世界に、はじめて取っ手がつく
白い画面の余白で、見慣れない言葉だけが少し浮いていた。
指先でスクロールを止める。
仕事の資料だった。
たぶん、数年前の私なら読み飛ばしていた。
けれど今は、その言葉の奥に、いくつかの顔が浮かぶ。
会議室の空気。
誰かが言いよどんだ声。
あとで見返した議事録の、妙に固い文章。
同じ文字なのに、前とは違うものに見えた。
言葉を知ることは、辞書の中身が増えることではないのかもしれない。
その言葉でしか見える場所に、目が慣れていくことなのかもしれない。
そこで、ふと思った。
私が初めて覚えた言葉は、何だったのだろう。
音だったころ
もちろん、覚えていない。
生まれて初めて、音が意味になった瞬間。
それは、きっとかなり大きな出来事だったはずなのに、私の中には残っていない。
初めて立った日も。
初めて歩いた日も。
たぶん、転んで泣いた日も。
人生のはじめのほうは、いつも他人の記憶でできている。
赤ん坊の耳には、いろいろな音が届いていたのだと思う。
声。
足音。
雨。
食器がぶつかる音。
ふすまの開く音。
でも、それはまだ世界ではなかった。
ただ、近づいてくるもの。
遠ざかっていくもの。
肌にふれるもの。
ある日、その中のひとつだけが、ほかの音と違って聞こえたのだろう。
「まま」
その音が、抱きあげられる感じと結びつく。
服のにおい。
背中にまわる腕。
泣き止むまでの時間。
「まんま」
その音が、口に入るものになる。
あたたかさになる。
足りなかったものが満ちる感じになる。
そのとき、音はただの音ではなくなる。
世界に、はじめて取っ手がつく。
冷たい水
ヘレン・ケラーの話を思い出す。
サリバン先生が、何度も手のひらに文字を書いた。
けれど、それはまだ意味ではなかった。
手の上を動く、ただのしるしだった。
ある日、井戸のポンプから水が流れる。
冷たい水が、ヘレンの手にかかる。
もう片方の手には、指で刻まれる文字。
WATER。
その瞬間、冷たさと文字がつながる。
目の前の水が、急に別のものになったわけではない。
でも、ヘレンの中で何かが開いた。
水は、もうただの冷たさではなくなった。
名前を持つものになった。
ひとつ言葉を得るたびに、見えるものは少しずつ細かくなる。
ぼんやりしたかたまりに、輪郭が入る。
名前を呼べるものは、少しだけ近くなる。
今も、覚えている
仕事をしていても、同じことが起きる。
新しい言葉に出会う。
最初は、ただの文字列だ。
意味は調べれば分かる。
会話の中でも使える。
けれど、自分の中ではまだ立っていない。
何度か人と話す。
うまく伝わらない。
違う意味で受け取られる。
失敗して、あとで考える。
そうしているうちに、ある日、言葉のほうからこちらを向く。
「品質」という言葉の中に、設計が見えてくる。
運用が見えてくる。
誰かが困る前に気づけなかった時間が見えてくる。
「リスク」という言葉の中に、未来が少しだけ入ってくる。
怖がることではなく、まだ起きていないものにどう触れるか、という感じになる。
前はひとつに見えていたものが、いくつかに分かれる。
分かれたあとで、また別のつながり方をする。
私は今でも、言葉を覚えている。
たぶん、最初の言葉を覚えたときと、そんなに違わない。
ただ、泣かなくなっただけで。
覚えていない場所
少し変だなと思う。
言葉を覚える前のことを、私はほとんど思い出せない。
思い出すための道具を、まだ持っていなかったからだ。
だから、最初の言葉を覚えた瞬間も、私の記憶には残っていない。
言葉は、自分が生まれたところを語れない。
カメラが、自分の組み立てられた瞬間を撮れないみたいに。
不便だと思う。
でも、少しだけ、いい仕組みのようにも思える。
いちばん最初に世界を開けてくれた言葉を、私は知らない。
その言葉をくれた人の声も、たぶん正しくは思い出せない。
それでも、その一語から始まった場所を、今も歩いている。
名前のない手
この文章も、言葉で書いている。
ひとつひとつの言葉には、どこかに始まりがあった。
誰かが話しかけてくれた。
何度もくり返してくれた。
分かるまで待ってくれた。
その人たちの顔を、私は全部は覚えていない。
両親かもしれない。
家族かもしれない。
先生かもしれない。
一度しか会わなかった人かもしれない。
最初の言葉は思い出せない。
でも、その言葉がなければ、今の私はここまで来られなかった。
人生には、ときどき名前のない手が混ざっている。
気づかないうちに渡されていたものが、あとから自分の一部になっている。
今日もまた、知らない言葉に会う。
すぐには分からない。
少し面倒で、少し遠い。
それでも私は、たぶんまた調べてしまう。
画面の余白で、指を止めたまま。
あなたにも、なぜか忘れられない景色や言葉はありますか。
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虹をありがとうございます。