宗教学講義2024後半 第四回分 文字掲示

10/11(4)の分
(前回分と同じく 学生向けの掲示〔主として課題文〕を載せてみます。ご興味に応じて参照ください)

本日扱われた内容の列挙
ルネサンスつづき プロテスタントの成立の背景 地上/世俗/俗世/身体
バチカンの変様 イギリスの動向 スコットランド 
スペイン 新興国 バチカンと スペイン・ポルトガル 対 イギリス
プロテスタント と イスラ〜ム/東ローマ帝国 この間の近さ
次回イスラームに入る予定

課題
ひとまず15/16世紀を離れて、イスラ〜ム全般の方に目を向けることとして、次回に向けて、横書きのテクスト 68/69ペ〜ジは読んでおくこと。
課題となるのはこれ(横書き)とは異なり、以下に説明す。

本日の話にあったように、プロテスタント的な動機は、(ルネサンスの、ということは、古代ギリシアの、身体観、理性観を再受容しつつ) いわゆる「世俗(この世、現世)の位置づけにカトリック内部で大きな変動が生じることに呼応する。

この動向は、信仰上(教義、理念上)の問題であるとともに、実利的(利得および富に関わる)問題でもあるため、これらの双方に目を向けて理解しなければならない。

これに加えて、このとき新たに西ヨ〜ロッパの新興国(スペイン/ポルトガル、イギリス、さらにオランダ、そして 新規まき直しのフランス等)が、旧来の中心地(地中海の東)との間で、海外の版図をめぐる熾烈で且つ複雑な競合関係に入る、という事情も、可能な範囲で理解すべきことにもなる(時間をかけて理解するとよい)。

注意的に繰り返すが、グロ〜バルという語は、手放しで使うべき言葉ではなく、この時代の初期状態から発して現今に至るまで、西洋的/キリスト教的な意味での 覇権(ヘゲモニ〜)と常に連携する意味で使われる概念であることを思念する必要がある。これとともに、残余の諸地域は、これに服従するか対抗するかを強いられるような情勢に、好むと好まざるとに関わらず、陥り、かつ今に至るといえる。

さて、この話の流れの中で、ようやく 西ヨ〜ロッパ(カトリック的土壌〔ドジョウ〕)の中においても、人間の知、この世の生活、身体を持ち判断する各人の生命、このようなものの重要性が発見されることになるのだが、最後に話したように、これらの価値は、もともとに、ギリシアでもユダヤでも、東方教会でも、そしてイスラ〜ムでも、尊重されていたのだということを、強めに意識する必要がある。

この意味において、プロテスタント的な動向は、(カトリックのイスラ〜ム化、というと言い過ぎであろうが)西方キリスト教(カトリック)が意図的に消失させようとしたものが 再来してくる、という出来事でもある。ただその世俗化は、急速な西方への版図の拡大という形を取ることとなったという(不幸な)おまけ付きである。

この点を踏まえて、イスラ〜ムをこれから瞥見するに当たって、イスラ〜ムの方は「世俗」なるものをカトリックとはまったく別の観点で見ていたことをよく理解する必要がある。というよりも、そもそも「世俗」という語(聖なるものに対比させられるその逆の面)を不要とする境地がイスラ〜ムである。カトリックが、聖なるもの(これは聖職者の専権事項でもある)と俗世とを峻別するのに対して、イスラ〜ムでは(ユダヤでも同じだが)、この世を生きることそれ自身が神への帰依の現場である、ということを再度よく理解する必要がある。

この世の生に意味と意義があること、この世についての人間の知が信仰への大事な鍵となること、これらの理念が、ルネサンスに先立つ八世紀前もに、しかもキリスト教の教義に対抗する理念として、イスラ〜ムによって打ち出されていたことに留意する必要があるのである。

このようなことを踏まえて、以前に指摘した「イスラーム 正しい理解のために」(トルコ文化センター刊、かなり前の発行)(探せると思うが念のためにここにも添付)を読んでみることにす(これが課題である)。
(以上の文は学生向けで、この文書は次の箇所にあります(↓))
https://tokyocamii.org/publications/
(このサイトから「イスラーム 正しい理解のために」をダウンロードしてください。)

まずはイスラ〜ム的な発想は、ルネサンスなどの先取りになっていないか、という観点で読むとよい。
 —— ここに書かれていることは、そのままで首肯できないことも含まれているかもしれない(たとえば、「イスラーム社会においては当初から、ムスリムでない者の宗教への介入は決して行われることなく、すべての人に宗教上の自由が完全に保証されていました」という叙述などは 言い過ぎな感がある)。—— だが、もしこの叙述がキリスト教の文章であれば多くの読者がそのままに肯定して読んでいるところ、イスラ〜ムの話であることから頭から疑って読むような傾向があるとすれば、それはまた衡平ではないだろう。というわけで、まずはイスラ〜ムの側の言い分を聞く、という趣旨で、このテクストを虚心に読んで何か感想を書いてみよう、というのが課題である。

長いので、(全部読むのがよいのだが、その必要はない)以下の点を読むべき必須の箇所として指摘しておきましょう〜(テクストにはペ〜ジ付けがあるのでそれを参考に。)。

・4〜9ペ〜ジの 一 宗教とその必要性 二 イスラームと他の宗教 …読む必要がある。

・9〜13の イスラ〜ムの教えの源 のうち、クルアーン、スンナ、イジュテハード、イジュマー、キヤースなどの説明は、知識的には知っておいて損はないと思う。キリスト教とは異なる仕組みであることがわかるため。とりわけ、ローマ教皇のような「トップ」も「催行機関」も存在しないことを読み取ることができるとよいのだが…。

・このあたりでは、 11ページの左側(クルアーンにおいて生とは)は読むとよい。この世の意味がカトリックと異なることを見て取れればよいのだが…。

・13〜20 イスラ〜ムの特徴 ここでは、14の「タウヒード」の項、15の「普遍性」、1819前段の「知」のところ、寛容の20のペ〜ジ、これは読むとよい。

・ここから先は 随意に。第二部の「イバーダート(崇拝行為)」は 飛ばし飛ばし見ればよい。これの大事な意味は、この地上のおのおのの行為がそのままに信仰の実践の内容であるという点である(プロテスタントにも卑近といえる)。これに対して、カトリックは、日々の行為ではなく、むしろ祭司(聖職者)に従順であることが第一義であるという転倒した信仰であることが見えてくるはず。

イスラ〜ムは、やたら規制が多い、などと批判的に見る向きもあるが、そうではなく、日々の端々の行為がそのままに神への帰順が問われる現場である、ということなのである。地上のここの行為に即して神に向かう、というムスリム的な行為原則は、まさに本日説明したルタ〜派における 個々の人間が直に神に相対して祈る、という新たな地歩を 何世紀も先取りしたものともいえるはずである。

このため、「面倒極まりない規則に縛られている宗教」、と考えずに、「生のすべての局面で神に相対する信仰」、と見れば、イスラ〜ムに対する見方も変わってくるかも、である。

第Ⅲ部(50-)は、近辺にムスリムの知り合いでもいる場合には、読んでおくといいかも、というくらいだと思う。ただ、「女性」の項目(59-)は読むべきか(読むとよい)。多くの場合、キリスト教に騙されて、キリスト教が女性に優しく、イスラームが厳しい、という事実の逆の理解が浸透しているゆえ。女性から財産を取り上げること最も苛烈であったのがキリスト教であるといえよう。

このあたりまで読めばよいかとも思う。
課題は以上


いいなと思ったら応援しよう!

ネコイッチュ ありがたしです。がんばりますですにゃ。