山あり谷あり?デザイナーキャリアナイト 開催レポート
デザイナーとしてのキャリアの分岐点や、思いがけない挫折、異業種の経験──そのすべてが「自分らしいあり方」や新しい挑戦につながっている。デザイナーキャリアナイトでは、4人のデザイナージャーニーをたどりながら、彼らがどんな道を歩み、悩みながらも何を見つけてきたのか、リアルな声をお届けします。
イベントでは、Designship 2025のセッションテーマでもある、デザイナーとしての人生年表「デザイナージャーニー」を参考にしたスライドを、登壇者それぞれに用意していただきました。自身のデザイナージャーニーを映しながらおこなわれた、登壇者4人の自己紹介パートを振り返っていきたいと思います。

モデレーター
スピーカー
國光俊樹さん─本質的な課題にどうデザインで貢献できるか

──國光さんのご経歴について教えてください。
元々グラフィックデザイナー出身で、2社目でWebデザイナー兼ディレクターをやって、3社目にGoodpatchというデザイン会社でUXデザイナーをして、いまは株式会社Algomaticで事業経営に携わっているという感じです。
──そもそも「デザインの道に進もう」と決断したきっかけについても教えていただけますか?
元々工業系の高等学校で勉強していて、5年制の学校に20歳まで通っていました。溶接やプログラミング、ロボット作りなどをやっていたのですが、「自分はこういうことに興味ないな」と思うようになりました。もっと「元から作る」何かをやりたいなと考えて、そこからいろいろ調べた結果、「元から考える」仕事ってデザインだなと気づいて。それでデザインの専門学校に進むことにしました。
──1社目での経験はどんなものでしたか?
有名なアートディレクターの事務所に新卒で入ったのですが、そこではクオリティのために寝食を忘れるほどデザインにどっぷりと没頭するような、とても刺激的で密度の濃い環境でした。
その後転職して、2社目でWebデザイナー兼ディレクターとして、Webデザインをしていたのですが、会社の事業方針の転換があり、オペレーショナルな要素が強くなってしまったため、次の挑戦をしたいなと思い、27歳のときにGoodpatchに入りました。

──いろいろな苦労や変化があったんですね。スライドに書かれている「消費されるデザイン」という言葉について、もう少し教えていただけますか?
2社目でWebデザイナーとして働いていたときに感じたのですが、広告系やLPの制作など、次々に仕事は来るけどただ消費されていってしまう感覚というか、誰かに何かを残せている手応えを感じられていないなとある時ふと気付きました。たとえば、アウトプットとしてLP作りました、キャンペーンをやりました、で終わってしまうことの繰り返しの中で、これが自分のやりたいことなのかなと、僕の中で1回見直したというのがありますね。
最初はグラフィックデザイン、そこからWebデザイン、UXデザイン、事業開発というように、段々と軸足を変えながら、「自分が何をやりたいか」よりも「誰かに価値を提供するためにはどうしたらいいか」を模索してきました。その結果、職域がどんどん広がっていきました。
正直、軸足を変える度にうまく行かずに悩んでいますが、「これからの世の中はどうなっていくんだろう」「自分は世の中にどんな価値を残したいんだろう」という問いと向き合い続けながら、都度選択してきた結果、気付けば今のような仕事の形になっていたのかなと思います。
今後も「デザイナー」というラベルにとらわれず、社会や事業にどう向き合うか、本質的な課題にどう向き合い、デザインだけに捉われず手段を問わず貢献できるかを大事にしたいですね。
塩月慶子さん─相手の思いに寄り添い、一緒により良いゴールを考える

──塩月さんはどんな会社で働かれているんですか?
私が働いているライトライトという会社は、地域の事業承継をプロダクトで解決できないかと、事業を譲りたい方と継ぎたい方をつなげる"relay"という事業承継プラットフォームを作っています。
──どんなきっかけでデザイナーとしてのキャリアを始められたんですか?
私の最初のキャリアはインダストリアルデザインからでした。いま40代なのですが、大学生のときにちょうど深沢直人さんのINFOBARが話題になっていて、「INFOBARめちゃくちゃかっこいい!」となりまして。私もこれをやりたいと憧れて、携帯端末を作っているメーカーに就職しました。
「東京で華々しいデザイナー生活が始まる!」と胸を膨らませていたのですが、現実は工場に併設された、想像を遥かに超える田舎の職場でした。理想のデザイナー像を思い描きすぎていた私には、そのギャップがなかなか受け入れられませんでした。実際に働き始めると仕事自体は面白く、夢中になれる部分もありましたが、デザイナーとはこうあるべき。にすごく囚われていた時代でしたね。最終的には、iPhoneの登場により、日本における携帯端末市場が急速に衰退し、転職に至りました。
その後は地元の福岡に帰って、グラフィック系の会社で働きながら、なんかこう煮え切らないところがあって。次こそは東京で働きたいなと考えていたのですが、結局は宮崎に行くことになりまして、全然違う方向に進んでいる感覚がありました。自分の理想としているデザイナー像と、自分の向かっている方向が違うなかで挫折を感じて、デザインはもういいやと思い辞めてしまいました。

