掌編小説「かよわい彼女」
彼女の体はとにかく繊細だった。
少しの気圧の変化や気温の揺らぎが、そのまま体調に直結した。
天気予報で「気圧が下がります」と聞けば、
案の定その日の午後には頭痛を訴える。
冬場の乾燥が強まれば深夜に咳き込んで目を覚ます。
医師の診察を何度も受けたが、
どの医者も「経過観察」と曖昧に濁すばかりだった。
ただひとつ確かに言えるのは彼女が一人では生きていけず、
常に誰かの助けを必要としているという事実だった。
僕の生活はすっかり彼女の看病を中心に回るようになった。
毎朝六時に起床し部屋の温度と湿度を確認する。
エアコンのリモコンを操作し加湿器の水を足す。
夏でも冬でも、室温は二十四度、
湿度は六十パーセント、
これが僕にとっての小さな使命だった。
七時になると彼女を静かに起こしベッドサイドで体温を測る。
ピッという電子音が鳴ると、
その数値と脈拍を専用のノートに記録する。
食事は一日三回。
献立は決まって消化に優しいものばかりだ。
三分粥に湯豆腐、具のない茶碗蒸し、
すりおろしたリンゴと味気ないと思われるかもしれないが、
彼女にはそれが精一杯だった。
塩分や油分をほんのわずかに加減し柔らかさを調整する。
食後三十分が経過すると、
.ぬるめの白湯とともに薬を手渡す。
僕は五年前に仕事を辞めた。
理由は単純で彼女のそばを長時間離れることができなかったからだ。
両親が残してくれた遺産を専門家に管理させた結果、
倹約すれば十年は働かずに生活できると分かった。
僕は迷わなかった。
その資産はすべて彼女との生活に捧げるべきものだと心に決めていた。
最初のうちは友人や元同僚が家を訪ねてきてくれた。
彼らは花や果物を持ってきて気遣いの言葉をかけてくれたが、
次第に本題を切り出すようになった。
「君の人生はどうするんだ。このままでは倒れるのは君の方だ」
「彼女は君の善意に依存しすぎている。一度、距離を取るべきだ」
僕はその言葉を受け止めきれなかった。
彼らには、この生活がどれほど大切か理解できないのだと思った。
やがて忠告は説教に変わり、
僕が黙って聞き流すようになると足を運んでくれる人はいなくなった。
時間が経つにつれて僕の身体は目に見えるほど消耗していった。
夜中に二度三度、彼女の咳で起こされるため、
連続して眠れるのはせいぜい二時間。
日中も意識が霞むことがあり、
食事は彼女の食べ残しか、調理の合間に立ったまま口へ運ぶ程度だった。
気がつけば体重は十キロ近く落ち、
頬はこけ、服はぶかぶかになった。
ベルトの穴を一つ内側にずらしたとき、
はっきりと「僕は削られている」と実感した。
ある日の午後、
いつものように盆に彼女の食事をのせて運んでいたとき、
突然、視界から色が抜け落ちた。
頭の奥で大きな音が鳴り、
手の中の盆が床に落ちる衝撃だけを感じ、
次の瞬間には意識が闇に吸い込まれていた。
目を覚ますと、病院のベッドに横たわっていた。
横を見ると彼女が椅子に座っていた。
公共交通機関を使って一人でここまで来たらしい。
「あなたも病気になってしまったのね。これからは私が看病するわ」
そう告げる彼女の声は妙に晴れやかに聞こえた。
その直後、看護師が病室へ入り僕の症状を説明した。
極度の過労と栄養失調。
数日は点滴で栄養を補う必要があるという。
看護師が点滴の準備を進めていると、
彼女が首をかしげながら尋ねた。
「あの……点滴って、ご飯の代わりになるものなんですか?」
僕の思考は凍りついた。
長年入退院を繰り返してきたはずなのに点滴の基本すら知らないのか。
思い返せば彼女はいつも自分の症状を曖昧に語るばかりだった。
僕が医学書を調べて解説しても、
ただ「そうね」と頷くだけで深くは触れない。
新しい治療法を提案しても「怖いわ」とか
「あなたがいればそれでいいの」と感情に逃げ込む。
腕に針が刺さり冷たい液体が体内に流れ込んでいく感覚を抱きながら、
僕は静かに結論にたどり着いた。
彼女の病気は存在しないのだと。
それからの日々、彼女は僕を看病した。
でも食事のトレーをうまく置けず汁物をこぼしたり、
体温測定を忘れたりすることが何度もあった。
そんな中、僕の隣のベッドには一人の老人がいた。
看護師たちの会話から、
その老人が身寄りはないが相当な資産を持っていると耳にした。
彼女は次第に、その老人へと視線を送るようになった。
最初はただじっと見ているだけだったのに、
数日後には親しげに声をかけるようになった。
「あら、この本をお読みになるんですね。私も好きな作家ですの」
「お食事、あまり進んでいませんね。何か召し上がりやすいものを持ってきましょうか」
老人はしわがれた声で礼を言い、
彼女の訪れを心底嬉しそうに受け止めていた。
僕はその様子をベッドから黙って見ていた。
彼女の関心と時間が確実に僕から隣の老人へ移っていく過程を、
はっきりと理解できた。
僕の役割は終わったのだ。
彼女は次の寄生先を見つけた。
それは紛れもない事実であり、
そこに僕の感情が入り込む余地はなかった。
病室の窓から差し込む光が床を横切り、
ゆっくりと動いていく。
その光を、僕はただ無心に見つめ続けていた。
