初めて買った万年筆
古い万年筆専門店のドアは、少し重かった。
押すと、ガラスが小さく鳴った。
その音で、外の道が少し遠くなった。
店の中は、外より少し暗い。
木の棚に、細い箱が並んでいた。
インクのにおいがした。
紙のにおいもした。
古い引き出しを開けたときの、あの乾いたにおい。
そこにいるだけで、少し声が小さくなる店だった。
私は、鞄のひもを持ち直した。
店の人はいくつか出してくれた。
「最初なら、こちらがいいですよ」
そう言われたモデルは、たしかに書きやすそうだった。
軽くて、素直で、私を困らせなさそうだった。
たぶん、そちらを買うべきだった。
でも、私が見ていたのは別の1本だった。
黒い軸。
少しだけ重い胴。
店の灯りを細く返すペン先。
ケースの中で、それだけが急いでいなかった。
私は、手に取ってみた。
重かった。
その重さが、うれしかった。
店の人は、少しだけ間を置いた。
「そちらですか」
その声に、ほんの少しだけ待ったが混じっていた気がする。
私はうなずいた。
知らないふりをした。
自分にはまだ早いかもしれないことも。
手の中のものが、たぶん私より落ち着いていることも。
勧められたものではなく、欲しかったものを買った。
会計のあいだ、私は財布からお札を出す手元を見ていた。
間違えないように。
幼く見えないように。
紙袋を受け取ると、店の人が少しだけ頭を下げた。
私も、あわてて頭を下げた。
ドアを押して外に出る。
ガラスがまた小さく鳴った。
外の光は明るすぎた。
紙袋だけが、店の暗さを少し持っていた。
駅まで歩くあいだ、私は何度も持ち替えた。
中には万年筆が入っている。
誰に見せるわけでもないのに、そのことを誰かに気づいてほしかった。
家に帰って、箱を開けた。
白い内箱。
薄い説明書。
透明なカートリッジ。
黒い軸。
ペン先だけが、小さく光っていた。
万年筆。
名前が強すぎる、と思った。
万年。
そんなに長く、私は何を書けるのだろう。
カートリッジを挿す。
これでいいのか分からないまま押し込むと、小さく何かがはまる感触があった。
それだけで、少し息をした。
紙を出す。
まず、自分の名前を書こうとした。
書けない。
線が出ない。
かすれる。
少しだけ紺の点がつく。
そのあと、何も続かない。
持ち方がわからない。
ボールペンと同じように持つ。
だめだった。
少し寝かせる。
もっとだめだった。
立てる。
ひっかかる。
紙の上で、ペン先が迷子になる。
強く押しつけた。
力を入れれば、どこかが開くと思った。
でも、そうではないらしい。
紙が少しへこんだ。
ペン先が、いやな音を立てた。
細い金属が、私の力を見ていた。
私は、いったん手を止めた。
机の上に、書きそこねた名前がある。
途中で切れた線。
にじんだ点。
読めない自分。
なんだ、これ。
高かったのに。
欲しかったのに。
ちゃんと選んだのに。
店の中でだけ、私はうまく持てていたのだと思う。
紙の上では、すぐにばれた。
万年筆は、手の中で静かだった。
こちらが何者か、まだ決めてくれないみたいに。
もう1回、書く。
名前。
また、かすれる。
もう1回。
少し出る。
途中で消える。
もう1回。
さっきより、線がつながる。
私は、自分の名前を何度も書いた。
紙の上に、同じ名前が増えていく。
うまく書けた名前。
崩れた名前。
怒っている名前。
少しだけ諦めた名前。
自分の名前なのに、全部ちがう人の字に見えた。
私は、万年筆に負けたくなかった。
たぶん、万年筆にではない。
あの店でうなずいた自分に、負けたくなかった。
でも、力を入れるほど書けない。
強く押すと、線は荒れる。
急ぐと、かすれる。
角度が少しずれると、急に黙る。
このペンは、私の力をそのまま受け取ってはくれなかった。
少しゆるめる。
指をほどく。
紙に置く。
押すのではなく、待つ。
すると、線が出た。
すごくきれいではない。
でも、さっきより長く続いた。
ペン先が紙をすべる。
かすかに、ひっかかる音がする。
そのひっかかりの中を、インクが通っていく。
私はまた名前を書く。
同じ名前を、何度も書く。
だんだん、自分の字が少し静かになる。
ペンのほうに寄せた字になる。
合わせているのは、私のほうだった。
それが少し悔しかった。
でも、少しだけおもしろかった。
カートリッジのインクが減っていくころ、紙は名前で埋まっていた。
まだ掠れる。
まだ迷う。
でも、最初の線ではなかった。
ペン先を見た。
金色の小さな先に、紺のインクがついている。
私の名前を、何十回も通った紺だった。
万年。
もう1回、そう思った。
ずいぶん大きな名前だ。
今日の私は、カートリッジ1本ぶんで精いっぱいだった。
でも、机の上には紙がある。
同じ名前が、何行もある。
どれも少しずつ違っている。
どれも私の字ではある。
箱に戻す前に、もう1度だけ持った。
さっきより、ほんの少し軽い気がした。
店のドアの音を、ふと思い出した。
指には、まだ紺が残っていた。
あなたにも、なぜか忘れられない景色や言葉はありますか。
よければ、そっとコメントに置いていってください。
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