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他者の「顔」とは|レヴィナスの思想を三曲で覚える

レヴィナスの言う「顔」とは、私の理解や都合の中に決して収まらない他者が、こちらへ現れてくるその現れ方のことです。

顔は、私に呼びかけてきます。そしてその呼びかけは、私が応じるかどうかを選ぶ前に、すでに届いています。

ここまで実存主義を三本扱ってきました。サルトル、ハイデガー、キルケゴール。どれも「私」がどう生きるかという問いでした。今回からは向きが変わります。他者の話です。

今回もMrs. GREEN APPLEの三曲で覚えます。分からない・呼ばれる・応えるの三場面です。

まず、教科書的な説明から

エマニュエル・レヴィナスはリトアニア生まれのユダヤ人哲学者で、おもにフランスで活動しました。主著は『全体性と無限』。

彼の思想は、その経歴と切り離せません。第二次世界大戦中、レヴィナス自身は捕虜となり、家族の多くをホロコーストで失っています。なぜ人は他者をあれほど徹底的に消し去ることができたのか。 この問いが、彼の哲学の出発点にあります。

レヴィナスの答えは、西洋哲学そのものへの批判でした。

哲学は長いあいだ、世界を一つの体系の中に説明しようとしてきました。すべてを一つの枠に収めるこの考え方を、彼は「全体性」と呼びます。そして、他者を自分の理解の枠に収めることは、他者を他者でなくすことだと考えました。理解したつもりになる瞬間に、相手は消えている。

これに対して置かれたのが「顔」です。
他者の顔は、私が説明できるものではありません。分類も、所有も、支配もできない。顔は、私の枠を超えてくるもの、つまり無限としての他者です。 そして顔は、私に「殺すな」と語りかけてきます。これは道徳の教えではなく、他者が現れることそのものが持つ力だ、とレヴィナスは考えました。

だから彼にとって、倫理はほかの何よりも先に来ます。 これを「倫理は第一哲学である」と言います。

一曲目|分からない──『君を知らない』

分かり合えることはない、と気づいてしまったところから始まる曲です。

普通、こういう主題は関係の終わりを意味します。ところがこの曲は、そこを出発点に置きます。しかも題は「君を知らない」なのに、最後には君を知っていると歌う。

この矛盾こそ、レヴィナスの他者論そのものです。

相手を完全に理解することはできません。理解できたと思った瞬間、それは自分が作った像にすぎなくなります。分からないままの相手と関わり続けること。 それが、他者を他者として扱うということです。

分かり合えないと気づくことは、関係の失敗ではありません。他者が本当に他者であることに気づいた、ということです。

覚え方:分かり合えない=無限としての他者。

二曲目|呼ばれる──『Loneliness』

深い絶望から始まり、他人にはもう何も期待しないと歌う曲です。それでもたった一人、あなたにだけは、と願いが残ります。

ここで注目したいのは、その願いに理由がないことです。

見返りがあるからでも、分かり合えるからでもない。ただ、その相手にだけは求めてしまう。レヴィナスの言う顔の呼びかけも、これに似ています。呼びかけは、こちらが応じると決める前に届いています。

理由があって責任を負うのではありません。顔が現れたその瞬間に、もう責任は始まっている。 レヴィナスはこの関係を、対等ではないものとして描きました。他者は私より先にいて、私は応じる側に置かれています。

覚え方:理由なく呼びかけられる=顔。

三曲目|応える──『CHEERS』

共にあることを歌う曲です。

一人ではなく、誰かと。この曲が描くのは、乾杯という、他者がいなければ成立しない行為です。

レヴィナスにとって、他者との関係は二人だけで完結しません。 目の前の他者のさらに向こうに、別の他者がいる。だから責任は、一人の相手から社会へと広がっていきます。正義という問題は、そこから生まれると彼は考えました。
顔と向き合うことは、閉じた関係に入ることではありません。開かれていくことです。

覚え方:一人の他者から社会へ=責任の広がり。

混ざりやすいところを分ける

ここが今回いちばん重要です。似た言葉が多く、しかも意味が正反対のものがあります。
レヴィナスの「顔」とサルトルの「まなざし」
どちらも他者に見られる場面ですが、方向が逆です。
サルトルの場合、他者に見られると、私は見られる対象に変えられてしまいます。自由な主体だった私が、モノのように固定される。だから他者は脅威です。
レヴィナスの場合、他者の顔は私を脅かすのではなく、私に責任を呼び起こします。 見られる恐怖ではなく、呼びかけられる責任。
サルトルは「見られると自由を奪われる」、レヴィナスは「見られると責任が生まれる」。 この対比は必ず押さえてください。
レヴィナスとブーバー
どちらも他者との関係を論じますが、対等かどうかが違います。
ブーバーの「我と汝」は、互いに呼びかけ合う相互的な関係です。レヴィナスの関係は相互的ではありません。他者は私より高い位置にあり、私は応える側です。 この非対称性がレヴィナスの特徴です。
「全体性」批判と、キルケゴールのヘーゲル批判
どちらも体系を批判しますが、守ろうとしたものが違います。キルケゴールはこの私を、レヴィナスはこの他者を、体系から救い出そうとしました。
入試ではこう問われる
用語は四つです。 顔、無限としての他者、全体性、倫理は第一哲学。教科書では「レヴィナス-無限としての他者」という形で載っていることが多いので、この結びつきで覚えてください。
背景も問われます。 ホロコーストで家族を失った経験が思想の出発点にあること。ここは押さえておく価値があります。
選択肢の見分け方として一つ。 レヴィナスの他者は、分かり合える相手ではありません。 共感、相互理解、心が通じ合うといった言葉で説明された選択肢は、たいてい誤りです。分からないからこそ他者であり、分からないままで責任が生じる。 ここが独特なところです。
責任の順序にも注意してください。レヴィナスでは、責任は自分で引き受けると決めたから生じるのではありません。選ぶ前にすでに負わされています。 自発的に責任を選ぶ、と書かれていたら疑ってください。
もっと読むなら
この概念で『Loneliness』を一本まるごと読んだ記事があります。同じ曲をサルトルの「まなざし」で読んだ記事も並べてあるので、二つの他者論の違いを実例で確かめられます。
• Mrs. GREEN APPLE『Loneliness』をレヴィナスの哲学で読む【リンク】
• Mrs. GREEN APPLE『Loneliness』をサルトルの哲学で読む【リンク】
• Mrs. GREEN APPLE『CHEERS』をレヴィナスの哲学で読む【リンク】
これまでの概念記事はこちらです。
• 実存は本質に先立つとは|サルトルの思想を三曲で覚える【リンク】
• 死への存在とは|ハイデガーの思想を三曲で覚える【リンク】
• 実存の三段階とは|キルケゴールの思想を三曲で覚える【リンク】

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