海の中なら静か
波の音が好きだと、彼女はよく言っていた。
小学五年生の夏。
夕暮れの防波堤に並んで座っていると、水希が突然言い出した。
「私、人魚姫になりたい」
冗談なんてほとんど言わない、彼女らしくない言葉だった。
「なんで?」
僕が聞くと、水希は沈みゆく夕日を見つめたまま答えた。
「だって、海の中なら静かだもん」
そして少し間を置いて、小さく続けた。
「怒鳴る人とか、いないよね」
僕は返事ができなかった。
波の音だけが、静かに聞こえる。
水希の家のことは薄々知っていた。
夜になると聞こえる怒鳴り声。
ときどき見える痣。
地元でも有数の名家だからなのか、大人たちは誰も見て見ぬふりをしていた。
子どもだった僕には何もできず、
ただ隣に座って、海を眺めることしかできなかった。
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夏休みの終わり頃、水希は小さなガラス瓶を持ってきた。
瓶の中では青い液体が、ゆらゆらと揺れている。
陽に透かすと、海の欠片を閉じ込めたみたいに綺麗だった。
「これ飲むとね、人魚になれるんだって」
「そんなわけないだろ」
僕が笑うと、水希もつられるように笑った。
「だよね」
ふっと水希の顔から笑顔が消えた。
「本当になれたらいいな」
水希は瓶を胸に抱いたまま、遠くを見つめ呟いた。
なぜだか、その横顔が少しだけ遠く感じられた。
その夜、緊急連絡網が回ってきた。
海に子どもが落ちたらしい。
名前を聞いた瞬間、全身が冷たくなった。
──水希。
捜索は何日も続いたが、水希は見つからなかった。
事故だったのか。
自分で海へ入ったのか。
誰にも分からないまま、夏だけが過ぎていった。
それから僕は、何度もあの日のことを思い出す。
もっと話を聞いていたら。
誰かに相談していたら。
何か変わっていたのだろうか、と。
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八年後。
大学生になった僕は、帰省した夜に久しぶりに海へ来ていた。
潮の匂いも、波の音も、あの頃と変わらない。
防波堤に腰を下ろし、暗い海を眺める。
すると不意に声がした。
「久しぶり」
僕は振り返った。
誰もいない。
「こっちだよ」
声は海から聞こえた。
月明かりに揺れる水面。
そこから一人の少女が姿を現した。
長い髪。
懐かしい笑顔。
僕は息を呑んだ。
「……水希?」
少女は微笑んだ。
「覚えててくれたんだ」
ありえない。
そう思うはずなのに、不思議と驚きはなかった。
ずっと会いたかったからかもしれない。
水希は少し身を乗り出した。
月光が水面を照らす。
その下で銀色の鱗が静かに輝き、
魚の尾がゆっくり揺れる。
水希は得意げに笑った。
「ほら」
尾ひれが小さく水を弾く。
「人魚になれたでしょ」
僕はしばらく何も言えなかった。
ようやく口を開いて出てきた言葉は、自分でも意外なものだった。
「海の中は静か?」
水希は少しだけ目を丸くした。
それから、ふっと笑う。
「うん」
波が寄せては返す。
「とっても静か」
あの夏の日の夕暮れが脳裏によみがえった。
怒鳴る人とか、いないよね。
僕は唇を噛んだ。
胸の奥に沈んでいたものが、ゆっくり浮かび上がってくる。
「ごめん」
声が震えた。
「助けられなくて」
水希は静かに首を横に振った。
責めるでもなく、慰めるでもなく。
ただ、穏やかな目で僕を見る。
「もういいんだよ」
その声は、波よりも静かだった。
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やがて月が雲に隠れ、海が少し暗くなる。
水希は空を見上げて呟いた。
「私、もう行くね」
「待って」
思わず身を乗り出す。
けれど水希は首を振った。
「もう、会わないよ」
そして最後に、あの頃と変わらない笑顔を浮かべた。
水希の身体がゆっくりと海の中へ沈んでいく。
銀色の尾が月明かりを弾く。
その傍らで、一瞬だけ青い光が揺れた気がした。あの日のガラス瓶のような色。
瞬きをした時には、もう何もなかった。
防波堤には僕だけが残される。
夢だったのかもしれない。
幻だったのかもしれない。
それでも、確かめようとは思わなかった。
波の音が聞こえる。
ざあ、ざあ、と。
僕は月明かりの揺れる海を見つめた。
遠くの水面で、ほんの一瞬だけ銀色の光が跳ねた気がした。
錯覚かもしれない。
それでも僕は小さく笑った。
「よかったな」
返事はない。
ただ波だけが、静かに岸を撫でていた。

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