結婚って、名字を揃えることですか?——名前の余白
📖第四章 それぞれの正しさ
カフェの扉が開くたびに、外の風が少しだけ入ってくる。
そのたびに、カップの中の紅茶が小さく揺れた。
理奈はその揺れを、ぼんやりと見つめていた。
「で、今日はどうしたの?」
優美が静かに切り出す。
亜耶はストローをくるくる回しながら、少し楽しそうにしている。
理奈は少しだけ息を吸う。
「この前の話の続き、かな」
優美がすぐに察するように頷く。
「名字のことね」
その言葉に、理奈の胸がわずかに反応する。
もう“特別な話題”ではないはずなのに、まだどこかで特別なままだ。
亜耶が軽く笑う。
「また考えてるんだ」
その声には、責めも驚きもない。
ただ“らしさ”として受け止めている感じがあった。
理奈は少しだけ視線を落とす。
「考えないといけない状況になってきててさ」
優美は紅茶を一口飲む。
そして、ゆっくり言う。
「結婚のこと?」
理奈は頷く。
その瞬間、空気が少しだけ変わる。
重くはない。けれど軽くもない。
亜耶が言う。
「私はさ、あんまり引っかからなかったんだよね、その辺」
理奈は顔を上げる。
亜耶は続ける。
「名字変わるのって、最初はちょっと違和感あったけど、生活してたら慣れちゃったっていうか」
その言葉は自然だった。
だからこそ、理奈には少し遠く感じる。
優美が静かに補う。
「私は逆に、最初からあまり抵抗がなかったわ」
理奈はその二つの言葉を、ゆっくり受け取る。
(慣れる人もいる)
(最初から気にならない人もいる)
その“幅”を知るほどに、自分の違和感が浮かび上がる。
理奈は小さく言う。
「私だけ、変なのかなって思うときある」
その言葉に、亜耶は少しだけ首を振る。
「変っていうか、ちゃんと感じてるだけじゃない?」
優美も静かに言う。
「“当たり前に乗れない人”っていうのは、どこにでもいるわよ」
理奈はその言葉に、少しだけ救われる。
でも同時に、別の感覚も生まれる。
(みんな違うのに、同じ制度の中にいる)
優美が紅茶を置く。
「結婚って、結局“個人の感覚”と“制度”の折り合いなのよね」
その言葉は、理奈の中で静かに響く。
亜耶が少し笑う。
「理奈はさ、その“折り合い”をちゃんと見てる側なんだと思う」
理奈は少しだけ戸惑う。
「見てるだけ?」
亜耶は首をかしげる。
「うん。流されるとかじゃなくて、ちゃんと“どこで違和感が出るか”を見てる」
優美が続ける。
「それって、結構しんどいことよ」
その言葉に、理奈は少しだけ目を伏せる。
(しんどいのか)
(でも、それを止める方法も分からない)
カフェの外では、人が行き交っている。
誰もがそれぞれの名前で呼ばれ、それぞれの家族の形の中にいる。
その光景を見ながら、理奈はふと思う。
(この世界には、“違和感を持たない前提”がある)
でも自分は、その前提に完全には乗れていない。
優美が静かに言う。
「でもね、理奈」
理奈が顔を上げる。
「その違和感は、多分“間違い”じゃないわよ」
その言葉は、慰めでも断定でもない。
ただの観察のようだった。
理奈はその言葉を、ゆっくり飲み込む。
(間違いじゃない)
(でも、正解でもない)
その“どこにも属さない感覚”が、少しだけ自分を楽にする。
亜耶が軽く笑う。
「まあ、みんなそれぞれのやり方でやってるってことでいいんじゃない?」
理奈は小さく笑う。
「雑だね」
亜耶も笑う。
「でも現実ってそんなもんでしょ」
その軽さが、今日は少しだけ優しく感じられた。
理奈はカップを見つめる。
紅茶はもうほとんど残っていない。
(私は一人で悩んでるわけじゃない)
(ただ、それぞれの“当たり前”が違うだけ)
その事実が、少しだけ視界を広げる。
そして理奈はまだ知らない。
この“個人の違和感”が、やがて制度そのものへの問いへと変わっていくことを。
カフェの外で、風が少しだけ強く吹いた。
それぞれの正しさが交差しながら、静かに通り過ぎていく。
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