「ズレた世界と言葉のズレ」
いつもと同じように、言葉で何かを表現しようとする。けれど、それがすべてを伝えきることはない。それほど、言葉というものは刹那的だ。
「現実とは何か?」「リアルとは何か?」と考えるとき、僕が思うのは「今ここ」だ。それは固定されたものではなく、流動し続け、リアルタイムに更新される。
その川の流れのような何かを、僕らは言葉で切り抜くことで初めて認識できる。形がなければ認識は起こらない。もし感覚だけで全てをキャッチできるなら、意思疎通の精度は格段に増すだろう。だがそこには曖昧さがなく、望まないことまで正確に伝わってしまう厄介さもある。
逆に言えば、言葉がすべてを表現できないからこそ、世界は多様な視点と解釈に満ち、ドラマが生まれるのかもしれない。
あなたは、自分の言葉にズレを感じたことがあるだろうか。
人間は根源的に、言語化できない何かの存在を知っている。夏の夕暮れを見て「美しい」と言葉にしても、その言葉が全てを表しているとは誰も思っていないはずだ。内面に広がる、言葉にならない気配こそが「美しい」という言葉を美しくしている。
言葉を使う限り、そして言葉で世界を作っている限り現実は常にズレる。
それは悲しいことでも、嘆くことでもない。ただ、そういうものなのだ。
僕自身、言語化に喜びを感じている。背景に喜びという気配があるからこそ、それが自分の言葉を支えているのだろう。
老子は『道徳経』の冒頭でこう言った。
>語ることのできる道(タオ)は、永遠の道ではない。
>名づけることのできる名は、永遠の名ではない。
僕の解釈では、タオとは可能性のことだ。可能性は無限とも言える。その無限を言葉で切り取ってしまえば、それはもはや無限ではない。
名前も同じだ。今は「りんご」でも、この先ずっと「りんご」とは限らない。
それでも僕らは、なぜか初めからそれを「りんご」だと信じ、これからも「りんご」であり続けると思い込んでいる。
私たちの背後には、言葉にならない無限が存在している。その無限があるからこそ、言葉は新しく生まれ変わり続ける。
だからこそ、言語的表現がすべてだと錯覚してはいけない。
タオと名づけることは、他の可能性を切り捨てることでもある。常に、表現された言葉と、表現されなかった何か。両方で世界は形づくられているのではないだろうか。
無限の気配から、刹那的にこの文章を打ちながら、僕はズレを感じつつも表現する。そのズレにこそ、趣があるのだ。
