“多様性”という名の不寛容――その嘘を見抜く視点
世界がばかばかしく思えてきた。
いろんな解釈があって、考えがあって、視点がある。
同じ記事を読んでも、共感する人もいれば、反対する人もいる。
話題は――何でもいい――。
それを目にする度に思う。
……一体、何なんだろうって。
冷静に分析したいのに、
どれも正解に見えて、どれも不正解に見える。
正しさは、立場で変わる。
言葉は、都合よくねじ曲げられる。
「多様性」と言いながら、
その実、許される多様性しか認められていない。
何かを言えば、「差別だ」と言い出す。
本来の多様性とは:
自分が不快に思う価値観とも、対話する努力を放棄しないこと
→「嫌だから排除」じゃなく、「なぜ自分が嫌だと感じるのか」すら掘り下げる視点。矛盾する意見が同時に存在していても、即座に裁こうとしないこと
→白黒ではなく、“グレーのまま置いておく”余白を保つ力。「自分が正しい」という感情をいったん保留にできる成熟さ
→自分の正義が、他人の暴力になることもあると知っている謙虚さ。
要するに、多様性とは「違っていい」じゃなくて、
「違って苦しくても、共に在ろうとする意志」。
だけど、今の社会はどうかというと――
それを“心地よさ”と"偽り"でラッピングして、誤魔化してる。
例えば:
「LGBTQを認めよう」──でも、“生理的に無理”と感じる人の違和感は語ってはいけない空気がある。
「外国人を受け入れよう」──でも、「文化的にしんどい」と感じた側の声は排除されがちだ。
これって、“本当の多様性”を守ってるようで、実は一部しか許してない。
社会は「LGBTQを認めよう」と言うけれど、
“生理的に無理”と感じた人の違和感は語ることすら許されない。
「外国人を受け入れよう」と掲げながら、
「文化的にしんどい」と感じた側の声は排除されがちだ。
これって、本当に“多様性”なんだろうか。
今の「多様性」は“ブランド”や“善人アピール”に使われがちで、
本質を伴っていない。
本来の多様性は、矛盾を抱える勇気。
そして、「共感できなくても尊重する」という知性。
それはすごく疲れるし、脳みそも心も使う。
でも、それが本物だと思う。
少しでも意見が違えば、叩いて、叩いて、叩いて――叩き続ける。
“違い”を見つけた瞬間に、
人は叩き始める。
叩いて、叩いて、叩いて――
まるで、それが正義かのように。
これが、いま私の目に映っている現実です。
思考を止めたまま叩く世界に、最後にひとつだけ言いたい。
切り取られた一文だけで、鵜呑みにし人格ごと裁かれる。
流れも意図も関係なく、「間違い」と断定される。
考えることを放棄したまま、叩く。
読解力のない人が増えすぎて、もう、言葉が届かない。
……ただ、疲れた。
