真実の愛について
以前、私は「真実の愛」についてという記事を書いた。
その時の私は、愛とは感情ではなく、覚悟を引き受け続けることだと考えていた。
今も、その考えは変わっていない。
けれど今の私は、愛をもう少し広い場所から見ている。
愛とは何か。
そう聞かれた時、多くの人は、誰かを大切に思うこと、守りたいと思うこと、そばにいたいと願うことだと答えるのかもしれない。
それは間違いではないと思う。
家族を大切にすること。
友人を思うこと。
恋人を愛すること。
自分にとって近い存在を守ろうとすること。
それらは確かに愛の一部だと思う。
けれど、私はそれだけが愛のすべてだとは思わない。
むしろ、真実の愛は、自分に近い存在だけに向けられるものではないのではないか。
自分と関係のある人。
自分に優しくしてくれる人。
自分を理解してくれる人。
自分に何かを返してくれる人。
そういう相手に関心を向けることは、ある意味では自然なことだと思う。
けれど、自分とは直接関係のない人。
顔も知らない人。
名前も知らない人。
自分に何かを返してくれるわけでもない人。
そういう存在にまで関心を向けられるかどうか。
私は、そこにこそ"愛の本質"があるのではないかと思う。
愛の反対は、憎しみだと言われることがある。
けれど、私はそうは思わない。
憎しみは、まだ相手を見ている。
怒りも、失望も、悲しみも、まだ相手が自分の世界の中に存在している。
本当に冷たいのは、無関心だと思う。
無関心とは、相手を見ないこと。
考えないこと。
存在していないものとして扱うこと。
そこに誰かがいても、苦しんでいても、傷ついていても、自分には関係ないと切り離すこと。
それは、相手を直接傷つけることよりも静かで、分かりにくい。
けれど、とても冷たい。
なぜなら無関心は、相手の存在そのものを自分の世界から消してしまうからだ。
愛とは、強い感情だけを指すものではないと思う。
好きだという気持ち。
大切にしたいという気持ち。
守りたいという気持ち。
それらも愛ではある。
けれど、それ以前に愛とは、相手の存在を認識することなのではないか。
自分とは違う誰かがいる。
自分とは違う場所で生きている誰かがいる。
自分とは違う痛みを抱えている誰かがいる。
そのことを、なかったことにしない。
それが、愛の始まりなのだと思う。
人は、自分に近いものほど大切にしやすい。
家族。
友人。
恋人。
顔の見える誰か。
名前を知っている誰か。
それは自然なことだ。
けれど、愛をそこだけに閉じ込めてしまえば、愛はとても狭いものになる。
自分の手の届く範囲だけ。
自分に利益のある範囲だけ。
自分の感情が動く範囲だけ。
そこにしか関心を向けられないのなら、それは愛というより、ただの選別に近いのかもしれない。
もちろん、すべての人を同じ熱量で愛することはできない。
それは綺麗事だと思う。
誰に対しても同じように深く関わることはできないし、すべての痛みを自分のものとして背負うこともできない。
けれど、だからといって、関係のない人を存在しないものとして扱っていい理由にはならない。
真実の愛とは、すべてを抱えることではない。
見返りのない存在に対しても、関心を完全には閉ざさないこと。
自分とは無関係に見える誰かを、無関係だからという理由だけで切り捨てないこと。
そこに、愛の本質があるのではないかと思う。
愛は、感動するための言葉ではない。
優しい人間に見せるための装飾でもない。
都合のいい時だけ掲げる綺麗な旗でもない。
愛とは、存在をなかったことにしない態度だと思う。
誰かの痛みを見た時。
誰かの孤独を知った時。
まだ見ぬ誰かの未来を考えた時。
自分には関係ないと切り捨てるのか。
それとも、少なくともそこに誰かがいることを認めるのか。
その差は、とても大きい。
今の時代は、情報は多い。
けれど、関心は浅い。
見ているようで、見ていない。
知っているようで、向き合っていない。
誰かの痛みも、誰かの努力も、誰かの存在も、すぐに流れていく。
反応は速い。
けれど、関心は長く続かない。
だからこそ、愛という言葉も軽くなっているのかもしれない。
愛が失われたのではない。
愛が生まれる前に、関心が途切れているのだと思う。
本当の愛とは、派手な感情ではない。
近くにいる誰かだけを大切にすることでもない。
自分と直接関係のない存在を、存在しないものとして扱わないこと。
知らない誰かに対しても、無関心で終わらせないこと。
それが、私の考える真実の愛である。
Nemesis - ASTRA -
