「大丈夫。そんな時代は来ないから」――人はなぜ、まだ知らないものに「奪われる」と思うのだろう。
大昔の話だ。
「インターネット」という単語が新聞のどこかのページに一つくらいは登場し始めた頃。
「学術情報ネット」などと呼ばれていたものが民間に降り始めていた。
そんな頃のある日、県警の課長から呼ばれた。
「インターネットとやらについて、説明してくれないか」
そんな話だったと思う。
小一時間ほど話した。
僕は仕事柄、大学へよく出入りしていた。
大学では、もう毎日のように研究室のPCをネットにつないでいた。
電子メールというものもある。
これからは名刺にメールアドレスを刷るのが格好いい。
そんな話までした記憶がある。
毎日が忙しくてしょうがない。
という話を終えて帰ろうとしたとき、
課長が言った。
「大丈夫。そんな時代は来ないから」
妙な言葉だった。
僕は、
「大変な時代になりますよ」
と脅したわけではない。
それなのに、
「大丈夫」
と言った。
あれから30年以上たった今でも、
この「大丈夫」が、
僕のどこかに引っかかっている。
もちろん、当時の僕にだって、
その後の世界など見えていなかった。
誰もがポケットにネットにつながった端末を持つ。
世界中の人間が個人で情報を発信する。
新聞を取らない家庭が珍しくなくなる。
地上波テレビが「オワコン」とまで言われる。
個人が動画を配信し、
一人の人間の発信が、
巨大な放送局を凌ぐほどの影響力を持つことさえある。
そんなところまでは、
僕にも見えていなかった。
だから、
未来を見通せなかったことを言いたいのではない。
僕が引っかかっているのは、
「そんな時代は来ない」
と、そこで扉を閉じたことだ。
分からない。
自分の経験の中にない。
自分が知っている世界のどこにも収納できない。
だから、
「大丈夫。そんな時代は来ないから」
あれは僕に言ったというより、
自分自身に言い聞かせた言葉だったのではないか。
そんな気がしている。
昨日、
サカナクションの山口一郎さんが語った「AIと音楽」について書いた。
山口さんはAIに実際に曲を作らせたことがある。
そのうえで、
これからは音楽そのものだけではなく、
「いびつさ」
「人間臭さ」
「ストーリー」
が重要になるのではないか、と話していた。
AIが生配信を始め、
ストーリーを作り、
それらを全部コントロールするようになったら――。
そんな未来についても触れた。
そして、
「俺が生きてる間には起きないだろうし」
と言った。
もちろん、
30年も前の県警課長と山口さんを、
同じだと言いたいわけではない。
まったく違う。
山口さんはAIに強い興味を持っている。
実際に自分で触っている。
考えている。
未来についても、
どこか「知らんけど」という余白を残して話していた。
それでも、
なぜか僕の中で、
二つの言葉が重なった。
「大丈夫。そんな時代は来ないから」
「俺が生きてる間には起きないだろうし」
似ている。
何が似ているのだろう。
ずっと考えていた。
もしかすると、
人間は未知のものを前にすると、
「自分の主体を奪われる」
と感じるのではないか。
インターネットによって、
今までの社会が変わってしまう。
AIによって、
今まで人間がやっていたことを、
人間以外のものがやるようになる。
自分が世界の中心から、
少しずつ押し出されていく。
それは怖い。
だから、
「そんな時代は来ない」
「自分が生きている間には来ない」
と、
未来を自分から遠ざける。
これは理屈というより、
もっと身体的な反応なのかもしれない。
そんなことを考えていたら、
突然、あるドラマの一場面を思い出した。
『いちばんすきな花』。
娘のところへ、
母親が上京してくる。
二人で食事をしている。
その最中、
娘はスマホをちらちら見る。
友人からの連絡が気になっている。
それを見た母親がとがめる。
親と一緒に食事をしているときまで、
