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リモートワークで、私は「見えない人」になった

朝、洗濯機の低い音を聞きながら、ノートパソコンを開く。

まだ髪は少し濡れている。
マグカップの底に、昨日の茶しぶが残っている。
画面の右上に、9:00の会議通知が出る。

リモートワークが始まったころ、私は少しうれしかった。

満員電車に乗らなくていい。
雨の日に、駅まで急がなくていい。
お昼に家の冷蔵庫を開けられる。
会議の合間に、洗濯機を回せる。

会社に行かなくても、仕事は進んだ。

資料は共有できた。
会議もできた。
チャットもある。

あんなに毎日通っていた場所が、絶対ではなかった。

少しだけ、生活が戻ってきた気がした。

電車の窓に映る疲れた顔を見なくていい。
朝ごはんを急いで飲み込まなくていい。

会社へ向かうために使っていた時間が、私の手元へ戻ってきた。

でも数か月たったころ、別のものも消えていた。

通勤だけではなかった。

会社の中の私は、少しずつ見えなくなっていた。

席にいたころの私

オフィスにいたころの私は、目立つ人ではなかった。

会議で強く話すわけでもない。
上司に自分を売り込むのも得意ではない。
雑談の中心にいることも少ない。

黙って、やることをやる。

それで十分だと思っていた。

でも今振り返ると、私は思っていたより見られていた。

朝、少し早く席にいたこと。

誰かが困っているとき、横から小さく手伝ったこと。

会議中にうなずいていたこと。

忙しそうな人へ「大丈夫ですか」と声をかけたこと。

昼休みに交わした、まだ形にならない話。

コピー機の前で始まった短い相談。

帰り際の、何でもない確認。

そういうものは、議事録には残らない。

資料にも書かれない。

けれど、誰かの記憶には残っていた。

「あの人に聞けば返ってくる。」

「あの人は静かだけど、ちゃんと見ている。」

そんな小さな信頼が、少しずつ積み重なっていた。

リモートになると、それが消えた。

席にいる姿は見えない。

横から手伝う手も見えない。

困った顔も、うなずきも、画面の外へ落ちてしまう。

私は同じように働いていた。

前より集中していた日もある。

それでも、周りから見える私の面積は、小さくなっていた。

完成したファイルは、涼しい顔をしている

夕方、部屋が少し暗くなる。

窓の外で、自転車のブレーキが鳴る。

私はチャットに「対応しました」と打つ。

資料を共有する。

会議で短く報告する。

今日も仕事はした。

メールを返した。

数字を見直した。

何度も迷って文言を書き直した。

誰にも言わないまま、一つ判断した。

でも、送られていくのは完成したファイルだけだった。

そこには、迷った時間は入っていない。

どの案を捨てたのか。

誰に相談しようとして、やめたのか。

どこで立ち止まり、どこで覚悟を決めたのか。

そんな時間は、完成した資料の中からきれいに消えてしまう。

オフィスなら、少しは漏れていた。

難しい顔で画面を見ている姿。

席まで歩いて相談する様子。

締切前の少し張った空気。

「大丈夫?」

その一言が生まれる理由は、資料ではなく、その空気だった。

リモートでは、それが伝わらない。

画面の向こうへ届くのは、整った資料と短い報告だけ。

完成したファイルは、いつも涼しい顔をしている。

仕事は結果だけの顔をする。

過程は、静かに消えていく。

黙っていると、順調に見える

しばらくすると、リモートでも存在感のある人が見えてきた。

声が大きい人ではなかった。

自分の仕事を、短い言葉で置ける人だった。

「ここまで進んでいます。」

「ここで少し迷っています。」

「ここだけ見てもらえますか。」

それだけで、画面の向こうに、その人の姿が浮かぶ。

逆に、黙って頑張る人は見えにくい。

どれだけ丁寧でも、何も言わなければ順調そうに見える。

困っていることも。

工夫したことも。

共有されなければ、存在しないことに近づいていく。

そこで私は、自分がずいぶん「察してもらうこと」に頼っていたのだと知った。

忙しそうにしていれば伝わる。

頑張っていれば伝わる。

困っていれば、誰かが気づいてくれる。

そう思っていた。

でもリモートには、察する材料がない。

ため息もない。

姿勢もない。

机の散らかりもない。

だから言葉にするしかないのだと、ようやく分かった。

人は、資料だけでは働いていなかった

会議が終わる。

部屋が少し広くなる。

さっきまで聞こえていた声が消え、冷蔵庫の音だけが残る。

画面には、自分の顔が一瞬だけ映る。

少し疲れている。

少し、知らない人みたいでもある。

リモートワークで見えない人になったことは、しんどかった。

でも、それ以上に気づいたことがある。

会社は、成果物だけで動いていたわけではなかった。

コピー機の前の立ち話。

廊下ですれ違う数秒。

昼休みの雑談。

会議が終わったあとの「そういえば」。

何気ない視線。

小さなうなずき。

誰にも記録されないやり取りが、人と人をつないでいた。

そこには、資料にならない知識があり、言葉にならない安心があった。

組織は、そんな見えないものの上にも成り立っていたのだ。

リモートワークで消えたのは、通勤だけではなかった。

なんとなく伝わっていた私も消えた。

そして、なんとなく伝わっていた誰かも、消えていた。

だから今は、ときどき一行だけ書く。

「ここで少し迷っています。」

「あと一歩で終わります。」

「少し相談してもいいですか。」

それは自分を大きく見せるためではない。

画面の向こうにいる人へ、小さな灯りをともすためだ。

朝、洗濯機が止まる。

部屋が急に静かになる。

私は今日も、仕事を始める前に一行だけ送る。

その一行が、失われた空気を少しだけ取り戻してくれる気がしている。

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