【ペチペチと、からだで感じる子どもの成長】
「痛い痛い
もっと優しく叩いておくれ」
夕食後に歯を磨いていると、もうすぐ5歳になる息子がそそくさとわたしの背後に回り込み、ズボンとパンツをジワジワと下ろしに掛かってきた。
夏の部屋着のズボンのゴムは、泥酔した時の判断力くらいずぶずぶに弱い。
少しでも涼を取るための工夫とみているが、このような有事の際の防御力の弱さったらない。
しかしこんなこともあろうかと、実はすでに対策済みなのである。だてにやんちゃな子どもの父親をやっているわけではないのだ。ゆるゆるのゴムの他に、外側に出ている紐をしっかり結んであり、ヒップトップにギリギリ引っ掛かる。
さらに防御力を高める為に、やや外側に足を開いて仁王立ちスタイルを誇示し、ギリギリ尊厳を保っている。
半ケツは出てしまっているけれど、これならば道端で警察官に出会っても、ファッションだろうなと見送るか、職質すべきかギリギリ迷うラインのはずである。
鏡の向こう側には、露出に成功した半ケツをボンゴのようにリズミカルにはしゃぎ叩く、息子の満面の笑みが見えた。
これまでの人生でわたしの尻が、こんなにも誰かを満面の笑みにした事があっただろうか。しかも、ただ半分露わになった尻を叩かれているだけで、芸人のように仕込んだ尻ネタを披露したわけでもない。それなのに、このパフォーマンスである。まさに尻冥利に尽きるというものだ。
これもひとつの幸せのカタチだろうか。

しかし、残念ながらわたしにはスパンキングで喜ぶような癖はない。なにかイケナイことをして、息子に躾られているわけでもないし、息子が太鼓の達人にハマったわけでもない。ましてやわたしが尻の叩き方を教えてしまったわけでもないのだ。
これまで息子の尻を叩いた事がないとは言わないが、文字通り尻を追いかけ回してお尻をペシペシしたり、こちょこちょ遊びのついでに脇腹や尻タブにブチュ〜として、ブブ〜‼︎っと息を吹き付けクニクニと触ることはあったが、尻をボンゴのように叩いて遊んだことはない。その為わたしを真似したわけでもなく、彼が見つけだした独自の楽しみ方なのである。
この楽しみ方を発見してから、時々わたしの尻は叩かれている。
以前はいくらか見上げて尻を叩いていたのに、今では尻と同じ高さの目線だ。仕返しにお尻を突き出して反撃していたので、攻撃目標である息子の顔の高さの違いすら、わたしは体で分かるのだ。
双丘の起伏の上半分が露わになったわたしの尻は、リズミカルにペチペチと叩かれまくっている。
それにしても、痛いのである。
去年まではペチペチと叩かれてもまだ心地良い?レベルで笑って応えていられた。これ程までに痛くはなかったはずだが、今はしっかりと痛い。露出している部分が赤くなっていないかと心配になりもしたが、いつの間にか、背丈と共に息子の力もこんなに強くなったんだなと、こどもの成長を尻の痛みで感じたのだった。
しかし、そろそろ耐えきれない。
成り行きに任せて間抜けな半ケツ姿をさらしながら歯を磨き続けていたわたしは、諭すように優しく息子に言った。
「痛い痛い
もっと優しく叩いておくれ」
すると息子はちゃんと叩き加減を調整して、ソフトな叩き方にしてくれた。野生の動物が仲間や兄弟とじゃれ合いながら噛み方の力加減を学んでいくように、息子もわたしとじゃれ合いながら、叩き加減を学んでくれているのだ。
しかし、素直に学び随分と柔らかくなった叩き方はどこか物足りなく感じてしまい、もう少し…と願ってしまったわたしがいた。
時としてこどもの成長は、どこか寂しく感じるものである。

息子は赤ちゃんの頃から、おしゃぶりの代わりに毎晩ガーゼを口に咥えて眠っていた。今でも眠くなると自分でマイガーゼを引き出しから取ってきて、深い眠りにつくためのルーティンのようにハムハムハムと咥え出す。
夜の僅かな隙間時間、ソファーで本を読んでいた私の隣にコロンと寝転がり、小さな両手で大事そうにガーゼを握りイジイジし、口に咥えて「コッコッコッコッ」と、どこから鳴っているのか分からない、哺乳瓶のミルクを吸い飲むような不思議な音とリズムを奏でながら、まどろむ瞳を静かに閉じる。
無垢な寝顔はなんて可愛いのだろう。
頭から足を撫でても片手で届いてしまう。まだこんなに小さい存在なのだと、愛おしく思う。

元から優しい性格ではあるが、最近何でも分けてくれるようになった。以前クッキーを分けてくれたときには米粒くらいの大きさで、「分ける意味とは」と、その哲学じみた本質を考えてしまったが、いまではちゃんと一口分、半分近く分けてくれる。
春頃からか添い寝をしている時に、自分で「コッコッコッコッ」と咥えているガーゼの別角の未使用部分を「はいどーぞ」と時々分けてくれるようになった。
それはまるで、熱戦を繰り広げたサッカー選手が試合後にユニフォーム交換をするような、あるいは初めて間接キスをするような、なにかが胸を駆け抜けていくような熱い感動を覚えたのだった。
こんな大事なものまで分けてくれるのかと感慨深く、せっかくの申し出を無下にはできないと思い、遠慮なくハムハムさせていただいた。さながらカップルがひとつのジュースを2本のクルクルストローで飲みウフウフとするアレである。
息子のように上手く音は出せなかったけれど、そんなわたしの姿を見つめ、息子はとても満足そうだった。

そんな息子が先日、初めて「ガーゼしないで寝ようかな」と言った。わたしは息子の成長の瞬間に立ち会ったのだ。ささやかなひとり立ちへの一歩である。
されどその宣言は、わたしにとって衝撃的で寂しすぎた。思わず「えー、まだガーゼで寝なよ」と言ってしまった。
あともう少し、せめて5歳まではガーゼを咥えて眠る姿を見ていたい。もし次に申し出があったり、しれっとガーゼを使わずに眠るようになったなら、これまでバウンサーやベビーカー、オムツなどで何度か経験して来た、赤ちゃんグッズからの卒業を甘んじて受け入れようと思う。

お気に入りの自動車柄の靴下がないだけでイヤダイヤダと駄々をこね、あんなに困ったイヤイヤ期も、いつの間にか通り過ぎていた。
ガッシリと太そうな骨格は母親の家系譲りで、いまは弱々しいボール投げだって、いつの間にかわたしがキャッチできない豪速球を投げるのだろう。
わたしに大事なガーゼを分けてくれたように、いつか大事な誰かとクルクルストローでウフウフとする日がくるのだろう。
こんなふうに、いつの間にか成長していく子どもの姿を、これからもじゃれ合いながら見守っていきたい。
