が残る。踏切とか、救急車とか、子供のころのチャイムとか、さ」
「じゃあ俺の声も残る?」
「うーん?」
 彼女は、わざと首を傾げてから、笑った。
「残るかも」
 そのときの笑い方まで鮮明なのに、やはり名前だけが出てこない。
 記憶は、そこで途切れた。

 目を開けると部屋の天井があり、耳元で本当に踏切が鳴っていた。
 僕は、起き上がり、窓を開けた。
 外は、風もないのに、カーテンが内側へ膨らんでいた。まるで誰かが外から入ってくるように。
 窓の桟に手をかけて下を見下ろす。
 線路沿いの道に、彼女が立っていた。
 夜中なのに、スーツ姿で、バッグを肩から下げている。仕事帰りのままなのだろうか。手には何も持っていない。代わりに胸の前で、スマートフォンを両手で握りしめていた。
 彼女は、窓を見上げている。
 僕は、思わず身を乗り出した。
「危ない」
 彼女がそう言ったように見えた。
 その瞬間、僕の足元で床がふっと消えた。
 落ちる、と思ったが、僕は、落ちなかった。
 窓の外へ身を乗り出したまま、空中に引っかかったみたいに止まっている。見下ろすと、地面が遠い。自分の身体の重さが感じられない。
 彼女の目が、大きく見開かれた。
 しかし、次の瞬間、彼女は、僕を見失ったように視線を彷徨わせた。
 やはり、見えてはいないのだ。
 僕は、ゆっくりと窓枠の内側へ戻った。戻るというより、視界だけがすっと元の位置に戻った。
 窓の外にはもう彼女はいなかった。

*	*	*

 その後、しばらくの間、僕は自分の事故現場へ行こうと何度も試みた。
 線路沿いの道を辿れば、あの踏切に着くはずだ。そう思って歩き出すのだが、途中で町の景色が変わり、気づくと知らない路地にいた。あるいは、コンビニの前へ戻っている。あるいは夢の町の石畳に立っていた。
 どうしても、一直線には辿り着けない。
 死者には、死の場所へ自由には戻れないのかもしれない。そんなことを、妙に冷静に考える夜もあった。
 しかし、ある雨上がりの明け方、ようやく僕は、その踏切へ着いた。
 空は白み始めていた。遮断機は上がっている。警報機は鳴っていない。どこにでもある小さな踏切だ。アスファルトの継ぎ目に雨水が溜まり、レールの上に空の色が薄く映っている。
 僕は、線路の手前に立った。
 ここだった。
 身体がそれを知っている。
 いや、身体というより、僕を形づくっていた音の残響が知っていた。
 線路の脇には、花の痕跡があった。もう枯れて色の抜けた茎。誰かが何度も供え、何度も片づけられた痕跡だ。
 そこへ、足音がした。
 彼女だった。
 今度ははっきり、彼女の方からこちらへ歩いてくる。薄いコートを羽織り、小さな花束を持っている。僕に気づいてはいない。けれど、同じ場所へ来る。
 彼女は線路脇にしゃがみ込み、花を置いた。
 それから、スマートフォンを取り出し、イヤホンを耳に挿した。
 再生ボタンを押す。
 僕にもその音が聞こえた。
 ノイズ――僕の声――踏切――それから彼女自身の悲鳴。
 そして、何かが切れる音。
 彼女は、目を閉じたまま、じっと聞いていた。
「もうやめてくれ」
 僕は、思わず言った。
 もちろん届かない。
「そんなの、もう聞かなくていい!」
 届かない。
 彼女の頬を涙が伝う。
 僕は、彼女に触れようとして手を伸ばした。
 指先は、彼女の髪をかすめたかもしれないし、ただ朝の湿った空気を揺らしただけかもしれない。しかし、その瞬間、彼女はふっと顔を上げた。
 何かを感じたように。
 僕のいる位置を見るでもなく、少しだけ左を見た。僕はそこにいた。
 それでも彼女ははっきりとは認識できないようだった。
「いるの?」
 唇だけがそう動く。
 僕は、応えた。
「いる。でも、もう駄目なんだと思う」
 彼女は、聞こえないまま、長いあいだ立ち尽くしていた。
 やがてイヤホンを外し、涙を拭い、花束の空いた包装をきちんと畳んでバッグへしまった。そして踏切から一歩、二歩と後ずさる。
 その動きは、お別れの作法みたいに静かだった。

