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設計・施工に失敗した大王墓か?応神天皇陵=誉田御廟山古墳(大阪府羽曳野市)

 先日、新聞記事で「応神天皇陵に巨大石室発見。室戸台風(1934年)の翌年、前方部から巨大な竪穴式石室が見つかり、旧宮内省が調査!」とあり、そういえば応神天皇陵をゆっくり周回したていなかったことに気付き、愛車(といっても自転車)を走らせことにした。

本日は日曜日だ。平日であれば御陵印を記帳してもらえるらしい。
宮内庁の陵墓前にある高札
天皇陵拝所までの道(ゴミ一つない)
拝所正面(前方部の森)

 まずは拝所を訪れた。思えば小学校時代に日本で2番目に大きい古墳という文言に引かれ友人と見学した記憶がある。勿論、大きいという感覚には違いないのだが、実物は古墳の片鱗すらもわからない。眼前に鬱蒼と茂る森を見て、前方後円墳を想像できる訳でも、中に入れる筈もなく失意のまま他の立ち入れる古墳を見学したように思う。今回は応神天皇陵を周回することが目的だ。車でもなく徒歩でもないので多少の住宅街なら攻め入ることが出来る。まずは、全体像のわかる外濠や外堤のある北西側から訪れることにしよう。

応神天皇陵上空写真(下が北)
応神天皇陵測量図(下が北)左横の前方後円墳が二ツ塚古墳

 応神天皇陵、応神天皇陵古墳、誉田御廟山古墳(こんだごびょうやま)とかの名称がある。(ここでは親しみを込めて応神天皇陵とする。)概要を記してみる。
墳丘長(全長)425m、
前方部幅300m、高さ36m、後円墳部径250m、高さ35m、総全長650m、
墳丘:三段築成、くびれ部に造出し
盛土量:1,434,730㎥(日本最大の土量)
とにかく巨大だ!仁徳天皇陵の次に大きな前方後円墳で、教科書には盛土量では日本最大の古墳と紹介されている。しかしこれも周辺地形や地盤から考察した机上のもので、その当否はわからない!が正解であろう。しかし、少なくとも周囲の濠を掘った土で盛っただけでは、高さ35mかつ三段の墳丘を築くことは到底不可能であることはわかる。どの地域から土を運搬しのか?労働力だけでも凄い!。
(造営労働力:1日1,000人×4年との試算。)因みに他の古墳の土量も推定算出されている。
仁徳天皇陵(全長525m)盛土量:1,367,062㎥
履中天皇陵(全長365m)盛土量: 610,795㎥
とのことである。日本最大規模の仁徳天皇陵とは全長で約100mの差がありながら計算上の土量で67,688㎥も上回っているのである。
また、後円部は直径250mという、とてつもない大きさだ。因みに日本最大の円墳で長大な蛇行剣+盾形銅鏡の出土で著名な富雄丸山古墳の直径は109m、応神天皇陵の後円部は富雄丸山古墳の2倍の規模もあるのだ。(築造時期が若干?富雄丸山古墳の方が古い)

左の森は内堤、中央が外濠、向こうに金剛山を望む。425mの直線だ!(北から)
手前は外濠、正面高まりは内堤、肝心な墳丘は見えない(西から)



手前は外濠、右手が内堤(南から)
説明板
後円部付近、正面の民家から左へ曲がってゆく(北から)

上記、古墳の墳丘全体図面を見て頂きたい。まず右下が大きく崩れている状態であることがわかる。その原因として、
①崩壊部分は「尾張坂」といい、古墳造営に際して尾張の国が参加しなかったため、未完に終わった。古墳未完説
②南北朝~室町時代に誉田城として利用された。城築城説
③古墳の東半分(崩壊部分)は低い段丘の西縁辺部であり、南北には活断層が走っている。また西側は本来、氾濫原でありその上に盛土を構築させたので地盤が軟弱であるところに地震(M7.0クラス)が発生し崩壊した。地震崩壊説。
現在では③の説が有力だ。また不思議なことに、幕末における尊王攘夷論から天皇を尊ぶ思想が流行し、幕府による各天皇陵の修復(幕末の修陵という)がなされたが、これほどの巨大な古墳(天皇陵)が大崩壊しているにも関わらず、修復されていないのも不自然だ。

応神天皇を祀る誉田八幡宮
古墳の天井石の一部か?
後円部からの参道(前方部の宮内庁拝所の逆)
放生橋
放生橋説明板
正面向こうは後円部頂上の奥社に通じる階段がある!

 さて、本題に入ろう。再度、上記、応神天皇陵測量図を見て頂きたい。右側下が崩壊している部分、そして左側下には小さな前方後円墳がある。この古墳は二ツ塚古墳と呼ばれ、小さいとはいうものの全長107mもある。応神天皇陵がその4倍に当たる破格の規模なので小さく見えてしまうだけであり、他地域へ行けば立派な大豪族クラスの古墳だ。これだけの大王墓の造営に際して緻密な設計施工が行われたことは想像に難くない。事実、各地の前方後円墳は見事なシンメトリー(左右対称形)を描いている。応神天皇陵も本来(当然であるが)左右対称形の前方後円墳の完成を目指し工事に入ったに違いない。
 しかしである。あろうことか100mの設計ミスのため、前代に築かれていた二ツ塚古墳にぶち当たってしまったのだ!ご覧になるとよくわかるが二ツ塚古墳の周囲は丁寧に輪郭が確保されている。そのために敢えて内堤を曲げ(当然、内濠はその部分が狭くなっている。)ざるを得なくなったのだ。当時の現場監督がどの地点で二ツ塚古墳に当たることを知ったのかはわからないが、明らかな設計施工ミスである。夜も眠れず生きた心地がしなかったに違いない。(城造りの時代であれば、クビ=斬首刑ものである。)
 これは言い換えると、二ツ塚古墳は大王墓の施工を歪めても確保されなければならない重要な人物が葬られているのである。あと100m西側に設計施工していれば、二ツ塚古墳のエリアを避け、かつシンメトリーな最高傑作の古墳が築けたのである。但し、当初から意図的に(二ツ塚古墳を)取り込み歪な設計であったなら話は別だが…。本当に歪な形を見ることができたのは上空から観察した者である。思うに、応神天皇陵は失敗作であったと思う。何故ならそう考える方が、古代人も同じ人間!と思えるからである!ある意味人間業でない作品であるとも言えよう。





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