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表現をなくせば、差別はなくなるのだろうか

漫画「みいちゃんと山田さん」をめぐって、日本自閉症協会が意見書を公表したというニュースを読みました。

この作品では、「みいちゃん」という女性が、夜の街でさまざまな困難に遭遇する姿が描かれています。

日本自閉症協会は、作品そのものだけでなく、「みいちゃん」という言葉が、知的障害や発達特性のある人を揶揄する言葉として使われている事例が報告されていることや、当事者や家族から不安や不快感が寄せられていることなどを指摘しています。

こうした声を軽く扱ってはいけないと思います。

実際に傷ついている人がいるのなら、その声には耳を傾けなければならない。

ただし、そうした出来事が報告されていることと、この作品によってそれらが生まれたり増えたりしたと証明されていることは、分けて考える必要があります。

そのうえで私は、このニュースを読みながら、もう一つのことを考えていました。

「表現が人に悪影響を与える可能性がある」ということと、「その表現をなくすべきだ」ということは、同じなのだろうか、と。

私たちは、何度も同じ議論をしてきた

漫画、アニメ、映画、テレビ、ゲーム。

新しい娯楽や表現が社会に広がるたびに、「子どもに悪影響を与えるのではないか」「暴力を助長するのではないか」という議論は、これまでも繰り返されてきました。

たとえば、暴力的なゲームと現実の攻撃性との関係についても、長年研究が続けられています。

ところが、その研究結果はそれほど単純ではありません。

暴力的なゲームへの接触と、その後の身体的な攻撃性との間に小さな関連があるとするメタ分析がある一方で、別のメタ分析ではその関連は非常に小さく、より研究方法の質が高い研究に限定した分析では、統計的にゼロと区別できないという結果も報告されています。

もちろん、これは今回の作品が障害のある人への偏見や差別にどのような影響を与えるかを直接調べた研究ではありません。

まったく異なる問題を扱った研究です。

ここで紹介したのは、ある表現に触れたことと現実の人間の行動との関係を、単純な一本の因果関係として説明することには慎重であるべきではないか、と考えるための一つの補助線です。

少なくとも、

「暴力的なゲームをする」
  ↓
「暴力的な人間になる」

という単純な図式だけで説明できる問題ではなさそうです。

人は、それほど単純な存在ではないからです。

同じ漫画を読んでも、感じることは人によって違います。

同じ映画を観ても、ある人は感動し、ある人は不快に感じ、ある人は何も感じないかもしれません。

育ってきた環境も、経験も、価値観も違います。

だから私は、ある表現だけを取り出して人の行動との関係を考えるときには、慎重でありたいと思っています。

それでも、表現に責任はないのか

では、作品を作る側には何の責任もないのでしょうか。

私は、そうとも思いません。

今回、日本自閉症協会が指摘しているのは、単なる「将来、悪影響があるかもしれない」という可能性だけではありません。

協会は、「みいちゃん」という言葉が知的障害や発達特性のある人を揶揄する言葉として使われている事例が報告されていることや、当事者や家族から不安や不快感が寄せられていることを挙げています。

もちろん、それだけで作品との因果関係が証明されたことにはなりません。

それでも、表現が人のものの見方にどのような影響を与える可能性があるのかについて、私たちは考える必要があるのだと思います。

だからこそ、誰かの弱さや苦しさを題材にするときには、その人を単なる「面白い存在」「かわいそうな存在」として消費していないかを考える必要があるのではないでしょうか。

