口先の黄 【美味しい秋見つけた】

九月の声を聞くと、市場の匂いが変わる。
氷の匂いに、脂の匂いが混じり始める。今年の一番はどれだ、と目で追うのだが、実のところ、目だけで選ぶのは難しい。光っているものは、たしかに悪くない。だが、本当に見るべきは、口先の色だ。あの黄色が濃いものほど、脂が乗っている。銀色の身に、あの一点だけ黄色が差している様は、まるで筆で点を打ったようで、毎年見るたびに、少し感心する。
店主に断ってから、尻尾を摘んで、持ち上げてみる。だらりと垂れるものは、もう疲れている。ピンと立ったまま、こちらを向いてくるようなもの。
それから、腹に指を当てる。硬いものを選ぶ。この魚は、腹から緩む。緩んだものは、焼いている途中で腹が破れて、中のものが流れ出てしまう。
今日の一匹は、それだった。
――
家に帰って、まず、水気を拭く。
拭いてから、塩を打つ。両面に、少し高いところから振る。散らばったほうがいい。ここで惜しむと、後の焼き上がりが濁る。
七輪は、勝手口の外に出す。家の中で焼く魚ではない。炭を熾して、火が回るまで、しばらくすることがない。
手が空くと、思い出す。
今朝、隣の箱を覗いていた老人が、こちらの手元を見て、ふん、と笑ったこと。
「兄さん、それは目利きだ」
そう言うと、何も買わずに去っていった。褒められたのか、からかわれたのか、いまだにわからない。この市場には、そういう年寄りが多い。物を教えるでもなく、ただ一言だけ落としていく。だが、その一言が、案外、当たっている。
炭が白くなった頃に台所へ戻ると、秋刀魚の表面に、細かい水の粒が浮いている。これを、丁寧に拭き取る。怠ると、生臭さが残る。魚を焼くという仕事の半分は、実は焼く前に終わっている。
網は、よく熱しておく。熱いうちに、酢を含ませた布で一度拭いておくと、皮が張り付かない。
頭を左、腹を手前に置く。皿に載せたとき、上になるのはその面だ。だから、その面から先に焼く。
置いた瞬間にジュッと鳴らなければ、火が足りていない。強火の遠火で、動かしたくなる気持ちを抑えて、まずは片面をじっくりと待つ。
目が白く濁り、皮が張って、ところどころ弾けてくる。焼き色がついたら、一度だけひっくり返す。何度も返すものではない。魚が驚いてしまう。
返すときは、腹に箸を立てない。頭と尾を挟んで、そっと持ち上げる。腹が破れたら、それまでだ。今日の目当てが、炭の中に落ちてしまう。
脂が炭に落ちて、煙が立つ。この煙こそが、秋刀魚を焼くという行為の、一番の醍醐味だと思っている。外に出したから部屋は汚れないが、そのかわり、匂いは全部こちらへ来る。服にも、髪にも残って、しばらく取れない。それでいい。取れない匂いこそ、今日という日の記録になる。
――
皮がぱりっと、身がふっくらと締まったら、火から下ろす。
大根は、力を入れずにおろす。円を描くように、ゆっくりと。九月の大根は、まだ辛い。今日は、その辛さが要る。
すだちは、少し斜めに切る。断面が広くなり、搾りやすい。搾るときは、皮を下に向ける。皮の油が細かく飛んで、香りが魚の上に落ちる。
頭は左、腹は手前。大根おろしは、手前の右に、山のように。すだちを添えて、あとは何もしない。醤油は、大根おろしの脇に、少しだけ。魚には、かけない。
上身の、頭に近いところから箸を入れる。中骨に沿って、身をそっと剥がす。
まず、そのまま。脂が来る。舌に薄い膜が張るような甘さで、これだけでも十分にうまい。
二口目に、腹のあたりを取る。
苦い。
この苦味のために、この魚を食べているのだと、毎年ここで思い出す。脂の甘さの後ろから、青いものが立ち上がってくる。そこへ、大根おろしを少し。辛さが苦味を受け止めて、すだちの酸が、全部を一度、洗い流す。
そうして、また脂に戻る。
魚は、裏返さない。上身を頭から尾まで食べ終えたら、中骨を、頭ごと持ち上げて外す。下身が、そのまま現れる。これができるようになるまで、何年もかかった。
ここで初めて、大根おろしに醤油を落とす。最初からやると、脂の味がわからなくなる。残りの半分は、そうやって、ゆっくり食べる。
尾のほうまで食べ終えたとき、皿の上に残るのは、骨と、頭だけになる。それが、秋刀魚を、ちゃんと食べたという証だ。
今年も、その季節が来た。
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