──デザイナーではなかった期間に、どんなことをされていたんですか?
クラウドファンディングというのがちょうど流行り始めて、そこのキュレーター兼セールスみたいな仕事をしていました。いままではデザイナーとしての視点でしか物事を見ていなかったのですが、違う世界から物事を見るようになって。相手がどんな思いで依頼してるのかとか、月末の数字を達成するためにこんなに必死なっているのか、など。そういったことを実際に自分で経験することができました。
──デザイナーとして再スタートを切ったあとは、どんな視点の変化があったと感じますか?
デザイナーを辞める前って、私の中で「デザイナー中二病時代」と言っているのですが、本当にデザインが大好きだったのだと思います。バウハウスとかが好きだし、かっこいいものを作りたくて、とにかく中二病をこじらせていました。セールスなどの仕事を経験するなかで、自分も目標数字を課せられるけど達成できない、みたいなことを繰り返すなかで、いろんな職種の方が真剣に働いていることに気づいて。
一度デザイナーを離れて異業種を経験したからこそ「他の職種の人の目線」や「視野の広がり」を実感しました。当時は本当に悩んで、正直デザイナーに戻ろうとは思っていなかったのですが、それでも戻ってみたことで「もっと自分なりの支援ができそうだ」と思えるようになりました。
いまはCDOとして働く中で、「相手の目標や思いに寄り添いながら、一緒により良いゴールを考える」ことをすごく大切にしています。理想のキャリアはひとつじゃないし、遠回りや挫折に思える経験が、実は大事だったりもするので、自分の道を信じてほしいなと思います。
細見沙央梨さん─「モヤモヤ」や「違和感」を大事にする

──細見さんの現在の活動について教えてください。
いまはLINEヤフー株式会社でデザイナーをしているのと、一般社団法人デザインシップでDesignshipというカンファレンスや、Designship Doという教育スクールなどを運営しています。
──どんな形でデザイナーという仕事に出会ったのでしょうか?
大学を決めるときは、将来のことを考えて一般大学の文系・情報学科に進みました。大学では単位を早めに取り終えていたので、「最後の学生生活の思い出に、かねてから興味のあったデザインを勉強してみよう」と思ったのがきっかけですね。その後、ありがたいことにヤフー株式会社にデザイナーとして採用していただいて、そこでデザイナーとしての人生が始まりました。
──ヤフーでの経験を経てどんな気づきがありましたか?
Yahoo! JAPANのトップページのデザインを担当するなかで、「社会の役に立てるのはすごい嬉しいな」と感じました。同じ頃に、仲間と共にものづくりをする楽しさに夢中になり、ハッカソンにも頻繁に参加していました。。そうした経験から、会社の依頼で社内外に向けて勉強会を開催したいという話をいただいて、小さい規模のイベントをたくさん開催するようになりました。
当時、エンジニアの大きなイベントはあったのですが、デジタル業界のデザイナーもまだ少なくて、デザインの知を共有するイベントも多くはありませんでした。デザイン業界を盛り上げていきたい、もっと貢献したいということで、ちょうど8年前ぐらいにDesignshipというカンファレンスを立ち上げました。

