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明暗Ⅱ 二百二十三

夏目漱石の絶筆[明暗]の続きがあればどうなったのか。それを私の解釈のもと書いている小説です。189章より連載中。マガジン一覧をどうぞ。



 庭園に出ると、日は温かかった。小春日和の光がお延の眼を眩しくさせた。お延は思わず手を翳して日を遮りながら外に出た一行からすこし離れて庭を眺めはじめた。まるで何処か風情のある郊外へ遊びに来た様な気になり、彼女は清々しい景色に少し浮かれた。池までの石畳の脇には山茶花が点々と咲いていた。遠くからは寒椿かと思われたが、近づくと地面へ白い花弁が幾らか落ちていた。そうしてお延は赤と白の花を横目に、向こうに母屋の屋根が見えた時、ここが邸宅であることをやっと思い出した。
 池は見事に大小の岩で囲まれていた。渓谷を思わせる奥から、だんだんと手前になるほど大人しくなるよう岩組が設えられていた。その途中には小さな橋代わりの平石が掛かっていた。大袈裟な橋が拵えられていないのを、お延は却って粋な物として感心した。向こうには一休みするための腰掛けが置かれ、宗一郎は継子に何かと指を差しながら庭を話して聴かせているのが見えた。お延はその二人からずっと後ろで離れた位置にいた。ほかの皆も二人が談笑する邪魔にならぬよう、池の此方側へ控えていた。
 主役の二人が橋の向こうへ行こうかと云う段になった頃、一行はほっとしたように空気が弛んだ。それぞれが落ち着きを取り戻すと、大人達はてんでばらばらの方へ散策を始めた。

 吉川と三好の父は小山と吉川夫人の近くに寄っていった。話す声は此方にも判然するほど弾んでいた。お延の側には岡本夫妻がいた。其処に三好の母が加わると住が三好の母へ今日の礼を述べた。
「宗一郎さんはご立派な紳士でいらっしゃいますこと。お母様のご教育が宜しかったのね」
「私は何にもしてないのですよ。良人は何をするにも一々口をだす性質なもので、宗一郎も独逸(ドイツ)に行く時なんて「あっちにゃ父が居ないから却って気楽かもしれません」なんて云う始末だったんですもの」
「まぁ。熱心なこと」
「それにしても継子さんは、謹み深くて品もおありだこと。なんでも、お稽古ごとにも造詣が深いとお聴きしましたわ。真面目な好い娘さんを持って、ご安心でしょう」
「ハハハ!娘は真面目に見えて、あれで中々強情なところもありましてな。熱心は感心でも、果たしてお嬢様らしくは仕上がりませんでした」
「そんなご謙遜を。ご立派なお嬢様ではありませんか」
 口々にお互いの両親が子を褒め合うのを見て、お延は居心地が悪かった。単に話に入れないためというよりも、ほかへ気を遣わせるのも悪い気がした。それでそっと輪を抜けると、庭を見て廻る振りをしながら、向こうへ行った継子と三好を遠目に眺めた。此方から見ていても宗一郎が継子に先回りして善く気を配るのが伺えた。
 すると不意に、継子はくるりと振り向いた。控えめにきょろきょろと辺りを見回す彼女の顔に、どこか焦りが滲んでいる様にも見えた。お延はどうしたのかと思っていると、継子の顔はお延を見つけて静止した。そうして彼女は遠目にも判るほど、安堵していた。
 お延は継子にだけ判るように右手を自身の襟元に添えた。其処には昨日約束した通りに揃いの櫛が納まっていた。その仕草を見た継子は、ぐっと何かを堪えるように微笑ったように見えた。距離があったために、お延の目には明瞭ではなかった。しかし継子は一度頷くように首を動かした後、再び宗一郎の方へ顔を向けた。お延はそれで息を吐いた。

