小学一年生の夏休み最終日。書けない宿題に泣いた日のこと。
ぽとり。
まだ小学一年生だった私の右目から、雫が落ちた。
落ちた先は、400字詰めの原稿用紙。
涙で濡れた鉛筆の文字は
消しゴムで消しても、消えなかった。
拭いても拭いても、落ちてきた。
「読書感想文」
それは、私がもっとも苦手とする
夏休みの宿題のひとつだった。
小学一年生の夏休み。
原稿用紙2枚。たった800字を前にして途方に暮れていたあの日。
本当に、とんでもなく、多い文字数だと思った。
まだ7年しか生きていないのに。
こんな宿題を強制でさせるなんて、
大人は悪魔だ、と思っていた。
毎年、思った。
やめたい、やめたい、逃げたい、と思った。
でも、逃げることはできなかった。
時計の針が、妙にうるさかった。
でもたとえ無音だったとしても、
私は結局書けなかったと思う。
子どもの頃、「先生、あのね」が好きだった。
1年生のときの担任木原先生は、優しい笑顔と穏やかな話し声の、落ち着いた女の先生だった。
この頃からわたしはとても引っ込み思案だったけど、木原先生になら、話せる気がした。
文字でなら、書ける気がした。
だから、「あのね帳」にはどんどん書いた。
先生は、よく褒めてくれた。
だから私はもっと期待に応えたくて、
一生懸命、考えた。
作文を、頑張った。
教室にもよく張り出された。
だから、親は余計にわからなかったと思う。
「読んで、思ったことを書くだけやろ?」
「何が、書けない?」
「もう、夜の11時だぞ。」と、言った。
「わからない。」
「何て書いたらいいのかわからない」
そう言っても、机の前から
離れられなかった。
だから、私は書いた。
書きたくないことを書いた。
書きながら、絶対にちがう、と思っていた。
感想文は
強制されて書くものではない。
人に見せるものでもない。
読んだ本のタイトルを言うことすら
嫌なのに。
そんな私が選んだ読書感想文の本は、
『赤ずきんちゃん』だった。
これなら、「普通の小学1年生の女の子」が
選んだ本として、人に言っても恥ずかしくない本ではないか、と考えたからだ。
「シンデレラ」はよくない。
お姫様に憧れてるの、と思われたら笑われそう。
「桃太郎」の話も好きだけど、小1の女の子が選ぶにはちょっと。
男の子なら、ありかなと思うけど。
うん、「赤ずきんちゃん」がちょうどいい!
たぶん、みんな聞いたことがある話だし。
少し子どもっぽい気はしたが、
一年生ならセーフだよね、とも思った。
よかった、決まった。
そんな気持ちで選んだ。
わりと好きな童話でもあった。
最後、おおかみのお腹を切る部分だけ、怖くて苦手だったけど。
「赤ずきんちゃんを読んで」
タイトルを書いた後に、名前を書いた。
わたしは、
と書いた後、続きを書こうとしても、
書けないことに気がついた。
本当は、もっと前から気付いてた。
だから、最後までとりかかれなくて
後回しにしてしまったのだ。
机に向かえば書けるかと思ったけど、
やっぱり言葉が出てこない。
“わたしは、「赤ずきんちゃん」という本を選びました。”
と、書いたらいいのかな。
でも、題名に書いてあるんだから、わかるか。
じゃあ、本の説明から?
その中で、思ったことを書いていけばいいのかもしれない。
そんなふうに思った。
「赤ずきんちゃんは、おばあちゃんの家に向かっていると、おおかみと出会います。」
…思うこと、なし。
「おおかみは、赤ずきんちゃんに話しかけました。」
…うん。
おばあちゃんのために、赤ずきんちゃんはお花を摘みにいきました。
…。
そして、赤ずきんちゃんはおばあちゃんの家に向かいました。
…。
おおかみは、おばあちゃんのフリをして、
こんなことを言いました。
…
ようやく、2枚目にいって、話は終わった。
物語の文を書く中で、
「ここで、こんなことを思いました。」
を挟んでいこうと思ったけど
気付けば赤ずきんちゃんとおばあちゃんは笑っていて、物語は終わっていた。
そう、私には特に感想がなかった。
だってもう何度も読んだ話だったから
今さら思うことなんて、ほとんどない。
それに、思ったことを書くのなんて
恥ずかしいし…。
でも、とりあえず書いた。
原稿用紙を埋めることはできた。
「書けた」と自信のない声で
親に渡すと、「これのどこが感想文なんや」
と言われた。
知らないよ。
書いたことないんだから。
って思ったけど、
私も書きながら思ってた。
これって、ただ物語をそのまま
書いただけじゃないのかなって。
私はもう疲れていた。
でも、書かないといけなくて。
私、一年生だよ?
もう夜の11時だよ?
鉛筆で書いたあらすじを必死に消しながら
私は泣いた。
ポロポロと涙がこぼれた。
このまま用紙がぐしゃぐしゃになったら
いいのに
そしたら仕方ないねって
…
言わないか。
逃げられない。
私は、「こわい」だけを書くことにした。
それなら今の私にも書ける。
あらすじの後半を消し終えた私は、
原稿用紙1枚目の、左側中央あたりに
「もし私が赤ずきんちゃんだったら、すごくこわいと思うだろうなと、思いました。」
という一文を書いた。
これか。と思った。
ここだけ見たら、
感想文に見えそう、と、思った。
後半で、もう一回くらい感想をはさみたかったけど、やっぱりあらすじしか書けなかった。
親は、私のボロボロの顔とボロボロの原稿用紙を見て、そこでようやく
「この子は読書感想文が本当に書けないのかもしれない」と気付いたようだった。
その夜、布団の中で、こう思った。
「読書感想文なんて、だいきらい」
「この世からなくなればいいのに」
って。
強く思った。
そしてあれから約30年が経った。
今年から全員提出が必須になった
小学二年生の娘の夏休みの宿題、
もとい、私の天敵
『読書感想文』を前に、
私は思う。
「しぶといやつめ」
と、思う。
これは、30年越しの、
娘と私のチーム戦だ。
あの日のリベンジなのである。
今度こそ、勝ってみせる。
YouTubeのゲーム実況をいつまでも
観続ける娘の前で、私はひとり、
気合いを入れた。
そして探す。
私はこれから。
夏休みの宿題一覧が書かれた、今一番大事な、プリントを。
