六時十分【拝啓文芸部|壁の向こうの隣人】
六時十分
築五十二年の団地の三階、三〇五号室と三〇六号室を、私はまとめて買った。
二戸一、と不動産屋は言った。隣り合った二部屋を買って、あいだの壁を抜き、ひとつの住まいにする。エレベーターのない五階建て、駅からバスで十五分。それでも二部屋合わせて、都心のワンルームより安かった。
ひとりで住むには広すぎる。けれど、広すぎるくらいでちょうどいいと思った。私にはもう、誰かと住む予定がない。
解体の前日、鍵を受け取って最後の確認に入った。三〇六号室の天袋の奥に、古い菓子の缶が押し込まれていた。錆びた蓋を開けると、大学ノートが四冊、重ねて入っていた。
表紙に名前はない。開くと、細かい鉛筆の字が並んでいた。
日記だった。しかもそれは、誰かに宛てて書かれていた。
『四月三日 晴
今朝も六時十分に、あなたの雨戸が開く音がしました。この音で目を覚ますようになって、もう何年になるでしょう。目覚まし時計より正確です。』
『六月十一日
あなたが夜中に咳をしていました。長く続くので心配になって、つい壁に耳をつけてしまいました。失礼なことをしました。すみません。』
『八月二日
寝る前に、壁を二度、叩いてみました。おやすみなさい、のつもりでした。
返事などあるはずがないと思っていたのに、しばらくして、二度、返ってきました。
嬉しくて、その晩はなかなか眠れませんでした。』
『九月十五日
今日は台風でした。午後、風がひどく鳴っていたので、壁を二度叩きました。二度、返ってきました。それだけで、ずいぶん心強いものです。』
『十一月十九日
あなたの雨戸が開きません。』
『十一月二十日
開きません。』
『十一月二十四日
自治会の方に伺いました。先週、施設に入られたそうです。息子さんが車で迎えに来られたと。
私は何も知りませんでした。廊下で顔を合わせれば会釈をする、その程度の間柄でしたから、知らせが来るはずもありません。』
『十二月三日
音がないというのは、こんなに広いものなのですね。
朝、六時十分に目が覚めます。何も聞こえません。それから、起きる理由を探すのに、少し時間がかかります。』
『一月八日
壁は、思っていたよりずっと厚いのでした。
四十年、この一枚を隔てて暮らしてきて、私はあなたの声を、三度ほどしか聞いたことがありません。』
『三月一日
寝る前に、壁を二度叩きます。
返事はありません。それでも叩きます。
おやすみなさい。』
ノートはそこで終わっていた。
不動産屋に尋ねると、三〇六号室の方はその年の秋に亡くなったという。三〇五号室の方がいまも施設におられるのかどうかは、分かりませんと言われた。
日記のどこにも、あなたの名前は書かれていなかった。表札を見れば分かったはずなのに、最後まで「あなた」のままだった。名前を呼ぶには、四十年は短すぎたのだろうか。
翌朝、解体が始まる。
職人さんが来る前に、私は三〇六号室に入り、あの壁の前に立った。
今日にはこの壁はなくなる。二つの部屋はひとつになって、私はその真ん中を、スリッパで何の気なしに通り過ぎるようになるのだろう。
私は壁を、二度、叩いた。
向こうはもう、私の部屋だ。返事があるはずがない。
それでも、少しだけ待った。
ずいぶん遅い工事だと思った。
あとがき
最後まで『六時十分』を読んでくださり、ありがとうございます。
今回は、拝啓文芸部のお題「壁の向こうの隣人」に参加しました。
名前を呼び合うほど親しくなくても、いつもの生活音や、壁越しに返ってくる小さな音が、誰かの支えになることがある。そんな二人の距離を、感じていただけたらうれしいです。
皆さんにも、聞こえると少し安心する音はありますか。よければ、感想とともにコメントで教えてください。すべてのコメントに返信します。
この作品は「拝啓文芸部」のお題に参加しています。
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