 そのままお延は庭を見て廻っていた。池には鯉が数匹泳いでいた。お延が寄ると、赤と黒の鯉は一斉に近寄ってきては口を開けていた。お延がなんともなく水辺を眺めていると、後ろから岡本が声をかけた。
「お延、今日は来てくれてご苦労だったね。継はお前が来てくれて、屹度安心したろう」
「まぁ大袈裟よ。それにしても宗一郎さんは本当に好い方ね。継子さんも前よりずっと安心してるんじゃなくって」
「うん。今朝は落ち着かなくてね。何を訊いても黙ってばっかりだったから、おれはもう参ってしまってたんだが。こうして見てると一寸は気楽になったようだ」
「叔父さんが一番、はらはらしたんじゃなくって」
「そりゃするとも。お前の時は、立派に引っ張ってくれるもんだから何の心配もしてなかったんだから。継ときたら、お前とはまるで違うんだから。こっちはそりゃ難儀なもんさ」
 お延はいつも通りの軽口を装いながらも、岡本の云う自分と継子の差について、また一つ淋しくなった。
 お延は自身の結婚に於いて、周囲の意向をまるで問題とは考えたことがなかった。この人こそと、猛烈に突き進んだ己は、あの頃確かにいた。現在の位地に確信を持っていたお延が、他所から見れば何の障害もないものと映るのは当然でもあった。お延自身ですら過去の己に津田への疑いなど、ひとつとしてありはしなかったのである。
「継が今度で決まってくれたら、おれとしてはもう云う事がないんだがね」
「そりゃ……急がせちゃ気の毒よ。継子さんに好く配慮なさるのでしょう」
「もちろん、そりゃそうだがね……」
 そこで岡本は、少し声を落とした。
「まぁ……こないだの芝居の幕間なんか、ありゃ正式な席じゃない。でもこんだのはそうもいかないからね。これで違ったことになっちゃ、一寸面倒なことにもなりかねないんだから」
「まぁ……。でも屹度、叔父さんは継子さんを大事になさるお積りよね?」
 お延には、破談となる時の両家の苦労は無論判っていた。一方でそれを押して無理をする岡本で無いことも判っていた。それでも矢張り、一抹の不安は確かにあった。
「そりゃそうだよ。うん。お前達には何も心配は要らないよ。いざとなったら叔父さんが上手くやるんだからね。お延……よくやって呉れたね」
「もう。本当に叔父さんはしつこいのね。あたし、何にもしちゃないわ」
 お延は岡本が如何にも小さく遠慮するのが可笑しくなった。岡本の方では未だ云い足らぬのか、わざとらしく咳払いをした。
「……なぁお延。叔父さんを恨んじゃいないかい」
「なぜ。どうしてあたしが叔父さんを恨んだりするの。そんなことありゃしないわ」
 お延は三好に着いた時から岡本が何やら云いたげな様子を思い出した。恨むなど大袈裟な言葉は、お延へ櫛を押し付けたことを気にしているのかもしれなかった。
「あたし、何かおかしくって?」
「いいや……お延、本当は由雄くんに着いて行きたかったんじゃないのかい。温泉へ行く予定があったんじゃないか。もしそんな折にね、叔父さんが無理を云ったから東京にひとり残ることになっちまったんじゃないのかね。お延、我慢をしてないかい」
「そんなことないわ」
「叔父さんは知らなくってね。昨日、由雄くんから絵葉書が届いたろう。それで、お延が我慢してたんじゃ大変だと思ったのさ。お時と二人ぎりじゃ、さぞ心細いんじゃないのかい。水臭い事を考えなくたっていいんだ。人が足りなきゃ叔父さんの方で家から人を遣ったって構わないんだからね」
「大袈裟よ。お時と二人で充分やれてるわ。それにこないだ叔父さんには小切手まで戴いたもの。もう十分よ。ありがとう」
 お延はやっと合点がいった。岡本へ届いた津田の絵葉書は自分とはまるで別の方向から、岡本にも疑いを抱かせていた。
 津田がそれとなく、お延を置いて一人で温泉へ行くことを選んだのではないか。お延には既に、この点は予測と確信との境が判らなくなっていた。それでほとんど事実として承知していた。口ではお延を誘っていた津田ではあったが、彼女を連れていくことの不利益を次々と並べる夫は饒舌であった。その時は是としたお延であっても、ひとつの暗い疑いは未だに胸で燻っていた。だからと云って、それを岡本へ打ち明けるには、お延が着込んだ衣は容易く出来上がってはいなかった。津田とお延の間に不和が生じていると、岡本に感じ取られる方が彼女にとっては酷く苦痛であった。お延は慌てて後を付け足した。
「だって、あたしが居なくっても津田は一人で大丈夫だもの。それに津田はちゃんとあたしを誘ってくれたのよ。それをあたしの方で行かないって決めたのよ」
「叔父さんは由雄くんを問題にしちゃないんだよ。薄情かもしれんがね。それでもお前が大丈夫かをちゃんと確認したかったのさ」
 お延はそこで、思わず立ち止まった。すぐに先を云わなくてはという必要とは反対に、お延の口はきゅっと一度結ばれた。

