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3.11に、祝ってはいけないのか

卒業祝いの赤飯が廃棄されたというニュースを見て、正直違和感しかなかった。

理由はシンプル。
「配慮」がズレてる。

3月11日。
忘れてはいけない日なのは分かるし、忘れられるはずもない。

でも、だからといって
“祝うことまで否定する理由になるのか?”

今回の件は、震災の日に赤飯という「祝いの象徴」を出したことに対して異論が出て、中止。
結果、2100食が廃棄された。

ここで一つ考えたい。

その卒業生たちは、2011年に生まれた世代。
震災と同じ年に生まれた子どもたち。

この事実、軽く見ていいものではない。

震災=悲しみ
それは間違いない。

でも同時に、
その日、確かに命は生まれている。

そして、ここからが本質だと思う。

その子どもたちは、
もしかしたら家族を失っているかもしれない。

母親が、父親が、兄弟が、祖父母が。
顔も見れないまま別れた命があるかもしれない。

そんな現実の中で生まれてきた命。

軽いはずがない。

むしろ、
「生きていること」
「今ここにいること」

その重みや感謝を、
誰よりも知っている可能性すらある。

それでもなお、
その子たちの卒業という節目を、
“遠慮するもの”にしていいのだろうか。

悲しみを忘れないことと、
今を祝うことは、対立しない。

両方、成立する。

むしろ、それが自然だと思う。

どちらかを選ぶのではなく、
どちらも抱えたまま前に進む。

それが、本当の意味で
震災を受け止めることじゃないのか。

悲しみを守るために、
命の価値まで削る必要はない。

それはもう配慮ではなく、
ただの思考停止だと思う。


Nemesis - ASTRA -


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