*	*	*

 その夜、夢の町は前よりも近くまで来た。
 僕の部屋のドアを開けると、廊下ではなく石畳が続いている。壁紙の剥がれた白い壁は提灯の光に溶け、天井は夜空になっていた。行列の人々は以前より少なく見えた。
 あるいは、僕がようやく彼ら一人一人を見られるようになっただけかもしれない。
 列の中には、事故で死んだのだろうと分かる人もいれば、病床から離れてきたような静かな人もいた。
 老人も若者もいる。皆、誰かの名前を少しだけ引きずっている顔をしていた。
 列のわきに、小さな屋台のようなものが出ていた。奇妙なことに、そこでは音が売られているようだった。鈴の音、子守歌、駅の発車ベル、祭り囃子、犬の鳴き声、ランドセルの金具の音、包丁で野菜を刻む音――見えない商品が空中に並んでいる。
 僕が立ち止まると、店番らしい老婆が、しわだらけの指で一つを示した。
 カン、カン、という小さな踏切の音。
 僕は、顔を顰めた。
「もう十分聞いたよ」
 そう言うと、老婆は首を横に振った。
「まぁだ、だよ」
 声は、あの電話の向こうの声だった。
「まだ、あれだけじゃ足りない。あれは死ぬ音だ。お前が忘れたのは、生きていた音の方さ」
 僕は、言葉を失った。
 老婆は続けた。
「人は死ぬときの音だけでは向こうへ行けない。生きていたとき、何を聞いて、誰に呼ばれていたか、それを思い出さなきゃいけない」
「でも、名前が……」
「名前だけじゃないさ」
 老婆は、僕の胸の辺りを軽く指した。
「お前が返すべきものが、まだ残ってる」

*	*	*

 その瞬間、僕は、踏切の前に立っていた。
 夜の空気は濡れていた。
 警報機が鳴っている。
 彼女が向こう側にいる。花束ではなく、コンビニの袋を持っている。まだ事故の前の時間だ。
「だから、危ないって言ったのに!」
 彼女が、笑いながら言う。
 僕は、携帯電話を耳に当てて、何か返している。
 声が聞こえない。
 彼女の口元だけが動く。
 そのとき、足元で何かが滑った。雨で濡れた白線か、落ちたビニール袋か。
 僕の身体が傾く。
 視界の端で、列車のライトが膨張する。
 耳の中であらゆる音が一つになる。
 踏切、彼女の声、携帯の通話音、金属音、肉のきしみ、脳の奥の破裂音。
 そして、何もかもが、白く飛んだ。
 次に見えたのは、病院でも救急車でもなかった。
 僕の部屋だった。
 パソコンの前に、いつものように僕が座っていた。
 いや、座っている“つもり”だった。
 そこからずっと、僕は、仕事を続けていたのだ。
 終わらなかった締切を終わらせるために。
 帰れなかった部屋へ帰るために。
 受け取れなかった彼女の言葉を受け取るために。
 だが実際には、僕は、踏切で死に、その残響だけが、この部屋の形をした場所に引っかかっていた。
 壁の向こうの『音』は、隣人の声ではなかった。
 彼女の泣き声だった。毎夜、彼女が再生する事故の録音だった。換気扇の奥の顔も、電話の老婆も、鏡の遅れも、全部、その音へ僕を戻そうとする徴候だった。
 僕は、大事な音を忘れていたのだ。
 自分が砕けた瞬間の音を。
 彼女が僕の名を呼んだ音を。
 踏切が、僕の最後を告げた音を。
 パソコンの画面が、ゆっくりと窓に変わっていった。
 液晶の黒が夜空の黒に変わり、その向こうにマンションの外廊下と、線路脇の道が見える。
 彼女がそこにいた。
 今度は花束を持っている。
 白い花だ。
 彼女は、踏切の脇にそれを置き、しばらく立ち尽くしたあと、僕の部屋の窓を見上げた。
「まだ、いる気がする」
 唇がそう動いた。
 声は聞こえない。
 だがもう分かった。
 彼女は僕を呼んでいたのではない。別れを言いに来ていた。いつまでもここにいてはいけない、と、そう願っていたのだ。
「ごめん」
 僕は、言った。
 声になったかどうかは分からない。
「ごめん。仕事、終わってないとか、そういうことじゃなかったんだな」
 彼女は、気づかない。
 それでも僕は、もう一度言った。
「ごめん」
 彼女の肩が小さく震えた。
 たまたま風が吹いただけかもしれない。でも、その瞬間、彼女が少しだけ顔を上げ、窓のこちらをまっすぐ見た気がした。

