1. 雨の日、猫神様を拾った
「成瀬。進路希望、まだ白紙なの、お前だけだぞ」
放課後の教室で、担任が一枚の紙をひらひらと振った。
窓から差し込む夕方の光は薄く、空には朝にはなかった灰色の雲が広がっている。教室では椅子を引く音や、部活へ急ぐ生徒の声が重なっていた。
俺は机に頬杖をついたまま、その紙を見る。
第一希望。第二希望。卒業後の進路。
見事なくらい、何も書いていない。
「いや〜、もうちょい考えたら、なんか降ってくるかなって」
苦笑いしながら言うと、先生は眉間にしわを寄せた。
「何が」
「これだ、みたいなやつ」
「降ってこないから書け」
「ですよねぇ」
へらっと笑う。先生はため息をついて、進路希望調査を俺の机に置いた。
「家でもう一回考えてこい。来週、三者面談あるんだからな」
「はーい」
別に何も考えていないわけじゃない。大学のことも調べたし、専門学校のパンフレットだって見た。就職するならどんな仕事があるのかも、なんとなく検索した。
ただ、調べれば調べるほどよく分からなくなる。
大学も悪くない。専門も面白そうなところはある。働くのも、まあ、ありだと思う。
でも――じゃあ、お前はどうしたいんだと聞かれると困る。
「湊、帰ろーぜ」
教室の後ろから友達に呼ばれ、俺は顔を上げた。
「今行く」
進路希望調査を二つ折りにして鞄へ突っ込む。紙の端が少しはみ出したので、人差し指でぐいっと奥へ押し込んだ。
まあ、まだ高二だ。
そのうち何か見つかるだろ。
そう思ったら、少しだけ気が楽になった。
校門を出てしばらく歩いたところで、ポケットのスマホが震えた。
母さんからだった。
『今日夜勤。悪いけど帰りにスーパー寄ってきて』
その下に、買ってきてほしいものがずらりと並んでいる。
牛乳。卵。豆腐。洗剤。食パン。それから夕飯に使うものがいくつか。
俺は画面を見たまま、露骨に顔をしかめた。
「まじか……だる」
スーパーは家とは少し逆方向だ。
このまま帰ってゲームを起動するつもりだったのに。
『明日じゃダメ?』
そこまで打って、指を止める。
夜勤なら、母さんが帰ってくるのは明日の朝だ。
俺は口をへの字に曲げて入力した文字を消した。
『りょーかい』
送信。
「……俺、えら」
小さく呟いて、自分でちょっと笑った。
誰も褒めてくれないので、自分で褒めるしかない。
夕方のスーパーは、仕事帰りの大人や子ども連れの主婦たちでそこそこ混んでいた。
スマホの買い物リストと売り場を交互に見ながら、カゴへ商品を放り込んでいく。
牛乳を取って、卵は割れていないか一応確認する。洗剤はいつものやつより詰め替え用の方が安かったのでそっちに変えた。
こういうことは別に嫌いじゃない。
面倒ではあるけど。
会計を済ませ、買い物袋を提げて自動ドアを抜けたところで、俺は足を止めた。
「うわ……」
雨だった。
さっきまで曇っていただけだった空から、白い筋がいくつも落ちている。駐車場のアスファルトはすっかり黒く濡れ、車のヘッドライトが水面のような路面にぼんやり映っていた。
屋根の下からスマホを出して天気予報を見る。
雨。
「いや、さっきまで曇りだったじゃん」
思わずスマホに文句を言う。
しばらく待ってみたものの、雨脚は弱くなるどころか、屋根を叩く音が少しずつ大きくなっていく。
「……もういいや」
俺は鞄を抱え直し、買い物袋を持って雨の中へ飛び出した。
数分後。
俺はその判断を後悔していた。
「いや、無理だってこれ……!」
走っても普通に濡れる。
前髪から水がぽたぽた落ち、制服の肩は色が変わっていた。買い物袋だけは濡らすまいと身体の内側へ抱え込む。
住宅街へ入ったところで雨がさらに強くなる。
どこか屋根。
軒下。
なんでもいい。
目を細めながら辺りを見回していると、雨の向こうに小さな鳥居が見えた。
昔からこの辺にある神社だった。
住宅と住宅の間に挟まれるように残された、小さな鎮守。石段を数段上がった先に木造の社があり、その周囲だけ古い木々が生い茂っている。
普段なら素通りする場所だ。
でも今は、社の屋根がやたらありがたく見えた。
石段を駆け上がり、軒下へ飛び込む。
「っはぁ……最悪」
濡れた前髪をかき上げ、そのまま頭をわしゃわしゃする。
手の甲に雨粒が散った。
制服の袖も湿っていて気持ち悪い。俺は嫌そうに袖をつまんで肌から離し、ため息をついた。
そこで、視線を感じた。
顔を上げる。
社の隅に、何かいる。
「…………猫?」
一匹の猫が座っていた。

クリーム色の毛並みに、頭や耳のあたりには淡い茶色の模様。少し丸みのある身体に、ぴんと立った耳。金色の目が、まっすぐこちらを見ている。
