京大「うんち」学園祭と国旗損壊罪

つい最近のネットニュースで、京都大学の学園祭「11月祭」の今年の統一テーマが「うんち」に決まったという記事を発見した。

私は京大出身者ではないが、かつて大学祭の実行委員をしていたこともあって「ややっ!」と思って記事を読んでみたが、その概要は次の通り。

①統一テーマは学生の投票で決定されていて、「四年に四度の祭典」「時計台は燃えているか」等の候補の中から、予備投票・決選投票を経て「うんち」となった。
②テーマ選定の趣旨を伝える「趣意文」も公表されていて、その全文は
「便とは、体の送る便りである。
我々の体内を通りその営みの多くを見届けた、我々ひとりひとりの歴史の証人である。一度出てしまえばまずもって再び我々の一部と見なされることはないし、当然その限度こそあるが、彼らを隈なく観察することでそれまでの我々の歩みを、生きた様を推し量れるのもまた事実である。
京都大学という大きな一つの生物を俯瞰した時に、それが排泄するものとは一体何であるか。 我々である。入学を以て我々は食べられた。そして大学を卒業なり退学なりした時点で、我々は最早京大生ではない。だがしかしその身には、京都大学という生物がいかにその歩みをその時代に進めてきたかが克明に刻まれている。 学祭という一大催事は、その刻まれるべき歩みにとって際立って大きな数日となろう。 故にこそ我々は、この催しを通じてこの大学の良さを伝えられる便りとなろう。 いずれ京都大学のうんちとなる全ての者に、この数日だけでもこの場所を訪れてうんちとなる全ての者に、多大なる幸運ちのあらんことを。」

であった。

かのフロイト大先生が名付けた「肛門期」の幼児(1歳半から3歳頃)は「うんち」のような言葉を大ぴらに言うのを好むとされるが、このような大学祭の統一テーマを世間に公表する際には
「趣意文は『催し』や『通じ』とか『幸運ち』などのパワーワードをちりばめつつも、天下の京大の学園祭にふさわしく全体としては「うんち」くの香り漂う「クサい」文章にして幼児性を払しょくすべきだ」
等と言う熱「ケツ」論議が戦わされたに違いないと想像して笑ってしまった。

でも、再度「趣意文」を確認してみたら、今年のテーマ「うんち」とはもろに京大生・京大OB(含む中退)を指しているのだから、実は「京大生」という学園祭のテーマとしては極めて平凡で普通は絶対ボツになるレベルのものの単なる言い替えに過ぎないテーマじゃないかと気づいて、「な~んだ、やっぱり大したことないじゃん!」と今度は歪んだ優越感を覚えてしまったw(性格悪っ!)。

当然ながらこの記事に対するコメントは面白半分の大喜利大会の様相を呈していて、「さすが、百万便の大学」(蛇足:京大は京都の「百万遍」に本部構内がある)とか、「11月は銀杏の臭いもあるんだよなー」等のツッコミで賑わっていた。
しかし中には、「小学生を連れて行けない。」とか「何考えてるねん? これはちょっと…。」「国立大としての品位にも欠けます。 国立大学、とりわけ卓越大には膨大な税金が投入されています。こんな大学に税金を投入するのは、いい気がしません。 京大の卓越大認定を取り消すべき」等と不快感を示してマジメに怒っている方もいた。
やっぱり人によって快・不快の受け止めには差があるものなのだという事が再確認される。


話が大きく変わるが、快・不快の受け止めに関してはつい最近施行された国旗損壊罪の成立においても大きな論点になった。

8/19の朝日新聞の「憲法季評」という連載コラムのテーマに国旗損壊罪が採り上げられていた。
筆者は安藤 馨氏という法哲学者で風貌はトド系(失礼)みたいだが、いつも切れ味鋭い筆致に感心させられていた。
ここのところしばらく、この「憲法季評」が掲載されていなかったので「連載が終了したのかな」と残念に思っていたが、久しぶりに拝読した氏の論評には感心してしまった。

内容を的確にまとめるのは私ごときには荷が重いけど、恥を忍んで要約すると、
「国旗を大切に思う国民感情」を害する行為を処罰することについて、国旗損壊という行為によって判断することの是非は、憲法が保障する「表現の自由」に対する規制問題という視点だけには留まらない。

国家が国民の自由を規制する際の古典的な原理は、全ての国民がそれぞれ自由に幸福追求を行うための共通基盤である国民の生命・身体・財産の保護に対する危害を防ぐことに限定されるべきという理念であった。(これを「危害原理」と呼ぶ)

一方で古典的な危害原理の対象にまでは該当しないレベルの騒音や悪臭という不快行為についても、今日的には正当な規制対象とされる傾向にある(「不快原理」)が、規制の範囲を安易に拡大すると時々の多数派の好き嫌いの強制がそのまま許容されてしまい、自由な社会が損なわれてしまう。

そこで規制される「不快」についても普遍的でかつ具体的な基準が比較的容易な生理的嫌悪感(悪臭・騒音等)にとどめ、国旗の焼却等を目にすることに対する嫌悪感といった個々人の特定な価値観や信念をもとにする類のものの防止は本来除外するべき。

しかし、信念に基づく感情の保護を目的とした表現規制の実例として「礼拝所不敬罪(刑法188条1項)」が既にあって、宗教感情は法的保護の対象になっている。(注:しかも宗教への感情と国旗への感情を法的に定性的・定量的には区別することは困難という趣旨か)

従って国旗損壊罪をめぐる問題の本丸は表現の自由や感情の保護を越えたところにあるはずではないか。
国民が「国旗を大切に思う」とする感情において保護されるべきは旗や感情そのものではなく旗が象徴する「何か」である。
国会審議で欠けていたのは、「日本国旗が何を象徴しているのか」という正面からの論議だった。

戦前戦後の国体変動を生き延びて来た日章旗は、変動を貫く歴史的な国民統合を象徴し、かつ「普遍的理念」をあえて象徴しない(ことにより、価値に関する特定の見解を民主的論議と象徴の対象から排除しないという利点がある)ものとして理解されるのではないか。

・そもそも国民への服従要求を含む民主政の正当性と健全性は国民の統合抜きには維持できない。
その基盤として過去・現在・未来にわたる国民の共同体とその問題を「我がこと」として自発的に受け止める態度即ち市民が備えるべき「徳」が求められるのではないか。

・最大の問題は、国旗損壊罪が来的の目的であるはずの国民統合の象徴を保護することが達成できない事にある。
刑罰による威嚇は自発性を毀損する。奴隷の勤勉さは真の「勤勉」ではないように、強制された「徳」は本当の「徳」ではない。
刑罰を必要とする国旗の存在は、本来自発的に引き受けられるべき国民統合の象徴足りえない。 だから国旗損壊罪は余計であり有害である。

この記事を読み終わったときには、ちょっと圧倒されてしまった。
これまで国旗損壊罪に対する批判はたいてい表現の自由や思想信条の自由に対する侵害はすべきではないという趣旨であったし、私もそう理解していた。
だから、それらは問題の本丸ではなくもっと本質的な部分があるという指摘は私的には目からウロコの内容であった。

ただし、学術論文ではないはずの新聞の記事としてはちょっと難解な言い回しが多すぎる。
京大の学生は中身の乏しさを「趣意文」の言い回しで糊塗しようとしていたが、安藤氏は難しい事を難しく書いていて文意が伝わりにくい。
これほどの内容だったら、もっと平易に書かないとそれこそ見解の普遍性を獲得できずに勿体ないんじゃないかな。(まあ、これは発注する側の新聞社の責任かもしれないけど)


いいなと思ったら応援しよう!