*	*	*

 気がつくと僕は、部屋へ戻って、机の前に座っていた。
 パソコンは不思議なくらい静かに起動した。いつものファン音さえ聞こえない。
 ワープロの画面を開くと、翻訳途中の文章が残っている。事故で恋人を失った女の章だった。原文の英語は途切れ途切れで、ところどころ文字化けしているように見える。
 僕は一文ずつ、日本語へ直していった。
 女は、死者の声を録音から探し続ける。
 その作業は、祈りに似ているが、祈りではない。
 祈りは前へ向かうが、録音の再生は同じ瞬間へ戻り続ける。
 だから死者の方から離れてやらなければならない。
 そこまで訳したところで、僕は手を止めた。
 原文にない一文が、画面の下に現れていた。
『彼は、謝りたかった。だが、謝罪もまた、声でなければ届かない』
 僕は、しばらくそれを見つめた。
 謝る。
 たしかに、僕は、ずっとそれをしていない。
 彼女に、ごめんと言っていない。
 危ないと知っていて踏切に入ったこと。
 仕事を言い訳に何でも後回しにしていたこと。
 彼女の声より締切を優先したこと。
 勝手に死んで、彼女をあの音の中へ置き去りにしたこと。
 それらすべてに対して、僕はちゃんと謝っていなかった。
 翌夜、彼女はまた踏切へ来た。
 今度は花束ではなく、小さな紙袋を持っていた。中身は僕の好きだった缶コーヒーと菓子パンだった。そんなものを供えるなよ、と言いたくなって、僕は少し笑った。
 笑うと、胸のあたりが痛む気がした。
 彼女は、袋を線路脇に置き、スマートフォンを取り出さなかった。
 ただ静かに立って、踏切を見ている。
 風が吹く。
 彼女の髪が揺れる。
 その瞬間、僕はなぜだか、彼女の名前を思い出した。
 それは、風の音に混じるような、やわらかな名前だった。呼びかけたとき、最後の母音が少し伸びる、あの響き。
「……由奈」
 僕は、呟いた。
 名前は空気の中へ溶けた。
 だが今度は、彼女が確かに反応した。
 肩がぴくりと震え、ゆっくり振り返る。
 僕は息を呑んだ。
 彼女の目は、僕を見てはいない。けれど、もう完全に見失ってもいない。
「聞こえた気がした」
 彼女はそう言った。
 それから、少しだけ笑った。泣き顔に近い笑いだった。
「やっと、呼んでくれた」
 僕はその場に膝をついた。膝をついた感触はなかったが、そうするしかなかった。
「ごめん」
 声にした。
 今度も届いたかどうかは分からない。
 しかし由奈は目を閉じ、小さく頷いた。
「うん」
 彼女は誰かの返事を聞いた人みたいに、静かに言った。
「もう、大丈夫」
 その一言で、僕の周囲の景色が少しずつ変わり始めた。
 踏切の赤いランプが遠ざかる。
 線路の冷たい光が、夢の町の提灯の灯へ変わっていく。
 彼女の輪郭は朝靄みたいに淡くなる。失われるのではなく、現実の側へ戻っていくのだと分かった。
 僕は立ち上がり、彼女に手を振った。
 由奈は、見えていないはずなのに、同じように少しだけ手を上げた。

*	*	*

 そのあと部屋へ戻ると、もうそこは半分、町の方へ開いていた。
 机の上のマグカップには、飲みかけのコーヒーではなく、暗い水が満ちている。壁紙の染みは顔ではなく、ただの古い汚れに見える。本棚の本は背表紙の文字を失い、白くぼやけている。部屋は役目を終えた舞台装置みたいに静かだった。
 背後で、足音がした。
 振り向くと、あの夢の町の光の列が、部屋の内側まで伸びていた。
 提灯のような灯がゆらめき、足音のない人々が静かに進んでいる。前とは違って、彼らの顔は少しだけ穏やかだった。誰も僕を急かさない。ただ、ここではない方へ続く道があることだけを示している。
 列の端に、電話の向こうで話した老婆がいた。いや、老婆に見えた何か、かもしれない。
 その老婆は、何も言わなかった。ただ頷いた。
 その隣に、換気扇の奥で泣いていた顔も見えた。顔はもう泣いていなかった。
 僕は、部屋を見回した。
 本棚。
 硬い枕。
 白い壁。
 古いパソコン。
 独り言ばかりが染みこんだ空気。
 ここは、僕の部屋だったのだろう。けれど、もう僕の部屋ではない。
 最後に、パソコンへ近づく。
 パソコンだけが、まだ光っていた。
 画面には、翻訳ソフトが開かれていた。未完の文章の末尾に、見覚えのない一行が日本語で打たれている。
『帰るべき音は、かならず還る。』
 僕は苦笑した。
 誰が打ったのか、もう問う気にはなれなかった。
 完成した翻訳ファイルも表示されている。送信ボックスも開いていて、クライアント宛のメールが下書きの状態で止まっていた。
 僕は、思わず苦笑する。
「最後まで仕事かよ」
 自分に呆れた。
 それでも、送ってしまいたい気持ちになった。死んでもなお締切を気にするなんて、僕は本当に救いようがない。
 けれど、送信ボタンにカーソルを合わせたとき、画面の端に小さな文字が浮かんだ。
『未送信のままでよい』
 誰の言葉かは分からない。
 だが、不思議とその通りだと思えた。
 仕事は、未完のままでいい。
 人生もそうだったのだから。
 きれいに終えられなかったことを、もう少し認めてもいいのかもしれない。
 僕はマウスから手を離し、電源ボタンに触れる。
 押した感触はなかったが、画面は静かに暗くなった。
 すると、部屋の輪郭がさらに薄れた。
 窓も壁も天井も、霧のようにほどけて、夢の町の夜気に溶けていく。
 行列の先頭の方から、柔らかい楽の音が聞こえた。太鼓とも踏切とも違う、もっと穏やかな打音だった。ああ、これが生きている側ではもう思い出せない音なのだろう、と僕は思う。誰も怖がらせず、誰も急かさず、ただ前へ進ませるための音だ。
 列へ加わる前に、僕は最後に一度だけ振り返った。
 遠く、現実の方に、由奈が歩いていくのが見える。背中は少し小さく見えたが、足取りは前よりしっかりしていた。彼女はもう録音を聞かなくなるかもしれない。あるいは、最後にもう一度だけ聞いて、それから消すのかもしれない。
 どちらでもよかった。
 彼女が前へ進めるなら、それでいい。
 窓の外で、彼女が一歩だけ踏切から遠ざかる。
 それを見届けてから、僕は列の方へ振り向いた。
 石畳は濡れているように光っていた。
 灯は水の底みたいに揺れている。
 あの『女』はもう、笑っているのか叫んでいるのか分からない顔ではなかった。ただ悲しみの果てで、ようやく静かになった人の顔をしていた。

