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お葬式に思う。

「坊さんのお経なんて何言ってるか分からないし、葬儀屋はぼったくり。お葬式なんて意味がないから、したくない。親戚づきあいもめんどくさい」

「自分のときは葬式なんてしなくていい。戒名も墓もいらない。死んだ人間にお金使うくらいなら、残るみんなでおいしいものでも食べてほしい。自分の骨は、そこらへんにまいてくれればそれでいい」

毎日毎日、SNSでそんな文章が目に入り、日々の現場とのギャップに少しうんざりしている。

たぶん、お葬式の現場で働いている人なら、この「うんざり」の意味が分かると思う。

「それはあなたがお葬式に関する仕事をしているからでしょ。仕事がなくならないように、葬儀を肯定しているだけじゃないの?」という声が聞こえてきそうだけど、正直、流れに淘汰されていく仕事は今までもあったし、これからもあるわけで。

それが葬儀社の式典スタッフかもしれないことは、小規模な葬儀が増えて、現場の人間が一番危機感を持っている。

で、その中でも、淘汰されやすいであろう「外注司会者」としての私が、なぜ、SNSの文言にうんざりしているのかを、今日はまとめてみたいと思う。


1 坊主丸儲け&葬儀屋はぼったくり なのか

これに関しては、もう直接、やりとりのあるお寺や葬儀社に、いろいろ聞いてみてほしいと思う。

長年お付き合いのあるお寺で「葬儀とは。お経とは。戒名や法名とは。どんな意味があり、なぜ行われ続けているのか」「お布施とは」「法事とは」、疑問や不満に思っていることを、正面からお尋ねした上で、いくら考えても納得いかなければ、もうネットに書く以前に、好きにすればよいのではないか。

そして、葬儀社に対しても同じで、見積りに納得いかなければ、サインしない、他をあたる、交渉する、予算を提示してその範囲におさめるなど、いくらでもぼったくられない方法はある。

これらを確認しない状態で、ネット上で、しかも日本全体サイズで人の仕事を侮辱するのは「寺院」「葬儀社」に限らず、人としてとても失礼だと思う。どんな仕事でも、懸命に働いている人間は、必ずいるのだから。

実際、私がお世話になっている現場でも、所謂Z世代と呼ばれる若いスタッフが、毎日一生懸命接客しているのを見ている。

2 お葬式は、誰のためのものなのか

これは、正直ちょっと難しいと、私自身も痛感している。
というのが、年老いてきた母と死後のことについて話すことがたびたびあり、母の「こうしてほしい」と、娘の「こうしてあげたい」には、かなりのギャップがありそうなのだ。

先日はちょっと言い合いを超えて、軽いケンカのようになってしまった。まだ起きてもいないことで、と、お互いシュンとして、半月ほど会いにも行かない状況になってしまった。

実は我が家は両親も子2人も無宗教。葬儀を伴うお寺とのお付き合いがない。引っ越しが多かったため、お墓もない。子は2人とも未婚。
現時点で母は、直送→海洋散骨を希望している。

本当にそれが願いであれば、かなえてあげたいと思うけれど、この先手を合わせる場所がない、というのは子としては寂しいし、なぜ「海」なのかが分からず、形あるものを水に流してしまう気にはなれない。

多趣味で付き合いの幅も広い母には、おそらくたくさんの友人もいる。中には、最後に会いたいと言ってくださる方もいるだろう。そういうお付き合いを、無視したくない気持ちもある。

葬儀に宗教を絡めるか否かは、その家の判断だと思う。実際に肉親を亡くして、初めて儀式の必要性を感じる人も、少なくない。

人として生きて、そして死んでいく。
その形ある最後の日に、自分がどうありたいのか、また自分の大切な人をどう見送りたいのか。誰のために必要な時間なのか。今まだ模索中である。

3 人は人に影響し、生きている

新型コロナは、葬儀の在り方に幅をもたらした。
家族葬という新たなジャンルが生まれ、お別れの会という無宗教の進行も多くなった。
家族葬を「ジャンル」と表現したのは、家族によって、その受け取り方があまりにも違うから。

「家族葬=価格が安い」、「家族だけ」で行う(←密葬と混同されがち)、「家族と親族」で行う、「家族と親族と、ごく親しい友人だけ」で行う。

「家族葬で」と言いながらも、身内がついLINEで広めてしまった結果、結局式場サイズに全く合わない人数が集まる一般葬になるものも。。。(←実はこれ、頻繁にある)
直葬、1日、2日、骨葬。そして従来の一般葬。宗教、無宗教、お別れの会などなど。

どんな形であれ、人が集まり見えてくることは、生きていれば、人は必ず人に影響を与えている、という揺るがない事実。良くも悪くも、深くも浅くも。

お釈迦さまの最期に集まった弟子たちは、師の最期の教えを得、感謝と労いの心で悲しみを分かち合いたかったわけで、人が人に影響したことへの最後の行動の原点が、この気持ちなのだろうと思う。

4 「うんざり」の正体

冒頭に書いたSNSでの「うんざり」の正体や、2で書いた、母と娘の気持ちのギャップは、おそらくこの「影響」が、おきざりにされているからだろうと思う。

人は自分が思う以上に、自分と言う存在が、周りに影響を与えていることを知らない。もしくは気付かないフリをする。
そして、その影響を最後に回収させてもらえないのは、死を受け入れる側が気力を削られる要因になりえる。

以下、実体験として書く。
宗教・無宗教問わず、縁ある人が集まり、思い出話をすることは、代えがたい時間となることが多い。
知らなかった一面を知る。昔の写真を見つける。ときに、誰も目にすることのなかった、伴侶への恋文まで見つかり、家族親族味わったことのない気持ちとあふれる涙で、場が温められることもある。

お葬式で一番大切なことは「弔う心」。
亡くなった人の人生を、無かったことにしないこと。それぞれの時間の中で、影響しあえたことを喜べること。心にとどめること。とにもかくにも、まずはこれだと思うし、実際ほとんどの現場では、これらが大事にされている。

5 お葬式

自分の死後どうしたいのか、残される側はどう見送りたいのか。その話をする前に、まずは、自分の人生、相手の人生に、もっと愛情と肯定感と尊敬の念をもってみてもいいのではないか。

もちろん、誰でもたくさんの失敗はあるし、恥ずかしい過去もある。複雑な事情もあるし、分かり合えないこともある。死はそれらをすべてまぁるくおさめて、プラスマイナスゼロにする。

葬儀司会者としてできることは、その過程を最後に少しだけ、第三者としてお手伝いし、かつ冷静に温かさをもって、スムーズに進行することだと思う。

今後、小規模化、効率化、またAIがどう絡んでくる可能性があるのかなど、いつまでこの仕事を続けて行けるのか不安はあるけれど、私はこの仕事が好きだし、やはり、人が人を送るのが葬儀だと思っている。

人は最後の最後、棺を抱えてもらうところまで、誰かに頼らなければ炉に入ることもできないのだと思うと、この身体が愛おしくなるし、やはり誰かしらに惜しんでもらえる、弔ってもらえる人生を送りたいと思う。

たとえそうならなかったとしても、だ。

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