もう一度、胸が苦しくなるような恋をしたい|先達の恋愛と記憶
湯気の消えた湯呑み
その男性は、湯呑みを両手で包むように持っていた。
指が少し曲がっていた。
湯気はもう、ほとんど立っていなかった。
部屋には、昼の光が薄く入っていた。
誰かが遠くで椅子を引く音がした。
その音だけが、妙にはっきり聞こえた。
男性はしばらく黙っていた。
何かを思い出しているようでもあり、何も見ていないようでもあった。
そして、ぽつりと言った。
「もっと勉強すればよかった」
声は小さかった。
でも、その一言は部屋に残った。
私はすぐに返事ができなかった。
「そんなことないですよ」
「今からでも遅くないですよ」
そういう言葉が、どれも軽く見えた。
その人は悔しそうだった。
けれど、人生を間違えた人の顔ではなかった。
長いあいだ、その後悔と一緒に暮らしてきた人の顔だった。
もう追い出せない。
でも、憎んでもいない。
部屋の隅に、ずっと置かれたままになっている。
私には、そんなふうに見えた。
勉強。
その人が何を指してそう言ったのかは、わからない。
学校のことだったのか。
仕事のことだったのか。
本のことだったのか。
それとも、もっと別のことだったのか。
聞けばよかった。
でも、そのときは聞けなかった。
その言葉の奥を、うかつに覗いてはいけない気がした。
人生の終わりに近い場所で、人はそんなことを口にするのか。
では、私なら何を言うのだろう。
少女のような目
別の日だった。
その女性は、少し身を乗り出すようにして言った。
「もう一度、胸が苦しくなるような恋をしたい」
私は、言葉を失った。
その人の目が、本当に輝いていたからだ。
比喩ではない。
目に、急に光が入ったように見えた。
皺のある顔だった。
細くなった手だった。
声も、ゆっくりしていた。
それなのに、その一瞬だけ、少女のようだった。
胸が苦しくなるような恋。
楽しい恋ではない。
穏やかな恋でもない。
たぶん、もっと厄介なものだ。
会いたいのに会えない。
それだけで、息が浅くなる。
そんなものを、もう一度、と言った。
苦しいのに。
もう一度。
私は、その言葉からしばらく離れられなかった。
年を重ねれば、欲しいものは少なくなっていく。
そんなふうに、どこかで決めつけていたのかもしれない。
でも、そうではなかった。
消えないものがある。
奥のほうで、火種のように残っているものがある。
それは、ある日ふいに顔を出す。
目の奥から。
声の震えから。
「もう一度」という言葉の中から。
あの人は、誰を思い出していたのだろう。
まだ終わっていない人の言葉
「もっと勉強すればよかった」
「もう一度、胸が苦しくなるような恋をしたい」
並べると、まるで違う言葉に見える。
片方は静かだった。
片方は明るかった。
片方は湯呑みを持つ手の中にあった。
片方は輝く目の中にあった。
けれど、私には、どこか似て見えた。
どちらも、まだ終わっていない人の言葉だった。
もう十分だ。
もう何もいらない。
そういう言葉ではなかった。
もっと知りたかった。
もう一度、感じたかった。
向いている先が違うだけで、奥にあるものは近いのかもしれない。
年を取ることは、手放すことのように、私には見えていた。
仕事や、役割や、若さを。
少しずつ手放していく。
でも、手放したあとに残るものがある。
むしろ、最後まで残るものがある。
知りたい。
触れたい。
もう一度、動きたい。
そんな小さな火のようなもの。
それを持ったまま、人は最後のほうまで歩くのだろうか。
私ではどうですか、と言えなかった
その女性の言葉を聞いたあと、私はしばらく黙っていた。
目が輝いていた。
人生の終わりに近い場所で、そんな目をする人を、私はあまり見たことがなかった。
私ではどうですか。
そう言いたかった。
もちろん、言わなかった。
言えるはずがない。
冗談にするには乱暴すぎる。
本気にするには、あまりに身勝手だった。
相手の長い人生に、こちらの浅い感傷を差し込むような気もした。
でも、その言葉が喉の奥まで来たことは本当だ。
それを恋と呼ぶには、少し違う気がする。
いや、そう言って離れようとしているだけなのかもしれない。
少なくとも、私の中の何かは動いた。
胸が苦しくなるような恋をしたい。
そう言える人を前にして、その願いそのものに、こちらの胸が少し引っ張られた。
恋は、している本人だけのものではないのかもしれない。
恋を語る声や、思い出す顔を見ているだけで、こちらの中に眠っていたものが少し起きる。
私はそのとき、自分がまだ何かを羨ましがれることに気づいた。
少し、恥ずかしかった。
その動きに名前をつけるなら、何になるのだろう。
勉強も、恋も
あとから、何度も思い出した。
「もっと勉強すればよかった」は、静かに刺さった。
遅れて痛む棘のようだった。
面倒だから後でいいや。
そう思うたびに、あの湯呑みを持つ手が浮かぶ。
「もう一度、胸が苦しくなるような恋をしたい」は、もっと直接的だった。
胸の真ん中を押されたような感じがした。
それは、恋愛だけの話ではなかった。
何かを強く求めるとき、人は少し無防備になる。
勉強も、恋も、そこは少し似ている。
知らなかったことを知ってしまう。
知らなかった自分に会ってしまう。
その前と後では、景色が少し変わる。
傷つきたくないなら、好きにならないほうがいい。
それでも人は、どこかで変わりたがっている。
変わらずにいたい。
でも、変わってしまいたい。
私にはそう見える。
では、変わることを怖がらなくなった人だけが、あんなふうに「もう一度」と言えるのだろうか。
最後に残るもの
最近、ときどき考える。
人生の終わりに近い場所で、私は何を口にするのだろう。
まだわからない。
わからないけれど、あの2人の言葉は残っている。
湯呑みを持つ手。
「もっと勉強すればよかった」
光の入った目。
「もう一度、胸が苦しくなるような恋をしたい」
2人は、私に何かを教えようとしたわけではない。
たぶん、ただ漏れただけだ。
長く生きてきた人の中から、ふいにこぼれたものだった。
私はまだ、そこへ着いていない。
でも、いつか行く。
そのとき、私は何を持っているだろう。
後悔だろうか。
願いだろうか。
それとも、まだ名前のない何かだろうか。
胸が苦しくなるような何かを、私はまだ探している。
恋に恋したい。
あなたにも、なぜか忘れられない景色や言葉はありますか。
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