──デザイン業界に対する想いがきっかけだったんですね。その後、大学院での学び直しという大きな決断もされていますが、その理由をぜひ聞かせてください。
コロナという環境的な変化と、徐々に自分の活動全般がマネジメント業務に移行していったことで、いま自分が持っている武器では戦えないなと感じていました。もともと学ぶことが好きだったので、新しい学びがあれば突破できるのではないかと思い、最初は短期スクールから始めて、最終的には武蔵野美術大学の大学院に進むことにしました。
大学院では竹を扱うアーティストさんに弟子入りしていたのですが、竹細工で使う刃物への恐怖感がどうしても消えなくて。どう頑張っても乗り越えられないものがあるなと感じて、例えば体力を使うものは向かないなとか、そういった意味で学びの中で自分の適性や限界を掴むことができたと感じています。
──これまで様々なプロジェクトや学び直しなど、行動の背景には一貫した軸のようなものが感じられます。どんなことを大切にされてきたのでしょうか?
感じた「モヤモヤ」や「違和感」を大事にして、納得するまで突き詰めてみる。それが自分らしいデザイナー人生の歩み方なんじゃないかな、と考えています。いろんな手段や分野を行き来してきたけれど、「自分の輪郭」を見つけたり、その時々で自分が美しいと思える仕事を追いかけてきて、本当に良かったなと思います。これからも学び続ける姿勢や、「何かを創りたい」という純粋な気持ちは大切にしていきたいですね。
松下由季さん─挫折しながら自分ができることを知っていく

──松下さんがデザイナーを目指したきっかけは何でしたか?
もともと絵を描くことは好きだったのですが、その分野ではなかなか「食っていく」ことは難しいのではという認識があり、進路を考えるとき、最初は薬剤師もあり?と考えていたりもしたのですが、化学が嫌いで断念しました笑。その後、デザイナーという職業があるんだと知り、デザイナーを目指すことにしました。当時は華やかなWebサイトやインスタレーションなどがめちゃくちゃ盛り上がってる時期で、私が最初に入社した制作会社も、そういった分野を含めて手がけていました。
──グラフィックデザインの会社からの転職や、新しい役割との向き合い方などをどんなふうに捉えてこられましたか?
グラフィックデザインの要素が強いWebやアプリのデザインを中心にやっていたんですが、ワークライフバランスや、求められる資質みたいなものが自分には合っていないなと感じて、転職することにしました。
アートディレクション中心に求められる会社ではまたミスマッチが起きてしまうかもと思っていた中で、最終的なアウトプットだけではなく、前提から考える方が自分は向いているのではないかという気持ちになり、事業会社で働くのもアリかもと思ったのが転機になりました。そういった経緯でLINEヤフーに入社することになりました。
──LINEヤフーでは実際どんな経験を?
LINEヤフーは当時、新規のメディアサービスの企画が立ち上がっていたタイミングで、その立ち上げから運用まで携わりました。ユーザー調査や数値分析など、これまで関わりがなかった領域も含め、プロダクトデザインの一連のことを楽しく経験できました。ただ、サービス創設者の方が離れたりといった出来事があり、ビジョンが空白になっていき、サービスの向かうべき方向を見失っていくのを感じていました。
その頃、ご縁があってnoteで副業してた時代がありました。当時、代表の加藤さんやCXOの深津さんが直接関わる開発ラインがひとつだけ、という規模感だったので、かなり密にコミュニケーションする機会がありました。彼らのビジョンのブレなさや判断力、戦略が一貫していたのを側で見ていて、もっとここで経験を積みたいなと思いnoteに転職しました。

──やはり成長を求めて移った先で新しい刺激を受けていたんですね。noteではどんな役割を担当されましたか?
規模感が小さい会社にありがちだと思うのですが、PMがいなかったので、デザイナーやエンジニアが近しいことをやっていました。でもサービスや会社が大きくなるに従い、専任のPMが入社したり、PMという職種にすごく期待されるようになってしまって。見える景色が変わりすぎてしまい、そもそもPMなのか私は…みたいな感覚があり、迷いがでてきました。
そんななかでも、PMや経営層の意思決定のためにリサーチを活用できるのではないかとか、デザインよりも拡張した動き方の方が自分にあっているのではないか、など自分がやれることを考えながら動いていました。結果的にやれることや視野は広がったので、何とか自分の使いどころを見つけられそうだと思えるようになりました。
──ご自身の今後や、デザイナーとして大事にしたいことがあればぜひ教えてください。
私の場合は「挫折しながら自分を知っていく」ことの連続だったかなと思っています。グラフィック中心で生きていこうとしたけれど無理かもしれない、じゃあ事業会社でPMやリサーチに手を広げてみる…というふうに、ずっと模索の連続です。でも、不安や迷いがあっても「自分ができること」をやりながら楽しんでいるうちに、自分の強みや居場所を見つけてこれたと感じています。アウトプットだけじゃなくプロセスも楽しめる、そんな働き方もあるんだぞ、ということを伝えられたら嬉しいです。
執筆・写真:zackie