 すると小山といた筈の吉川夫人が此方へ向かってくるのが見えた。お延は急いで、吉川夫人へ愛嬌のある顔を整えた。
「お二人とも此方にいらしたの。まぁ本当に今日は好い日になったこと。何か二人でお話しなすってたの。お邪魔でなかったかしら」
「吉川夫人もご足労戴いてありがとう。なに、大したことじゃないんですがね。津田くんが温泉へ療養に行ったんでね。お延の方で不足がないかとちょいと訊いてたんです」
「あら。津田さんの……」
 そこで吉川夫人は曖昧に返事をした。お延は自分が何と口を挟むのかを思案したが、それより先に岡本が大きく笑った。
「ハハハ!なに、由雄くんは実に律儀な男で義理堅いとこがある。おれに逗留を葉書で報せてくれたんです。如何にも良い場所だってんで。療養の都合といえ、羨ましいもんですな」
「ほほほ。そりゃ津田さんはいつも義理堅くいらっしゃるもの。お延さんにも絵葉書は届いてらして?」
「はい。昨日の朝に。随分と良い場所だそうで、夫人には大変感謝しております」
「そりゃ良人からしても津田さんは大事な部下よ。私も、津田さんがしっかり御療養なされたら安心だもの」
「そりゃ吉川さんは太っ腹だね。勤めを休んでも構わないと許可を出すのは大層部下思いに違いない。おれの方じゃ、姪のことばっかりになっちまって、なんとも情け無いもんだね」
「まぁ。岡本さんは姪御さんを御大事になさってらっしゃること。延子さんから先程伺ったの。この素敵な簪も岡本さんからのだって」
 お延は先ほどまで、吉川夫人から意図して拾われなかった紅玉について、彼女が岡本を引き上げるために利用するのを見るや、内心で鼻白んだ。それでいて、吉川夫人は得た情報だけはしっかりと掴んで離さないでおける、その握力には感心した。
「お延、好く似合ってるね。こいつは二十歳の折に、淑女になるんだからとこっちで見繕ったんです。時には女の格ってもんがあるんでしょう。おれはそのところがトンと疎いんで、あれこれと宝飾屋から聴きましたよ。やっぱり女は大変だね、こう云うとこになると」
「まぁ、ご立派なお心掛けだこと。延子さんはこういう華やかなお品もしっかりお似合いでらっしゃるんだから、さすがね。嫁いでから幾らも経っちゃないのに、こうも立派な奥様らしいのですから、岡本さんも鼻が高いのでしょう」
 お延は自分を他所に進む話を愛想よく聴いていた。夫人の岡本へというよりお延へ向けた愛嬌が、何故だか途端に増えたのであった。様子が翻ったことを俊敏に感じたために、お延はこの機を逃すことをしなかった。
「そう云っていただけるなど光栄ですわ。夫人はいつも、装いも素敵でいらっしゃいますもの」
「お上手ね。……延子さん、おひとりで淋しくなくって?」
「いいえ。津田の方では一人ゆっくりするのも良いのではないかと。私が居たのでは、何かと気を遣うこともあるでしょう」
「まぁ、なんて出来た奥様なのかしら。結婚したばかりで、そう夫へ親切になれる方は滅多にいやしない。ねぇ岡本さん」
「まぁお延は、昔っから肝が座ってるところがあるからね。それでもお延、困った事があったらすぐに云うんだよ。おれに遠慮することなんかありゃしないんだからね」
「叔父様ったら、ご心配なさらないで。私は大丈夫ですわ」
 夫人の手前、お延は平生より改まった口調でこう答えた。岡本は満足気にお延を眺めていた。吉川夫人は微笑を湛えながらも、明らかに会席の頃より余計にお延へ愛嬌を使った。
 お延からすると、吉川夫人がお延をどう扱いたいのかは未だに判然としなかった。社交から弾きたい意図は先程迄、確かにあった。そしてお延には、夫人の方ではお延を単に嫌っていると纏められぬ何かがあるのも既に判っていた。それでいて、岡本の前だからと多めに愛想を使うにしても、夫人の愛想は分量が大きすぎた。お延はそれが岡本への世辞なのか、他にも意図があるのかをしばらく逡巡した。


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