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洞窟案内①――「謎の社」高並神社菟道大明神は、いつから菟道稚郎子なのか

はじめに

以前、AIに私の記事について聞いてみたことがある。

AIは言った。

「あなたの記事は、入口から洞窟なんです」

もう少し読者が入りやすい入口を作った方がいい、ということらしい。

そしてAIは続けた。

「何も洞窟をテーマパークにしろとまで言っているわけではありません」

私は少しムッとして、強がった。

「男は洞窟が好きなんでい」

……などと言ってみたものの、言っていることは分かる。

私の記事は、入口に立った時点ですでに暗いのだ。

説明もないまま脇道が伸び、その脇道からさらに別の穴が開いている。

もう少し照明くらいつけてもいいのかもしれない。

しかし後になって、ふと思った。

待てよ。

だったら、洞窟そのものを紹介したらよろしい。

何も毎回、出口まで辿り着く必要はない。

「ここに妙な穴があります」

それだけでも記事になるのではないか。

奥に何があるか分からない。

途中で行き止まりかもしれない。

入ってみたら、ただの穴だったということもあるだろう。

それでも、なぜか覗いてみたくなる穴がある。

ということで、

洞窟案内を始めます。

第一回の洞窟は、大分県宇佐市にある。

ただし、その入口を見つけた場所は、

YouTubeだった。


入口はYouTubeだった


『月刊ムー』の三上丈晴さんとTOLAND VLOGサムさんのYouTubeを見ていた。

そこで、ある人物の名前が出てきた。

海部光彦。

その名前を聞いた瞬間、私は一人の人物を思い出した。

林兼明。

あれ。

海部光彦って、林兼明の……。

手元に一冊の本がある。

林兼明『神に関する古語の研究』。

海部光彦は、その林兼明の長男である。

そこで久しぶりに本を開いた。

(全然読めてない)

