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フリマは本当に「環境に優しい」のか

― 再流通の理念と、

日本社会の貧しさについて


フリマアプリや中古市場は、しばしば「環境に優しい仕組み」として語られる。
まだ使えるものを捨てず、必要とする誰かへ回すこと。
それによってゴミを減らし、資源を循環させること。
この説明だけを見れば、たしかに一つの合理性がある。
不要になったものが別の誰かのもとで再び使われるのであれば、それは再利用であり、廃棄の抑制でもある。
その意味では、フリマという仕組み自体に環境配慮の側面があることは否定できない。

しかし、現実のフリマ市場を見ていると、そこにはどうしても拭い切れない違和感がある。
本当にこれは「環境に優しい仕組み」と呼べるのか。
あるいは、環境という言葉が、別の欲望を覆い隠すための都合のいい看板になっているだけではないのか。
最近はそうした疑問を持つようになった。

本来フリマとは、使わなくなったものや不要になったものを、必要とする誰かへ渡すための場だったはずである。
言い換えれば、その中心にあったのは「不要品の再流通」という思想であり、「安く手に入れること」そのものではなかった。
不要になったが、まだ使える。
だから捨てずに回す。
この発想はきわめて素朴で、同時に合理的でもある。
物を最後まで使い切るという意味でも、資源の延命という意味でも、その理念自体には一定の価値がある。

だが、現在のフリマ市場には、その原点からずれた空気が漂っている。
中古なのだから安くて当然。
不要品なのだから譲る側が譲歩して当然。
少しでも自分の期待と違えば不満を言い、場合によってはクレームを入れる。
そこでは、出品者の側が引き受けている保管、確認、撮影、説明、梱包、発送、やり取りといった手間がほとんど顧みられない。
価格だけが前面に出て、その価格が自分の理想より高ければ「高い」と判断される。
価値や背景を見ようとする姿勢は薄く、あるのは「どれだけ安く手に入るか」という一点への執着だけである。

ここで生じるのは、単なる価格交渉の問題ではない。
市場における価値判断の質そのものが変質しているという問題である。
本来、物の価格は状態、希少性、手間、信頼性、必要度といった複数の要素によって成り立つ。
にもかかわらず、その全てが捨象され、「自分が気軽に払えるかどうか」だけが基準になるとき、市場は価値を媒介する場ではなく、欲望を処理する場へと変わっていく。


そもそも「安い」とは何なのか。
この問いは、本来それほど単純ではない。
安いか高いかは、その物自体の質だけで決まるのではなく、それを受け取る側の必要性や理解の深さによっても変わる。
本当に必要なものなら、人は価格だけで判断しない。
必要性が高ければ、ある程度の負担は引き受ける。
少なくとも、「欲しいが高い。だから相手が下げるべきだ」という短絡にはならないはずである。
ところが現実には、欲望はそのままに、負担だけを拒否する態度が広がっている。
欲しい。
だが高い。
だから我慢するのではなく、相手が譲るべきだと考える。
この発想は、節約や合理性というより、欲望の制御を他者に肩代わりさせる態度に近い。

本来、欲しくても手が届かないとき、人はそこで一度立ち止まるべきである。
我慢する。
諦める。
優先順位を見直す。
そうした抑制こそが理性であり、人間社会の前提でもある。
人を人たらしめているものの一つは、欲望を持つことではなく、欲望を制御できることだからだ。
それにもかかわらず、自分の手の届かなさを他人の価格や責任の問題へとすり替え始めたとき、市場に残るのは価値の理解ではなく、欲望の幼児化である。

この違和感をさらに強めているのが、フリマ市場に未使用品が過剰に並んでいる現実である。
本来、不要品市場であるはずの場所に、なぜ未使用品がこれほど多いのか。
もちろん、買ったが使わなかった、もらったが合わなかった、といった事情はあり得る。
そうした単発の未使用品に不自然さはない。
しかし、それが大量かつ継続的である場合、もはや「不要品の再流通」という説明だけでは足りない。
そこには簡易的な販売、在庫処分、仕入れ、転売といった別の論理が入り込んでいる。
つまり、フリマは不要品を回す場であると同時に、安く物を売買するための雑多な市場へと変質しているのである。