 僕は、列の中へ入った。
 足を踏み出しても、今度は沈まなかった。
 提灯の灯が揺れ、石畳に淡い反射をつくる。周囲の人々は誰も喋らないが、沈黙はもう怖くなかった。孤独の沈黙ではなく、それぞれが各々の名前を胸に抱いている静けさだった。
 提灯の灯が遠ざかるにつれ、踏切の音も、電話のノイズも、換気扇を叩く音も、少しずつほどけていく。
 そして、先へ行くほど、背後の音が遠ざかる。
 踏切。
 電話のノイズ。
 換気扇を叩く音。
 キーボード。
 それらの輪郭が順番に薄れていく。
 最後まで残ったのは、由奈が台所で包丁を使うときの小さなリズムと、夜更かしした僕を咎める声だった。
「また夜更かししたでしょう」
 その声音は、叱るようでいて、ほとんど祈りみたいに優しかった。
 それは生活の音だった。
 死の音ではなく、生きていた時間の音だった。
 僕はようやく、それを抱えたまま歩ける気がした。

*	*	*

 何年か、あるいは何日かののち。
 あのマンションの前を、彼女は通りかかったことがあった。
 仕事帰りで、たまたま遠回りをしただけだった。以前のように立ち止まりはしなかった。窓を見上げることもなかった。けれど、エントランスを過ぎるとき、ふと懐かしい気配がして、少しだけ足を止めた。
 上の階のどこかで、若い男の笑い声がした。新しい住人なのだろう。
 続いて、パソコンのキーボードを叩く小さな音。
 それから、壁の向こうから聞こえるはずのない、やわらかな女の声。
「また夜更かししたでしょう」
 由奈は、驚いて顔を上げた。
 しかし、窓には誰もいない。
 風もない。
 ただ、どこか遠くで、踏切が一度だけ鳴った。
 カン、と、短く。
 それはもう警告ではなく、何かが確かに通り過ぎたあとの、静かな余韻みたいな音だった。

 しばらくして、その部屋には新しい住人が入った。
 若い男で、在宅の仕事をしているらしかった。
 引っ越しの段ボールが片づくまでの数日、彼は夜更かしをし、古い壁紙の染みを見つめ、たまに独り言を言った。
 ある夜、彼は作業の手を止め、白い壁に耳を澄ませた。
 隣から何か音がすると言うのだ。
 いや、違う。
 彼はそう首を傾げた。
 壁の向こうではない。
 もっと遠く、もっと近いどこかから、カン、カン、と乾いた音が聞こえる、と。
 その音は、忘れられても、いつか必ず還ってくる。

(了)

後書き:

 昨日の日記では、TALESに載せるつもり……と書いたのですが、とりあえず、手持ちで連載とする程ではない長さのもの――十数年前に『幽』のコンテストか何かに出したものです――が、あったので、少し拡充して2万字以上として、こっちに載せてみました。
 いつものnote用の短編は、8000字前後なんで、少し長かったでしょうか? また、同じ感じでnoteにも記載予定です。
 TALESの方は、現在進行中のスペオペが一段落したら、連載として書こうかな~と思っております。

#創作大賞2026 #ホラー小説部門

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