巻頭には、海部光彦自身が父について書いた「林兼明の横顔」という短い文章が収められている。

これが、

とんでもなく濃い。


「林兼明の横顔」が濃すぎる


林兼明は明治31年、大分県宇佐郡龍王村に生まれた。

宇佐八幡宮の旧社家の長男だった。

旧制宇佐中学校を卒業後、神宮皇學館普通科へ進むが、一年で中退。

その後、独自の学問の道へ入っていく。

ところが、この略伝。

林兼明本人だけを追っていても、まっすぐには進ませてくれない。

叔父に、

林正木

という人物がいる。

神宮皇學館を卒業した神職で、妻垣神社などの宮司を務めた。

そして大正初期、妻垣神社の神域内に、林家一統で、

神職養成学校・騰宮学館

を創立する。

この騰宮学館が、のちに思いがけないところに顔を出す。

松本清張。

海部光彦によれば、松本清張は小説『陸行水行』の導入部で、この騰宮学館を「麗筆を以って紹介」したという。

もう、この時点で妙である。

ところが、まだ終わらない。

林兼明を追っていくと、

川面凡児。

大井憲太郎。

頭山満。

筧克彦。

といった名前が次々と出てくる。

さらに、

平凡社創立者・下中弥三郎。

昭和2年ごろ上京した林は、以前から縁のあった下中を訪ねる。

そこで下中から示されたのが、

「天孫人種六千年史の研究」

という本だった。

下中は林に、この本を研究してみないかと持ちかけ、完成したなら平凡社から出版しようと約束したという。

そこから林の研究は、

メソポタミア。

バビロニア。

にまで広がっていく。

古語の話を読んでいたはずなのに、

いつの間にかメソポタミアにいる。

さらに林は満州へ渡る。

そこで登場するのが、日本法制史の研究者、

瀧川政次郎。

海部光彦によれば、瀧川は新京で建国大学教授や新京図書館長などを務め、林とは「肝胆相照らす仲」だったという。

……。

濃すぎる。

これは本当に短い略伝なのだろうか。

一人ずつ追いかけていたら、それだけで何本の記事になるか分からない。

川面凡児の穴がある。

松本清張の穴がある。

下中弥三郎と平凡社の穴がある。

瀧川政次郎を追えば満州へ行く。

メソポタミアやバビロニアにも穴が開いている。

どうやら私は、

洞窟を探すために本を開いたのではない。

本を開いた時点ですでに洞窟に入っていたらしい。

しかし今回は、

全部、入らない。

その濃密な文章をさらに読み進めていると、

私は一つの神社の名前で手を止めた。

高並神社。


二万枚の原稿を失った林兼明


昭和20年。

林兼明は満州で敗戦を迎えた。

それまで積み上げた研究原稿は、二万枚を数えるほどになっていたという。

翌昭和21年。

林は日本へ帰還する。

そのとき林は、生活物資は何も入れず、校正刷りとわずかな原稿、数冊の本だけをリュックに詰め、九死に一生を得て帰国したと海部光彦は書いている。

そして、

「命にも代えがたき二万枚の研究原稿もこの時殆ど失った」

二万枚。

先ほどまで次々に現れていた人物。

古語。

神道。

出版。

満州。

メソポタミア。

そうした研究の果てに積み上げられた原稿の大部分を、

林兼明は失ったことになる。

しかし、そこで終わらなかった。

日本へ帰った林は、再び研究を始める。

そして、その再出発の場所として海部光彦が記しているのが、

高並神社

だった。

林家の祖先たちが仕えてきた神社であり、林兼明はその宮司として再スタートを切ったという。

そして海部光彦は、その神社についてこう書いている。

「この社は八幡神と三女神を祭り、特に古名を菟道(ウヂ)大明神と称した謎の社であった。」

私はここで止まった。

謎の社。

しかも、

菟道大明神。

なんだそれ。

これだけ横穴だらけの略伝を通ってきた先で、

また新しい穴が開いた。

そう書かれたら、

覗かないわけにはいかない。

ここが今回の洞窟の入口である。


「菟道大明神」って何だ?


まず気になったのは単純なことだった。

菟道大明神とは何だ?

調べてみる。

現在の高並神社の由緒では、菟道大明神は、

菟道稚郎子

とされている。

応神天皇の皇子である。

『日本書紀』では、応神天皇の死後、大鷦鷯尊――のちの仁徳天皇――と皇位を譲り合った人物として描かれる。

しかも現在伝えられる高並神社の祭神構成を見ると、

菟道大明神が主祭神として前にいる。

応神天皇も祀られている。

しかし、同じ位置ではない。

宇佐といえば八幡。

そして八幡神は、のちに応神天皇と結びついていく。

その宇佐で、

父・応神天皇ではなく、

その皇子とされる菟道稚郎子が、

「菟道大明神」

として中心にいる。

これだけでも、なかなか妙である。

しかし私がもっと気になったのは、

その先だった。


本当に、いつから菟道稚郎子なのだろう


現在の説明では、

菟道大明神=菟道稚郎子

となっている。

しかし、

それはいつからなのだろう。

ここで、海部光彦の文章に戻ってみる。

光彦はこう書いていた。

「この社は八幡神と三女神を祭り、特に古名を菟道大明神と称した謎の社であった。」

少し妙な書き方である。

少なくともこの文章には、

「祭神は菟道稚郎子である」

とは書かれていない。

「古名を菟道大明神と称した」

とある。

では、この「古名」とは何を指しているのだろう。

神社の古名なのか。

祭神の古称なのか。

それとも、私がまだ知らない由緒があるのか。

この一文だけでは分からない。

ただ、ここで一つの問いが生まれた。

現在の由緒にある、

菟道大明神=菟道稚郎子

という説明を、

そのまま古代まで遡らせていいのだろうか。

つまり、

菟道大明神は、いつから菟道稚郎子なのか?


