言語的である。ということ

今朝の姉とのトークテーマは『言語的である』ということについて。
今の日本は、本当に沈みかけていると思っていて政治から目を離せない日が続いている。

SNSで政治について発言すると、たまにものすごい数のリプがついたりする。
賛同するものもあれば反対するものもあるし、どこからその発想になるのか皆目見当もつかないような斜め上からの言葉なんかもあったりする。その度に、これぞ社会って感じする〜!とワクワクしたりしているのだけれど…。

とにかく、SNSの世界にいると文字が読めても文章が読めないという現象が、実際にこんなにも多くあるのだと実感する。

『ケーキの切れない非行少年たち』(だっけ???)にもあるように、寂しいも悲しいも悔しいも怖いも全部が「ムカつく」としか表現できない人たちは、実際に目に見える『非行』に走らなくても潜在的にたくさんいて、SNSで見ず知らずの人に暴言を浴びせていたりする。

たぶん、うまく言葉にできないから、きちんと話を聞いてくれる存在を作ることができなくて、インターネットという顔が見えない空間でうまくない言葉を投げつけるしかないのだろう。それは彼ら本人のせいではなく、そういうふうにしか育つことのできなかった社会に問題があるのではないだろうか。

そんなことを考えていると、二児の母としては『言葉を尽くすことの大切さ』を子どもたちに伝えていかなければ、という命題に帰着する。
物事には前提があって、その前提が崩れていると議論にならないから、前提を知らなければならないこと。
でも、相手の前提が崩れている可能性もあること。社会は広くてたくさんの人がいること。想像できないことが実際に起きていること。

よく『本を読むと頭が良くなる』なんていうけど、必要なのは本を読むという行動よりも、文字から世界への想像を広げることや、単純に言葉を知ること、同じ意味でもニュアンスの違う表現があることなんかを知っていくことなのではないかなと思う。


『言語的である』
わたしも得意なわけではないから、鍛錬するべく文字にしてみましたとさ。
読んでくれた方がいらしたら、ありがとうございます😊

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