未使用品が多いこと自体が悪いのではない。
問題は、そのことによって市場全体の感覚が歪むことにある。
本来なら「使わなくなったが、まだ使えるもの」が妥当な価格で流通する場だったはずなのに、「新品に近いものを、より安く手に入れたい」という欲望が市場の標準になる。
すると買い手の基準はさらに厳しくなる。
価格は低く、状態は良く、対応は丁寧で、説明は明快であることが求められる。
しかし、その要求を支える側の時間や神経や空間コストは、相変わらず軽視されたままである。
ここには、現代の消費者意識の歪みがよく表れている。

そしてこの歪みは、フリマ市場だけの問題ではない。
より大きく見れば、日本社会そのものの空気と深くつながっている。
それは絶対的な飢餓や窮乏ではなく、社会全体が相対的に余裕を失っているという問題である。
欲しいから買う。
必要だから対価を払う。
そうした単純な消費よりも、少しでも損をしたくない、少しでも得をしたい、できるだけ安く済ませたいという意識が前面に出ている。
その結果として、価格への過敏さが強まり、小さな損得への執着が人間関係や市場の振る舞いにまで滲み出ている。

この意味で、日本社会は「絶対的貧困社会」ではないかもしれない。
だが、少なくとも「相対的に余裕を失った社会」ではある。
しかもその余裕のなさは、単に家計の問題としてだけではなく、価値判断や態度の問題として現れている。
高いなら諦めるのではなく、高いこと自体を相手の問題に変える。
手が届かない現実を受け入れるのではなく、自分の不満をクレームや要求として外に向ける。
そこには経済的な貧しさだけではなく、精神的な貧しさ、あるいは抑制の喪失がある。


人は欲望にまみれた生き物である。
この事実そのものは否定できない。
欲しいものを欲しいと思うこと自体は、何も間違っていない。
だが問題は、その欲望に節度があるかどうかである。
節度のある欲望は、価値を理解し、限界を知り、時には我慢を引き受ける。
節度を失った欲望は、環境、節約、再利用といった綺麗な言葉をまといながら、実際には「少しでも安く得をしたい」という願望だけを押し通そうとする。
そのとき、環境配慮という理念は、欲望の免罪符へと変わる。

だからこそ、フリマが本当に環境に優しいのかという問いは、単なる仕組みの評価では終わらない。
それは、私たちが何を価値とみなし、何を当然と考え、どこまで欲望を制御できるのかという問いでもある。
再流通という理念は正しい。
だが、その理念を掲げた市場の中で、実際には安く手に入れたい欲望ばかりが肥大化しているのだとすれば、その市場はすでに理念から離れている。
環境という言葉の美しさだけで、そのズレを覆い隠すことはできない。

そう考えると、「売れないなら捨ててもいいのではないか」という問いも、単なる乱暴な結論ではなくなる。
捨てないことだけが善ではない。
誰かの善意や我慢の上に成り立つ循環は、すでに循環として歪んでいる。
必要な人が正当に受け取り、適切な対価を払い、互いに納得した上で成り立つ再流通には意味がある。
しかし、その条件が崩れている場面まで「環境のため」という言葉で正当化する必要はない。
物を抱え続けることによって、自分の空間、時間、精神が削られていくのなら、処分という選択もまた十分に合理的である。

フリマは本来、不要品を循環させるための場だった。
しかし今、その場はしばしば、安く得をしたい人々の欲望と、余裕を失った社会の空気を映し出す鏡になっている。
環境配慮という言葉は美しい。
だが、その美しさの裏で、価値の理解が失われ、欲望の幼児化が進み、他者への要求だけが強くなっているのだとしたら、そこで問うべきものは「エコかどうか」ではない。
本当に問うべきなのは、私たちの社会が、どこまで価値の基準を失い、どこまで損得に支配され、どこまで貧しさを日常化させてしまったのか、ということなのだと思う。


Nemesis - ASTRA -


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