過去のいい女たち 4 (同棲の女01)
日曜日以外は、ほぼ毎日この流れだった。
俺が仕事を終えてアパートに戻ると、彼女はもう出かける準備を終えていることが多かった。鏡の前で口紅を引きながら「おかえり」と言い、二歳の男の子は玄関で靴を履こうとしてもがいている。彼女の連れ子だ。前の男との間に生まれた子で、俺たちと同棲を始めてからずっと一緒に暮らしている。
「行ってくるね」と彼女が言うと、俺は車のキーを手に取る。子どもをチャイルドシートに乗せて、彼女が助手席に座る。
夜の空気が入ってきて、彼女の香水が薄く香る。スナックに行くための、少しだけ濃いめの匂い。
送り届けるまでの十分か十五分は、短い。子どもが後ろで何か独り言を言っている音と、彼女が窓の外を見ている横顔だけがそこにある。信号待ちのとき、彼女がふと俺のほうを見て、小さく笑うことがあった。何も言わない。ただ笑う。その笑みが、一日の終わりに近い時間の俺を、少しだけ柔らかくした。
彼女を降ろして、一人で帰る道は静かだった。
アパートに戻ると、テーブルの上に晩御飯が用意してある。彼女がバイト前に作ってくれたもの。簡単な煮物や、温めて食べられるものが多い。俺はそれを一人で食べて、子どもとお風呂に入る。二歳の体は軽くて、湯船の中でくすぐると大声で笑う。20時には布団に入れる。寝つきは良かった。小さく息をする音だけが残る。
そこからが、俺の長い夜の始まりだった。
テレビを小さくつけて、ソファに座る。彼女から電話が来るのを待つ。店が終わる時間は日によって違う。だいたい深夜の一時か二時。電話のベルが鳴ると、彼女の少し疲れた声がする。
「今、終わりそう。迎えに来て」
その声を聞くと、体が自然に動く。寝ている子どもをそっと抱き上げ、コートを羽織らせて車に乗せる。チャイルドシートに座らせても、ほとんど目を覚まさない。夜の道を走りながら、後ろから聞こえる小さな寝息だけが、車内の静けさを保っていた。
スナックの前に着くと、彼女がもう外に立っていることが多かった。コートの襟を立てて、小さく手を振る。車に乗り込むと、今度は彼女から夜の匂いがする。煙草と、アルコールと、他人の気配が混じった匂い。
「お疲れ様」と言うと、彼女はシートに体を預けて、短く息を吐く。後ろの子どもには目もくれず、ただ「ん……帰ろう」とだけ言った。
子どもはもう寝ている。部屋に入っても、声は自然と小さくなる。彼女は化粧を落としながら、鏡越しに俺を見ることがあった。目が合ったまま、少しだけ沈黙が落ちる。その沈黙の中で、彼女は何かを考えているように見えた。あるいは、何も考えていないようにも見えた。
どちらでもよかった。
俺はただ、彼女が帰ってきたという事実を、静かに受け止めていた。
それが、いつもの夜だった。
でも、この夜は違った。
電話が来たのは、いつもより明らかに早かった。まだ22時を回ったばかりの時間だ。画面に彼女の名前が出た瞬間、俺は少しだけ身を起こした。
「もしもし」
「あ、今いい? ちょっとね、仕事終わってからお客さんと飲みに行きたいんだけど」
声のトーンが高かった。いつもの、バイト終わりの疲れた低さではない。少し弾んでいる。テンションが上がっているのが、はっきりと分かった。
「……飲み?」
「うん。いいお客さんでさ。誘われちゃって。遅くなると思う」
仕事柄、彼氏がいるとか、子どもがいるとかは言わない。それは分かっていた。店では「自由な女」でいる必要があるらしい。だから、予定が空いていれば、そういう席に出ることもある。それ自体は、初めてではなかった。
ただ、この夜は、子どもがいる。
「子どもは?」と、俺は短く聞いた。
彼女は少し間を置いてから、笑った。
「いいじゃん、寝てるし。お願いね」
その言葉を聞いたとき、胸のどこかが、わずかにひりついた。
子どもを放っておいて、か。
変だな、と思った。でも、声の弾み方を聞いていると、今さら止めるのも野暮な気がした。
彼女はこういう性質の人間だ。それを知った上で、同棲している。
「……分かった。気をつけて」
電話はそれで切れた。
受話器を置いたあと、部屋は急に静かになった。子どもは隣の部屋で、変わらず小さく息をしている。俺はソファに座り直して、天井を見た。
許可は出した。
しょうがない、とも思った。
でも、電話の最後に彼女が言った「愛してるよ」が、いつもより軽く聞こえた気がした。
気のせいだろう、と自分に言い聞かせた。
それから俺は、いつものようにテレビをつけたまま、彼女が帰ってくる時間を待ち始めた。
ただ、その待ち方が、今夜だけは少しだけ違っていた。
深夜2時を少し回った頃、再び電話が鳴った。
画面に彼女の名前が出たとき、俺は少しだけ息を止めた。受話器を取る。
「もしもし」
「あ、ねえ……」
声が、さっきよりさらに弾んでいた。はっきりと酒が入っている。舌が少しもつれて、息が熱っぽい。
「どこに迎えに行けばいい?」と聞くと、彼女は短く息を吸ってから言った。
「……お願いがあるの」
「お願い?」
「うん。言いにくいんだけど……絶対に、聞いてほしい」
俺はソファの背に体を預けたまま、天井を見た。「とりあえず、話してみろ」とだけ返した。
彼女は少し間を置いてから、話し始めた。
独身の、20代前半の男と飲んでいるらしい。やたらとテンションが高くて、めっちゃ自分好みの男なんだと言う。
さらに、童貞だと聞かされたらしい。真偽のほどは確かめようがない、と彼女自身も付け加えた。
俺は静かに聞き返した。
「それで、それがどうした」
彼女の声が、一段と低くなった。
「……その初物の、童貞が食べたいの」
一瞬、言葉の意味が頭の中で 混乱した。
ここから先は
¥ 1,000
この記事が気に入ったらチップで応援してみませんか?