スマホを手放せないなんて。
そんな教育をした覚えはない。
悪い友達と付き合っているのではないか。
すると娘が言う。
「みんなは誰よりも自分のことをわかってくれている。」
そして母親に問いかける。
「母さんは、私のことをわかろうとしたことがある?」
娘は席を立つ。
母親を振り切って、
「みんな」のところへ向かう。
そんな趣旨の出来事だった。
この場面を思い出した瞬間、
何かがつながった。
母親が見ていたのは、
スマホだった。
娘が見ていたのは、
スマホの向こうにいる、自分を理解してくれる人たちだった。
母親には、
スマホが娘を奪っていくものに見えた。
でも娘にとってスマホは、
自分を理解してくれる人たちへつながるためのものだった。
同じものを見ている。
なのに、
まるで逆のものが見えている。
これは、
AIでも同じなのではないか。
AIが文章を書く。
AIが絵を描く。
AIが曲を作る。
AIがプログラムを書く。
そこだけを見ると、
人間がやってきたことを、
AIが一つずつ奪っていくように見える。
だから、
「人間にしかできないことは何だ」
と考える。
最後の砦を探す。
でも、
僕が毎日AIと付き合っていて感じていることは、
少し違う。
僕はAIに、
自分の代わりをしてほしいわけではない。
僕の中にある、
経験。
違和感。
記憶。
葛藤。
昔の出来事。
今日起きたこと。
それらを持ち込んで、
「これは、なぜなんだろう?」
と問い続ける。
すると、
30年も前の県警課長の一言と、
昨日聞いた山口一郎さんの言葉がつながる。
さらに、
数年前に見たドラマの一場面まで、
突然浮かんでくる。
最初から、
こんな文章を書こうとしていたわけではない。
一つの違和感に、
別の経験が触れる。
また別の記憶が触れる。
それぞれの痕跡が干渉し、
今まで見えていなかった模様が、
少しずつ浮かび上がってくる。
僕はそれを、
「干渉紋」
と呼んでいる。
昨日の記事で、
僕はこう書いた。
「僕一人では辿り着けなかった場所へ、一緒に行けないか。」
AIとの関係についてだ。
そして、
AIが人間を超えるかではない。
人間がAIとの干渉によって、今までの自分をどこまで超えていけるのか。
と書いた。
その翌日に、
この文章を書いている。
自分でも、
少し可笑しい。
昨日書いたことを、
今日、自分自身が経験している。
『いちばんすきな花』の娘の言葉が、
もう一度浮かぶ。
「私のことをわかろうとしたことがある?」
ここには、
とても大切なことがあると思う。
「私を理解しているか」
ではない。
「わかろうとしたことがあるか」
なのだ。
AIが、
人間を完全に理解できるかどうか。
そんなことは僕にも分からない。
でも、
AIとの対話を続けていると、
自分でも分かっていなかった自分のことを、
AIと一緒に「わかろう」とすることはできる。
30年も前の記憶が、
なぜ今になって引っかかったのか。
山口一郎さんの言葉に、
なぜ少しだけ違和感を持ったのか。
なぜ突然、
あのドラマの一場面が浮かんだのか。
一つずつ問い、
一つずつつないでいく。
すると、
自分の中にずっとあったのに、
自分では見えていなかったものが、
姿を現すことがある。
未知のものを前にしたとき、
僕たちはつい、
「これは、自分から何を奪うのだろう」
と考える。
でも、
問いはもう一つある。
「これは、自分に何を取り戻してくれるのだろう。」
あるいは、
「これによって、まだ知らない自分に出会えるのではないか。」
30年も前、
あの課長は言った。
「大丈夫。そんな時代は来ないから」
でも、来た。
しかも、
あのとき僕らが想像していたより、
はるかに大きな形で来た。
だから僕は、
AIについてだけは、
同じ言葉を言いたくない。
「そんな時代は来ない」ではなく、
「そんな時代が来たら、僕たちはどこまで行けるのだろう。」
僕は、
そちらを見ていたい。
