すぐに答えをくれなかった本当のやさしさ
机の向こうから、差し出したノートが戻ってきた。
赤い線は、ほとんどなかった。
大きく直された跡もなかった。
叱られたわけではない。
否定されたわけでもない。
ただ、しばらく黙って見つめたあとで、そっとこちらへ戻された。
その静けさが、なぜか胸に残った。
自分では、頑張ったつもりだった。
これでいいと思いたかった。
少しくらいは、認めてもらえる気がしていた。
けれど、
「よくできたね」
とは言われなかった。
私を育ててくれた人は、簡単には褒めなかった。
でも、見捨てることもしなかった。
その意味が、昔の私には分からなかった。
何が足りないのだろう。
どこを見落としているのだろう。
答えは、すぐには渡されなかった。
正直に言えば、少し寂しかった。
もう少し、分かりやすく認めてほしかった。
頑張ったことを、やさしい言葉で包んでほしかった。
「それでいい」
その一言が欲しかった夜もあった。
でも今なら、少し違う場所から眺められる。
あの人は、答えをくれなかったのではない。
考え続ける時間を、私の手元に残してくれていたのだ。
すぐに答えをもらうと、人は安心する。
これでいい。
ここを直せばいい。
この道を進めばいい。
そう言われると、迷わなくて済む。
けれど、迷わなくて済むことと、自分で歩けるようになることは、少し違う。
あの人は、私がまだ途中のものを、そのまま完成品として受け取らなかった。
少しできるようになっただけで満足しそうになると、静かに立ち止まらせた。
簡単な答えを欲しがると、すぐには渡さなかった。
でも、それは冷たさではなかった。
見ていなかったわけでもない。
諦めていたわけでもない。
ただ、私が自分の足で考える時間を、奪わなかった。
あの人が残したものは、答えではなかった。
今の自分は、本当に丁寧に向き合っているだろうか。
できることだけで満足していないだろうか。
もう1歩だけ先へ進めるのではないだろうか。
そんな、すぐには閉じない余白だった。
その余白は、ときに苦しかった。
自分の足りなさを見ることになる。
できているつもりだった自分が、まだ途中にいることを認めなければならない。
でも、その時間があったから、私は立ち止まらずに済んだ。
逃げたくなる日もあった。
もう十分だと思いたい日もあった。
小さな達成に安心して、そこで終わりにしたい日もあった。
それでも、どこかであの人のまなざしを思い出した。
強く命令されたわけではない。
大きな声で励まされたわけでもない。
ただ、ちゃんと見られている気がした。
それは少し苦しい。
でも、不思議とあたたかかった。
ある夜、食事をしながら、あの人の話を聞いた。
失敗した日のこと。
遠回りした時間のこと。
思うようにいかなかった季節のこと。
私から見れば、ずっと先を歩いている人だった。
迷いなく進んできたように見えていた。
でも、その背中にも、立ち止まった日があった。
その夜、静かな声で言われた。
「才能は、使い方を間違えると、毒になる」
その言葉は、すぐには理解できなかった。
才能という言葉は、きれいに聞こえる。
特別なもの。
選ばれたもの。
そんな響きがある。
でも、少しできることは、ときに人を止める。
少し褒められる。
少し早く進める。
そこで、自分はもう十分だと思ってしまう。
だから大切なのは、才能そのものではなかった。
毎日、手を動かすこと。
考え続けること。
失敗した自分を、もう一度育てること。
その積み重ねが、人を遠くへ連れていく。
だから、あの人は簡単には褒めなかったのかもしれない。
私が、少しできる自分の場所に座り込まないように。
あの人のことを思い出すと、古い喫茶店の窓辺に差し込む午後の光が浮かぶ。
冷めかけた珈琲。
木の椅子。
窓の外を流れる時間。
強く照らすわけではない。
ただ、そこにある。
その光は、私の代わりに歩いてくれるわけではなかった。
でも、歩こうとする足元を、そっと照らしてくれた。
今、私も誰かの前で、答えを急いで渡したくなることがある。
すぐに教えたくなる。
すぐに安心させたくなる。
もちろん、それが必要な夜もある。
人は、いつも強くはいられない。
ただ抱きしめるような言葉が必要な日もある。
でも、少しだけ待ったほうがいい時間もある。
相手の手が、まだノートの上を探しているとき。
言葉になる前のものを、必死につかもうとしているとき。
その途中で答えを置いてしまうと、消えてしまうものがある。
簡単に答えを渡さない。
でも、決して置き去りにしない。
あの人がしてくれたことを、私はまだうまくできない。
相手を信じているつもりで、本当は自分が安心したいだけの日もある。
それでも、あの人の沈黙を思い出す。
あの沈黙は、空白ではなかった。
そこには、ちゃんと温度があった。
今日も、答えはすぐには出ない。
それでも私は、机の上に戻されたあのノートを思い出す。
まだ考えられる。
まだ直せる。
まだ、歩ける。
あの人は、たぶん今も何も言わない。
けれど、その静けさの中で、私はもう一度、自分の手を動かす。
いいなと思ったら応援しよう!
虹をありがとうございます。