特に、現実に偏見や差別にさらされる人たちを描くのであれば、なおさらです。

ただ、それでも私は、

「悪影響を与える可能性があるから、その表現をなくす」

というところまで一気に進むことには慎重でありたいと思います。

表現を消せば、問題は消えるのか

仮に、差別につながる可能性のある漫画やアニメをすべてなくしたとします。

暴力的な作品もなくす。

誰かを傷つける可能性のある表現もなくす。

そうすれば、差別や偏見はなくなるのでしょうか。

おそらく、そんなに簡単ではありません。

差別や偏見を生み出すものを、一つの漫画やアニメだけに求めることはできないからです。

私たちの社会の中にある価値観、人と人との関係、教育、家庭環境、インターネット上の言葉。

いろいろなものについて考える必要があります。

そう考えると、本当に必要なのは、

「この表現を許すか、禁止するか」

という二択だけではないように思えてきます。

「見ないようにする」より「どう見るか」

今回の問題に、簡単な答えは出せません。

作品を見て傷ついた当事者や家族の声は大切にしたい。

同時に、表現する自由も大切にしたい。

その二つは、どちらかを選べば済む問題ではないと思います。

だからこそ必要なのは、作品そのものを社会から遠ざけることだけではなく、私たちがその作品について考え、話すことなのではないでしょうか。

「なぜ、この表現に傷つく人がいるのだろう」

「なぜ、自分は面白いと思ったのだろう」

「この人物を、自分は一人の人間として見ていただろうか」

そんな問いを持つことです。

子どもに対しても同じかもしれません。

「見てはいけない」と遠ざけるだけではなく、ときには大人が一緒に見て、

「あなたはどう思った?」

「この人はどんな気持ちだったと思う?」

と話してみる。

もちろん、年齢に応じた配慮やレーティングは必要でしょう。

けれども、表現から完全に隔離することだけが、人を守る方法ではないと思います。

誰かの「弱さ」を見ているのか、その人を見ているのか

そして今回のニュースを読んで、私が一番考えさせられたのはここでした。

私たちは、誰かの苦しみを見たとき、その「苦しみ」だけを見てはいないでしょうか。

障害のある人。

貧困にある人。

虐待を受けた人。

生きづらさを抱えている人。

そうした言葉は、その人が置かれている状況を理解するためには必要です。

けれど、その言葉の向こうには、一人の人間がいます。

好きなものがあり、嫌いなものがあり、誰かを大切に思い、迷いながら、自分の人生を生きている人です。

「かわいそうな人」として見ることも、ときにはその人を一つの属性の中に閉じ込めてしまうのかもしれません。

誰かの苦しみを知ることと、誰かの苦しみを消費すること。

その境界線は、思っている以上に曖昧です。

だから私は、その境界線について考え続けることが大切なのだと思います。

答えを決める前に、問い続ける

表現には力があります。

人を勇気づけることもあれば、人を傷つけることもあります。

だから、作る側にも、届ける側にも、そして受け取る側にも、それぞれ考えるべきことがあります。

ただ、何か問題が起きるたびに、

「禁止すればいい」

「表現の自由だから何をしてもいい」

という二つの答えだけに分かれてしまえば、その間にいる人たちの声が聞こえなくなってしまいます。

誰かが傷ついているなら、その声に耳を傾ける。

同時に、本当に何がその人を傷つけているのかを考える。

そして、自分とは違う考え方にも耳を傾ける。

すぐに答えを決めるのではなく、問い続ける。

それもまた、誰かと共に生きるために必要な姿勢なのではないでしょうか。

あなたは、どう思いますか。

誰かを傷つける可能性のある表現と、私たちはどのように向き合っていけばよいのでしょうか。


参考・出典

スポニチアネックス
「【全文】『みい山』巡り日本自閉症協会が意見書 当事者や家族から不安の声 団体の意見書公表は3例目」

https://news.yahoo.co.jp/articles/b1a10f3bf80c64e3436a21ac1ba4ce7238e9f03a

Prescott, A. T., Sargent, J. D., & Hull, J. G. (2018)
“Metaanalysis of the relationship between violent video game play and physical aggression over time”
Proceedings of the National Academy of Sciences

https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC6176643/

Drummond, A., Sauer, J. D., & Ferguson, C. J. (2020)
“Do longitudinal studies support long-term relationships between aggressive game play and youth aggressive behaviour? A meta-analytic examination”
Royal Society Open Science, 7, 200373.

https://pmc.ncbi.nlm.nih.gov/articles/PMC7428266/


この記事を書いた人

2026年6月、岡崎城公園(愛知)にて

神谷 佳希

人生について考え続け、その歩みに寄り添う人

司法書士|行政書士|土地家屋調査士

プロフィール

大学生の頃、クーリングオフ制度を利用した経験から、「社会で生きていくためには、法律や制度を知ることが大切なのだ」と実感しました。

その経験をきっかけに法律を学び始め、現在は司法書士・行政書士・土地家屋調査士として、一人ひとりの人生に寄り添う仕事をしています。

私が本当にお手伝いしたいのは、法律手続そのものではありません。

一人ひとりが自分で考え、自分で判断し、自分らしい人生を選び、安心して歩み続けられるよう伴走することです。

そのために、法律や制度、必要に応じて生成AIも活用しながら、一緒に考え、一緒に歩んでいます。

このnoteでは、法律、生成AI、人生について、「自分で考えること」を大切にしながら発信しています。

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