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結婚って、名字を揃えることですか?——名前の余白

📖第六章 受け継がれていく揺れ

夜のインターホンは、少しだけ唐突だった。

「今、少しいい?」

母の声。

昼間とは違う、どこか静かな響きだった。


理奈は玄関を開ける。

そこに立っていた母は、買い物袋ひとつだけを持っていた。

いつものようで、いつもと少し違う。


「上がるね」

そう言って、母は当然のように部屋へ入る。


テーブルに袋を置くと、しばらく沈黙が流れた。

理奈はお茶を出しながら、その沈黙が“準備されたもの”であることに気づく。


母がゆっくり言う。

「昼間の話ね」


理奈は小さく頷く。


母はカップを両手で包むように持つ。

「あなたにちゃんと話しておこうと思って」


その言葉は、少しだけ重かった。


「私ね」

母は視線を落としたまま続ける。

「名字が変わるとき、すごく迷ったの」


理奈の手が止まる。


(やっぱり)


母は小さく息を吐く。

「当たり前にそうするものだと思ってたし、周りもそうだった」

「でもね、本当は少し怖かったのよ」


理奈は黙ったまま聞く。


「自分の名前が、自分のままでなくなる感じがして」


その言葉に、理奈の胸が小さく揺れる。


(同じだ)


母は少しだけ笑う。

「でも、結局そのまま進んだの」


その笑いは軽くない。


「納得したわけじゃない。でも、“その先に何があるか”を見たかった」


理奈はゆっくり息を吸う。


(納得していなかった)

(でも進んだ)


その事実が、理奈の中で静かに形を変える。


母は続ける。

「でもね、不思議なことに」

少し間。

「そのあと、“別の自分”として生きる時間もちゃんとできたのよ」


理奈は顔を上げる。


母は静かに言う。

「名前が変わっても、自分が消えるわけじゃなかった」


その言葉は、優しいようでいて、確かだった。


でも理奈は思う。

(それは“消えなかった人の話”かもしれない)


母は少しだけ視線を上げる。

「でもね」


「もしあのとき、今みたいに選べるものがあったら」

少しだけ笑う。

「きっと、また違う考え方をしてたと思う」


その言葉は、理奈の中で静かに響く。


(時代が違えば、選び方も違う)


理奈は思う。

この問題には“正解”がない。

あるのは、時代ごとの選択だけ。


母が続ける。

「あなたは今、ちゃんと“選べる側”にいるのよ」


その言葉に、理奈は少しだけ息を詰める。


(選べる側)


それは自由の言葉のようでいて、責任の言葉でもあった。


母は立ち上がる。

「でもね」

玄関へ向かいながら振り返る。


「選べる人ほど、迷うのよ」


その一言を残して、母は帰っていく。


扉が閉まる。

静けさが戻る。


理奈はしばらく動けなかった。


(この迷いは、私だけのものじゃない)

(受け継がれてきたものでもある)


テーブルに残るお茶を見つめながら、理奈は思う。


母も迷った。
その前の世代も、きっとどこかで迷った。


ただ、その迷いは言葉にされないまま進んできた。


そして今、自分の前に“言葉にできる形”で現れている。


理奈は小さく息を吐く。


(私は、この揺れの続きを生きている)


この問題は、理奈一人の選択ではない。

社会の中で静かに積み重なってきた“未整理の問い”だ。


そして理奈はまだ知らない。

この“受け継がれた迷い”をどう扱うかが、
やがて彼女自身の選択そのものを変えていくことを。


夜は静かに深くなっていく。

それでも、その静けさの中には確かに“歴史の揺れ”が残っていた。

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