百社宮


しかも高並神社には、

百社宮

あるいは、

百社大明神

という旧称も伝わっている。

これも気になる。

「百社」という名前。

八幡神と三女神。

そして、

菟道大明神。

現在では菟道大明神を菟道稚郎子とする。

では、

古い百社宮では、いったい何が祀られていたのだろう。

そして、

「菟道大明神」という名前は、どこまで遡れるのだろう。

少しずつ、

洞窟が深くなってきた。


すると今度は、法蓮が出てきた


高並神社の由緒をさらに追っていくと、

法蓮

という僧が出てくる。

伝承では、菟道稚郎子が宝性山に垂迹し、その神託を受けた法蓮が祠を建立したという。

ただし、ここは慎重に見たい。

伝承される年代にも違いがあり、現在伝わる縁起をそのまま古代の史実として扱うことはできない。

一方、

法蓮という人物そのものは『続日本紀』に登場する。

大宝3年(703)、医術によって人々を治療した功績から、豊前国で土地を与えられた人物である。

後世の宇佐宮の伝承では、宇佐宮弥勒寺の初代別当ともされる。

つまり、

高並神社の由緒に突然現れるだけの、正体不明の僧ではない。

宇佐八幡の形成を考えるうえでも気になる人物である。

そして困ったことに、

同じ高並には、

もう一つ横穴がある。


高並には妙見までいる


高並神社の近くには、

龍翔寺

という寺がある。

ここにも法蓮の伝承が残されている。

寺伝では大宝元年(701)の開基。

さらに、法蓮が残した法器を埋めたと伝える「宝器塚」があるという。

そして龍翔寺には、

銅鋳妙見尊

が伝わるという。

ただし、

ここから先は分からないことが多い。

701年という年代は寺伝である。

妙見尊の制作年代も、今のところ私は確認できていない。

像の詳細や銘文も確認できていない。

だから、

法蓮とこの妙見尊を直接結びつけることは、今の段階ではできない。

ところが面白いことに、

飯沼賢司『八幡神からみる日本古代の政治と社会』には、

「法蓮・八幡神と北辰信仰(妙見信仰)」

という節がある。

(読んでない)

どうやら、

法蓮。

八幡。

妙見。

という問題そのものは存在するらしい。

だが今回は、

この穴には入らない。

一つの穴を覗いただけなのに、

横穴が増えすぎた。


年代だけ置いておく


それでも、気になる年代だけは置いておきたい。

701年 龍翔寺開基伝承

703年 『続日本紀』に法蓮が登場

712年 八幡神、鷹居社へ鎮座とする伝承

716年 小山田社へ遷座とする伝承

725年 小椋山、現在の宇佐神宮へ鎮座とする伝承

ただし、

これらは同じ種類の史料ではない。

701年は龍翔寺の寺伝。

703年は『続日本紀』。

712年以降は、後世の宇佐宮関係史料によって知られる遷座伝承である。

だから、

701→703→712→716→725

と並べて、

「ほら、つながった」

と言ってはいけない。

ただ、

並べて眺めることはできる。

暗いから、想像する。

でも、

見えないものを見えたことにはしない。

洞窟では、

それくらいがちょうどいい。


次に見るべき場所は分かっている


いろいろな横穴が開いた。

しかし、

今、私が一番知りたいことは変わっていない。

明治以前の高並神社――百社宮で、「菟道大明神」がどのように記録されていたのか。

明治期の神社明細帳。

そして『院内町誌』。

さらに遡れる古記録や棟札があるなら、それも見たい。

そこで、

「菟道大明神」という名前がいつ現れるのか。

その神は菟道稚郎子と書かれているのか。

八幡神との関係はどう記されているのか。

「百社宮」という名称とどうつながるのか。

ここを確認しなければ、

まだ先には進めない。

もし古い記録では、

「菟道大明神」と「菟道稚郎子」が必ずしも同じものとして書かれていなかったとしたら――

そのときは、

かなり深い洞窟になる。

もちろん、

最初から普通に菟道稚郎子だった、

という可能性もある。

それならそれでいい。

洞窟に入って、

何もなかった。

それも調査結果である。


洞窟の入口に札を立てる


振り返ると、

妙な始まりだった。

YouTubeを見ていた。

海部光彦という名前を聞いた。

林兼明を思い出した。

本棚から『神に関する古語の研究』を取り出した。

開いてみたら、

川面凡児。

松本清張。

大井憲太郎。

頭山満。

筧克彦。

下中弥三郎。

平凡社。

瀧川政次郎。

満州。

メソポタミア。

バビロニア。

入口から、もう洞窟だった。

その先で、

林兼明は二万枚の研究原稿のほとんどを失い、日本へ帰ってくる。

そして、

祖先たちが仕えた高並神社の宮司として再出発する。

その高並神社を、

息子の海部光彦は、

「謎の社」

と書いていた。

だから覗いてみた。

すると、

菟道大明神

がいた。

何だ、この神は。

調べてみると、

現在では菟道稚郎子とされている。

そこで、

「いつから?」

という穴が開いた。

さらに少し進むと、

百社宮。

法蓮。

龍翔寺。

宝器塚。

妙見。

八幡。

いくつもの横穴が開いていた。

しかし、

まだ一本の線では結べない。

だから、

結ばない。

暗いから、想像する。

でも、

見えないものを見えたことにはしない。

今回の洞窟案内では、

入口に札だけ立てて帰る。

そこには、こう書いておく。

「菟道大明神は、いつから菟道稚郎子なのか?」

この先に何があるのかは、

まだ知らない。

ただ――

どうやら、立派な洞窟である。

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