ずいぶん整った顔をした猫だ。
ただ、一つ気になる。
服を着ていた。
深い緑色の羽織のようなもの。首元には紅白の紐が結ばれ、真ん中に小さな金色の鈴までついている。
俺は思わず眉を上げた。
「……変な格好してんな」
猫の耳が、ぴくりと動いた。
「飼い猫か?」
近づいてみる。
逃げない。
それどころか、妙に堂々としている。
神社の軒下で、和風の服を着て、金色の目でじっとこちらを見る猫。
俺は少し考えてからスマホを取り出した。
『神社 猫 会う 意味』
検索。
画面には「幸運の前兆」「神様の使い」「良いご縁」といった言葉が並んだ。
「へえ」
思わず口元が緩む。
こういうのは、わりと信じる方だ。
「お前、結構縁起いいやつなんだな」
そう言って猫を見る。
けれど、猫はもう俺を見ていなかった。
視線が少し下を向いている。
俺の足元。
「ん?」
足元には鞄とスーパーの袋。
袋を持ち上げると、猫の顔もわずかに上を向いた。
下げる。
下を向く。
もう一度持ち上げる。
また上を見る。
俺は吹き出した。
「何。腹減ってんの?」
袋の中を覗く。
人間用の食べ物ばかりだ。猫に何を食わせていいのかなんて知らない。
袋の中を少し探っていると、練り物のパックが目に入った。
取り出す。
その瞬間だった。
ぴん。
猫の耳が立った。
さっきまで身体に巻きついていた尻尾の先が、ゆっくり左右に揺れ始める。
顔だけは相変わらず澄ましている。
なのに金色の目は、俺の手から一度も離れない。
俺が少し右へ動かすと、目も右へ。
左へ動かすと、目も左へ。
「…………」
わざともう一度右へ動かしてみる。
やっぱり追ってくる。
俺は堪えきれず笑った。
「めっちゃ欲しそうじゃん」
猫は何事もなかったように姿勢を正した。
その態度が余計におかしい。
「いや、今さら澄ましても遅いって」
パックを開け、小さくちぎる。
差し出した手首で、丸い天然石を連ねたブレスレットがするりと下がった。少しくすんだ色合いの石が雨の日の薄暗い光を鈍く返す。
「ほら」
猫はすぐには食いつかなかった。
一度俺を見る。
竹輪を見る。
また俺を見る。
「いらないなら戻すけど」
手を引こうとすると、前足が一歩出た。
「ははっ、欲しいんじゃん」
もう一度差し出すと、今度はゆっくり近づいてきた。
鼻先を寄せて確かめたあと、ぱくりと食べる。
もぐもぐと口を動かす。
そして一度飲み込むと、何事もなかったように座り直した。
ただし尻尾だけは、ご機嫌そうに床を撫でている。

「うまかった?」
猫は答えない。
「そりゃそうか」
俺は笑って残りを袋へ戻した。
気づけば、雨音が少し穏やかになっている。
屋根から落ちる雫の間隔も、さっきよりゆっくりになっていた。
「そろそろ行けそうだな」
立ち上がり、鞄を肩へかける。
猫はまだそこにいる。
飼い主がいるなら、そのうち帰るだろう。
「じゃあな。雨止んだらお前も帰れよ」
軽く手を振り、石段へ向かう。
一段下りる。
二段目へ足をかける。
そのときだった。
「待て」
俺は足を止めた。
雨の音の向こうから、低い声が聞こえた気がした。
振り返る。
誰もいない。
いるのは、さっきの猫だけ。
「……?」
辺りを見回す。
神社の境内には俺以外の人影はない。
疲れてるのかな。
俺は眉を寄せながら前を向いた。
「待てと言うておる」
今度は、はっきり聞こえた。
身体が固まる。
ゆっくり振り返った。
猫がこちらを見ている。
「…………」
俺は自分の耳を指差した。
「今……喋った?」
猫は呆れたように目を細めた。
「先ほどからそう言うておろう」
俺の口が半開きになる。
数秒、何も言えなかった。
猫を見る。
誰もいない境内を見る。
もう一度、猫を見る。
「……え」
思わず乾いた笑いが漏れた。
「猫って喋んの?」
すると猫は、明らかに不服そうな顔をした。
「猫ではない」
「いや……」
どう見ても猫だろ。
そう言いかけた俺を無視して、そいつはすっと立ち上がった。
濡れた深緑の羽織が揺れ、胸元の金色の鈴が小さく鳴る。
さっきまで竹輪を目で追いかけていた姿が嘘みたいに、妙に堂々としていた。
金色の目が、まっすぐ俺を捉える。
「よく聞くがよい、人の子よ」
俺は石段の途中で固まったまま、その猫を見つめた。
そいつは胸を張り、静かに名乗った。
「我が名は、たまゆら」
雨に濡れた小さな神社で。
その日、俺の日常は初めて、ほんの少しだけ道を外れた。
「人の縁と心を視る――猫神じゃ」
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